あの人だけが世界の全てと 思っていたのも嘘ではないのに。



青学の柱になれと云われてから、全国しか見えなくなった。
地区大会と都大会を勝ち進み、関東大会で肘と肩が壊れても、それはずっと変わらなかった。
初夏の蒸し暑い外気に囲まれた夜、街灯の下で乾にあの人は居ないのだと云われ、
好きだと云われて、あの人の事を忘れると嘘をついた。本当は一瞬たりとも忘れた事など無かったのに。
あの時何故そんな言葉を口にしたのかもう良く分からない。
乾が自分の事を好きだ、と云ったからか。本気で想ってくれたからか。
凝固しきった大義名分の真裏を少しだけ、かき混ぜられたからなのか。
けれどその言葉を聞いた乾は喜ばなかった。三年間自分を見続けていたという男にとっては、
きっとこちらのついた嘘など瞬間的に見抜いていたのだろう。
目の前の男を傷つけてしまった事に苦い後悔が胸をよぎったが、
しかし、だからといって今更言葉を撤回する事も、況やあの人の存在を忘れる事も不可能だった。
自分の存在理由を教示してくれたあの人を意識から消すという事は、即ち自分が無くなるという事と同意義だからだ。
左腕にはらむ熱と倦んだ痛みは、あの人と過ごした時間や思い出と直結し、時折自分をひどく感傷的な気分にさせた。
だから必死でリハビリをした。怪我を完治させ、夢にまで見た全国大会に出場し、夢にまで見た決勝戦で試合をし、優勝をした。
それなのにそこで乾は傷ついて、あの人はいないままだった。
左腕が腫れて痛む。肩はもう上がらない。それはいい。自分が傷つくのも、あの人がいない事も全て承知の上だ。
けれど乾が誰かに傷つけられるのは、何かが違うと思った。
夢にまで見た全国大会で得た優勝旗は重くて、部員達は皆歓喜に湧いていて、
それなのに頂点に上り詰めた瞬間、目的と存在理由を同時に失った自分は、
自分の中は、怖いくらいの伽藍堂で、何もかもがぽっかりと欠落してしまったような気がした。

昨年の誕生日、乾から一冊の日記帳を貰った。
日頃自分が日記を書いていると、彼に話した事など忘れていたが、
手渡された本屋の紙袋からは自分が愛用している日記帳の来年度版が現れた。
気持ちはとても嬉しいけれど、この日記帳自体安いものでは無かったから、
一旦は貰えないと断ったが、乾は気にしなくていいから、と笑うだけでさっさと自分の教室に戻っていった。
ひょろりと長い後ろ姿を見送るともなく見送った後、掌にずっしりと載せられた日記帳に視線を落とす。
布厚の表紙地に散るまろやかな松や牡丹の模様。函から取り出しそっと頁を割り開くと、嗅ぎ慣れた紙の新しい匂いがたちのぼる。
パラパラと無造作に頁を捲れば、ある場所に栞が挟まれている事に気づいた。
そこに指を這わせ、日付を確認して、思わず苦笑する。
赤ペンでぐるりと丸を付けてあるそこは、乾の誕生日だったからだ。

次の年の一月一日から、勿論丸の付けられたその日も休む事無く日記を書き、
宮崎でリハビリを行っていた際もそれを持っていった。日記帳に向き合うという事は、自分自身と向き合うという事だと思う。
その時自分が考えた事、感じた事、言葉にしなかった事、それらを文字にし紙面に書き付けていく事によって、
自然自分の中の未整理だったものが少しずつ整理されていく。己と向き合う、その静かな一人きりの作業が好きだった。
好きだった、筈なのに。全国で優勝をしてから五日間、何故かずっと、日記帳を開く事が出来ないでいる。
左腕を蝕んでいた痛みと熱は大分引き、長時間でなければペンを持つ事も可能だった。
机の上には、ぽつんと所在無げに日記帳が置かれている。目が覚めてから、ベッドに腰を下ろしたままそちらに視線を向け、
次に壁に掛けられた時計を見遣る。五日。自分と向き合えなくなったのは、自分の感情が今までに無く混沌としているからだ。
その時、左腕がじくりと鈍く痛み、頭を軽く横に振った。少し、違う。日記帳と向き合えなくなったのは、乾を思い出すからだ。
テニスコートで、血だらけで、動かなくなった乾を。あの姿を見てから、ずっと、自分の奥底で消えない感情が燻っている。
恐怖、怒り、哀しさ、虚しさ。形容しがたいそれらが混ざり合い、焦燥感を伴って自分を追い立てる。
大きく息を吐いて、傍に置いてあった眼鏡を掛けると、ゆっくりとベッドから立ち上がった。
机に近づき、置かれた日記帳の表面を指の腹でそっとなぞり、頁を開く。
五日間の空白。
あの人がいなくなってからも、関東大会で腕を負傷しても、乾に好きだと云われた時も、変わらず書き続けてきたのに。
今胸の内に存在しているこの混沌とした感情をそのままここに書き記せば、答えは見つかるのだろうか。
ぼんやりとそんな事を考えながら、生成り色の紙面に視線を巡らせ続けた。
頁の一番最初から途切れる直前まで、絶え間なく書き連ねてきた全国という文字。

