恋人でい続ける事が怖いと思っている。
物事というものは始まれば必ず終わると理解っているから。
こんな臆病な凡人に、非凡な天才がずっと好意を持ってくれるなんて、信じていないから。



 「…なんだ?」

手塚が不可解そうな表情と声をこちらに寄越す。自分は掴んだ白い手首を放せずにいる。
ここは陽の落ちた学園近くの停留所。手塚の右手首に巻かれた冷たい銀色の腕時計が、ここにバスが来る事を微かな秒針と共に告げていた。

いつものように部活をして、いつものように戸締まりをして、いつものように二人で帰り道を歩く。
手塚は途中でバスに乗る。普段は自分が利用する駅付近で別れるのだが、今日は早く自宅に帰らないといけない用事があるらしい。
しかし校門を出た直後、目の端に捉えたぽつんと小さな停留所から紫煙を吐き出し出ていく後姿が見えたから、素直に次のバスを二人で待つことにした。
雨露をしのげるように屋根つきのこじんまりとした建物になっている学園前の停留所は、
下校時間もとうに過ぎていた為誰もおらず、二人で腰を掛けても十分余りあるスペースを残していた。
メニューの改善点をあらかた話し終え、満足した手塚はふう、とひとつ大きく息を吐くと静かに口を噤んで目を瞑る。
ノートを見るふりをして、その横顔を盗み見た。

別に、堂々と見たらいいのだけれど、見る権利は、おそらく持っているのだけれど。
何故か未だに慣れない。好きだと云ってそうかと云われてなし崩し的に交際が始まってしまった、この関係に。
お前は馬鹿かと怒ってくれれば、何をふざけているんだと呆れてくれれば、グラウンド100周だと命令してくれれば、
こんな奇妙な心持ちにならずに済んだのかもしれない。もともと叶わぬ恋だと踏んで、片思いを遵守する予定だったのだ。
それが予想外にも何故か叶ってしまった。かといって手塚はいつも通りだし、何かを期待するでも要求するでもない。
しかし放課後は一緒に帰る。まるで恋人同士のように。

陽に透けると薄い茶色に変化する艶のある黒髪。端整さを際立たせる鼻梁に、やや薄めの唇。
伏せられた睫毛は長く、けれどけして女性らしさは無い。学生服に包まれたその姿を見るとやはり同じ性なのだと思う。
ぼんやりそんな事を考えていると、閉じられていた瞼がふと持ち上げられ、そのまま手塚が眠たげに右手へと視線を落した。

 「…31分だ」
 「あぁ、じゃあもうすぐだな。次、35分だったから」

眼鏡を押し上げ慌てて壁に貼ってあるくたびれた時刻表の紙を見た。
左側に座っている手塚はそうか、と相槌を打つと、また黙ってしまう。再び訪れた沈黙。
練習で疲れているのだろうか、いつも以上に手塚の口数は少なく、放っておくとすぐにでも眠りに落ちてしまいそうだった。
無意識に握りしめていたノートに皺が寄っているのに気づき、手を離し鞄に放り込む。慣れない。
二人だけの時間は、実は今でもありえないくらい、緊張する。バスはそろそろ駅を出発した頃だろうか。
駅から学園までは所要時間徒歩約10分であるから旅客自動車の場合は、などと頭の中で計算式を組み立ていたずらに答えを弾き出す。
自分はどこかおかしいのかもしれない。好きな相手と居ると窒息しそうになるなんて。すごく好きな筈なのに、逃げ出したくて仕方がなくなるなんて。
早くバスが来て欲しい。もっと二人でこうして居たい。
相反し交差する感情を持て余し途方に暮れかけたその時、突然左手の甲に温かで乾いたものが触れた。

 「…!」

手塚の掌だった。
思わず顔を見る。が、手塚はやはり眠たげに瞳を細めたまま、じっと前方の色褪せた壁を見ている。

 「乾」
 「は!はい」

触れ合う皮膚と皮膚。直接伝わる体温に無茶苦茶緊張し、見事に声が裏返った。

 「俺と居ると疲れるか」
 「は…」
 「二人になると途端に様子がおかしくなるだろう」
 「そ…」

それは。
こちらを見ずに手塚が続ける。
掌は左手の甲にそっと置かれたままだった。
対する自分の手はというと、緊張の余り内側の皮膚は汗だくで我ながらひどい有様だった。
手塚に触れられるだけで、こんな風になってしまう。正直過ぎる身体が情けなく恨めしい。落ち着け心臓。

 「俺は、好意を寄せられる事もそれを返す事にも慣れていないから、自分の不手際に気付かない事が多い」

しかし、続けて手塚が発した妙な言葉の羅列が思考の端々に引っ掛かり違和感となって残る。不手際?とは一体何だ。

 「だから、そういう時は遠慮せず指摘して欲しい」
 「ま、待ってくれ、手塚」

そうじゃなくて。そういう意味じゃなくて。

 「様子がおかしくなるのは、手塚がなにか不手際を起こしたとかでは無くて、ていうか不手際なのはむしろ俺の方で」

突然、息せき切って喋り出した自分の顔を、壁から視線を剥がした手塚は何か不思議なものを見るかのような表情で見つめている。
自分の事でいっぱいいっぱいで、手塚のことが好きなのに手塚を放ってぐるぐるして、そこには自分しか居なくて、手塚の不安にも気がつかないで。

ここまで云わせて気がついた。
目が覚めた。本当に、馬鹿だったのは自分の方だ。

踏み込む事が怖かった。
言葉が足らないのは手塚の仕様なのに、分かっていたのに理解してなかった。
抱き締める事すら出来なくて、キスなんてただの束縛でしかないと。そんなものは臆病な自分が勝手に作り出した妄念だ。
左手に置かれた手塚の右手首を掴む。掌汗びっしょりで気持ち悪くてごめん、と一瞬思ったけれど、至近距離で見た顔に、そんな思考は蒸発した。
無意識に口が手塚、と名前を呼ぶ。三年間ずっと憧れ、焦がれ続けて止まなかったその名前を。

 「…なんだ?」
 「好き過ぎて、空回ってて、本当にごめん」

自分で云ってても理解不明、予測不可能、非論理的。
データ男が聞いて呆れる。けれど口をついて出た言葉は、正真正銘今の自分の感情に即したものだった。
掴んだ手首に巻かれた腕時計は容赦なく時を刻む。耳に届く秒針の定期的な音。もうそれすらも聴こえない。
バスはそろそろ学園前の坂道を上りきる頃だろう。けれど手塚は拒まない。席も立たず微動だにせずじっと、こちらを見つめている。
少しだけ逡巡して、かたく結んだ唇を、その右手にゆっくりと落とす。瞬間手塚の指先がひくりと僅かに跳ねるのを感じた。

でも好きだ。
どうしようもなく好きなんだ。

口づけたまま、吐息だけで呟く。そして手塚は、そうか。と応えた。

 「それならいい」

微かに安堵の混ざった声音に胸が締めつけられる。
生まれて初めての口づけは想像した以上に優しく穏やかで、何故だか無性に泣きたくなった。

 

 

□END□