全国、全国全国全国全国全国全国全国全国全国全国全国全国全国全国全国全国。

その文字を追えば追う程、自分の書いた言葉の意味は呆気なく消失し、
それは次第にただ視界の上辺を滑る黒いインクの記号でしか捉えられなくなっていく。

 「…答えなど、見つかる訳がないだろう」

知らず一人でに乾いた声が出ていた。そう、見つかる訳が無いのだ。
自分をこんな混沌に陥れた、その原因であろう人物と、会わない限りは。

夏場、外から病院内に入った時に感じる極端な温度差には、いつ訪れても慣れる事がない。
早朝の院内は診察待ちの患者もまだ少なく、ロビーは静かでがらんとしていた。
駅から走ってきた所為で額に浮かんでは伝う汗を無造作に拭うと、
大石から聞いて手近な紙に控えた病室の番号を再度確認し、エレベーターに乗る。
上昇していく感覚すら分からない程、ひどく緊張していた。本来ならもっと早く来なければならなかったのに。
今までずっと頭の隅で、部長としての自分が正論をかざして責め続けていたが、どうしても足が竦んで動けなかった。
何故会えなかったのか。何故動けなかったのか。部長としての役割を放棄してまで身体が拒絶したのは何故なのか。
握りしめてくしゃくしゃになった紙片をじっと見つめる。
しかし思考がまとまるより先に目的の階へと到着してしまったエレベーターから放り出され、
リノリウムの白く無機質な廊下を歩きながら、心臓の音が先程よりも大きくなっている事に気づいた。
指先がとても冷えきっている事にも。それでも脚は歩みを止めない。一直線、ただひたすらに。
乾は個室を宛がわれていた。目の前の扉をノックした。拳に力が入り過ぎてその音はやたら大きく響いた。
中から応答の声が聴こえた、ような気がしたけれどその確信を得るより前に自ら扉を開けてしまったから、良く分からない。
カーテンを開けてあるのだろう朝の日差しをたっぷりと受けた病室内に一歩足を踏み入れた瞬間、眩しさで思わず瞳を細めてしまう。

 「手塚?」

声のする方を見ると、白いベッドで上体だけを起こした乾が驚いた様子でこちらを見ていた。
顔の包帯は額だけになり、目や口の端に湿布のようなものがべたべたと貼り付けられている。
腫れは幾分か引いているのだろうが、顔には痣と傷が未だ痛々しく残っていた。
裸眼で見辛い所為か、両目を軽く眇めつつ、乾は信じられないものを見るような顔でこちらを見ている。

 「手塚、だよな?」
 「…あぁ」
 「なんか、久しぶり。左腕は大丈夫か?」

心臓の辺りがぐ、と痛んだ。乾の方が見るからに重症で、
見るからに満身創痍だというのに、五日ぶりに会った台詞がこちらを心配するそれか。
胸の痛みはたちまち喉まで広がり、声が出せなくなる。この男はどれだけ人が好いんだ。

 「色変わるくらい腫れてたし、骨までいってないか心配だったんだけど、ちゃんと病院行った?」

こちらを見る乾の顔を見返す事が出来なくて、項垂れたままただ首を振る。
痛んだ胸がどうしようもなくざわざわして、落ち着かない。

 「え。駄目だろ行かないと」
 「そうじゃない!」

やっと声が出た。張り詰めていた喉に息が通り、そこから感情がとめどなく堰を切ったように溢れてくる。

 「…っ、俺は、お前をこんな風に、傷つけてまで全国優勝したかった訳じゃない」
 「……」

乾がどんな顔をしているのか分からない。無意識に、自分の右手は左腕を掴んでいた。
これはあの人のもので、青学のもので、全国制覇する為には犠牲すら厭わない、その覚悟で今までテニスをしてきた。
壊れてもいい、使えなくなってもいい、そう思っていたのは自分の中の揺るぎない事実で。

 「俺は、大丈夫だよ」

唐突に耳に降ってきた声は余りにも普段通りの淡々とした静かな語り口調で、
おそらく安心させるよう告げたのだろうそれは逆に自分の神経を見事に逆撫でした。
聴きたいのはそんな言葉では無いのに。

 「全然、大丈夫じゃないだろう」

左手で作った拳にはなかなか力が入らず、小刻みに震えてしまう。
自分でもひどく狼狽していると思った。けれど身体の震えは止まらない。
傷ついた乾を見て奥底から湧き上がってきたもの。それは恐怖、に近いものかもしれなかった。
この男を失うかもしれない、という底知れない恐怖。

 「俺は肘の事は覚悟の上でテニスをしてきた。だからいいんだ。青学が全国で優勝出来るなら、これくらいの犠牲は厭わない」

けれど。自分と同じように、
「青学の為に」傷を負った乾を見てその事実が崩壊し始めているのも、確かな事実で。

 「だが、お前は違う。お前が傷つくのは駄目だ。優勝したのに、そこにお前が居なければ…全然意味が無い」
 「手塚」

こっち向いて。
突然静かな声でそう云われ、ビクリと肩が震える。
そろそろと俯いていた顔を声のした方へ向けると、
乾は困ったように眉を寄せ複雑な表情を浮かべているのに、どこか穏やかに見えた。

 「手塚は、俺がテニスで傷つくのを見るのは嫌だった?」

首を振った。今度は縦に強く。
自分は良くてこの男が駄目だなんて、ひどく勝手な事を云っていると思う。それは理解出来ている。
けれど嫌なのだ。説明の難しい嫌悪。今ここで傷だらけの乾を見ているのも、本当はとても嫌だった。

 「手塚が嫌だったように、俺も見るのが嫌だったよ。すごく。青学の為、とか大和部長の為に腕を簡単に犠牲にするの」

乾があの人の名を呼ぶ時、淡々とした声音に一瞬だけ別の感情が宿る。
彼もまた、自分とは異なるものであの人に縛られているのかもしれない、と意識の片隅で思う。

 「あれだけ止めて欲しかったのに、真田戦でまた同じ無茶するし。腕腫らすし。ほんとキツかった」
 「乾…」

ベッドに置かれた乾の指は、手持ち無沙汰に上布団の端を摘まんで離すという単純な行為を繰り返している。

 「だけど、手塚が俺の姿を見て嫌だって思ってくれたんなら嬉しいし、もうしない。…ま、あれは不可抗力に近かった訳だけど」

云いながらくしゃ、と緩く微笑んで、乾はまっすぐこちらに視線を合わせた。

 「だから手塚も、もうあんな自分を傷つけるテニスは止めて欲しい」

忘れてるかもしれないけど、俺は手塚が好きだからさ。

さりげなく付け加えられたその言葉に、何も返せず、
もう一度首を縦に振ろうとして、上手くいかずに失敗する。
身体は熱いのに何故か頬だけが冷たくて、眼鏡を外し顔を拭った。
ずっと見ていた、と云った。いつの間にか傍に居て、三年間、それが当たり前になって。
部のメニュー作成を頼むと必ず一緒に自分用のメニューがついてきた。腕に負担を掛けないからこれを使えと。
三年生になってからその言葉はかなり真剣味を帯びていたのに、気づかなかった。気づかないふりをしていた。

 「…努力、する」

全国制覇と青学の柱。
三年間、何も見ず、誰も見ずにあの人の為その努めを果たした結果、
空っぽになってしまった自分を、そんな愚かな自分を、乾はまだ見続けてくれる。
好きだと云ってくれる。人が好くて、だからこそ傷ついて、それでも自分を想ってくれる。
腕で作った暗闇の向こうで、うわ泣かせた?ごめん!とひどく狼狽え慌てた乾の声が聴こえる。
これは涙じゃない、水だから気にするな。そう答えた後、以前もこんな事があったと朧気に思ったけれど、
なぞり続けかすれ掛けたあの頃の記憶はもう、少なくとも今だけは、思い起こさない事にした。

 

 

□END□