「手塚〜、オーラルの教科書貸して欲しいんだけど」
廊下側の窓からその声が自分を呼んだのは、三限目が終了してから五分程経過した頃だった。
淡々と、しかし少しばかり気の抜けたような特徴のある低音を耳にした瞬間、
席で次の授業の準備に取り掛かっていた手塚の眉が心持ち、微かに寄った。
高等部に進み二年生になると、この学園では進路別にクラスが編成されることになる。
手塚は文系志望だったので、理系を選択している乾とは必然的にクラスが別れてしまっていたが、
中等部では間に10の教室を挟んだ上、更に階を跨いで離れていた頃があったので、むしろ今の方が距離的には近いくらいだった。
その乾が、時折物を借りに来る。
文系と理系では授業科目が異なっているはいえ、英語などの共通教科はそのまま同じ教科書を使用しているからだ。
机上に次の時間に使用する教科書類を揃え終えた手塚は、はあ、とひとつ溜め息を吐くとオーラルの教科書を手に廊下へ出る。
雨の日の休み時間、しっとりと露が張りついたように湿度が感じられる廊下や教室に広がる生徒たちの話し声や喧騒は、ひときわ賑やかだった。
廊下に出ると、乾は扉の傍に肩を預けたままそんな賑やかな教室内を眺めるともなく眺め、うちのクラスにはない景色だなあ。と、しみじみ呟いている。
「どういう意味だ」
「や、さすが文系だと思って。女子の比率が半端無く高い」
乾の視線につられるように手塚も自分の属している教室内をぐるりと見渡す。
比率。高いといえば、確かに高い。か。このクラスの定員は四十名。男子はその中で3分の1程度しか居ない。
故に女子の声や姿が目立つクラスでもある。反対に理系クラスはほぼ男子で占められており、
それはそれはうら寂しい光景なのだと、以前目の前に立つこの男から聞いたような覚えがあった。
華やかでいいな。と何故かどこか羨ましそうに云う乾の言葉には応えず、彼の胸元に、手塚がずい、と教科書を差し出す。
「使え」
「お、助かった。1組はもうプログラム6、終わってるだろう」
視線を胸元に移し、手塚に礼を告げた後、
受け取った教科書をぱらぱらと捲りながら眼鏡を押し上げ乾は進度を確認する。
察しのいい奴だ。そんな表情が知らず顔に出ていたのだろう、
教科書の紙面からついと顔を上げた乾が、なんでもない事のように言葉を付け足して笑う。
「お前のクラスの方が英語の時間数が多い。順当な予想だ」
「確かに終了しているが、教科書内に訳は書いてないぞ」
「それも知ってる。手塚は本にそういうの書くの苦手だから」
確かにその通りだった。乾とはよく参考書や問題集の貸し借りを行うので、
その辺りから見抜かれていたのだろう。逆に乾は気になる事や自分の考えをどんどん紙面に書き込んでいくタイプで、
いつしかそれは本の様相を呈したメモ帳のようになってしまう事も多々あった。
ごちゃごちゃと書き込まれている判読出来ない文字に辟易しながら問題文を読み取るのはいささか難儀だったが、
苦労して判読しても良い程には、乾の所持する参考書や問題集は魅力的で手塚好みのものが多かった。
「じゃ昼休み返しに来るから」
「いや、帰りでいい」
その答えに乾の眉が不思議そうに軽く跳ね上がる。
「部活じゃないのか?」
「今日は屋内コートが別の部に貸しきられて練習出来ないんだ。だから」
言葉の続きを云うより先に、勘の良い相手は自分が何を云うのかすっかり予測したらしい。そしてそれは大方正しいのだ。
それじゃあ俺も早めに切り上げるから、部室まで迎えに来てくれないか、と乾は穏やかな笑みと共にそう云った。
異論は無いが若干複雑な心境に陥った手塚は、どんな表情をすればいいか分からず、結果、ああ。と難しい顔で一言呟いた。
乾の属している将棋部は、三年校舎の第二棟の三階の一番端にある。
運動部のように実績を積み重ねている訳では無い為、文化部に対する学園の待遇は正直余り良いものとは云えなかった。
それは手塚達が中学生だった頃も同様で、その事案に対して一番痛感し、
そして改善の為尽力したのもまた、最終学年の時に生徒会長を務め上げた手塚だった。
中等部では幾分か改善した運動部と文化部の待遇の差は、しかし高等部ではもっと露骨なものだった。
追いやられるように空き教室で暗幕を張り、細々と活動している乾達文化部員(確かこの時乾が潜り込んでいたのは天文部だった)を見て、
以前手塚は憤慨したものだが、乾曰く、まあみんな半分趣味でやってるようなものだし、これくらいの待遇がちょうどいいんじゃない。との事だった。
扉の上に将棋部、と書かれたプレートが掛かっているが、よく見ると“部”の文字がぼんやりと薄く消えかかっている。
ノックする前に右手首に巻かれた腕時計をそっと覗き込み、時間をもう一度確認した。
四時半頃、と彼は云った。現在の時間はちょうど三十分を少し回った頃だ。
手塚は視線を時計からそのまま扉へと移すと、拳を作り二回ノックした。
「どうぞー」
聴き慣れた声。何故か心の奥で安堵し、ノブを捻って扉を開ける。
校内に配置されている文化部の部室は、教室の半分程の広さを与えられている。
手塚は確か以前部活動の要項書類でその旨を確認していた。
しかし、目の前に広がっていたのは、ぎっしりと専門雑誌や攻略書などで埋まった本棚に四方を囲まれ、
溢れた棋譜や駒などが散乱し、長机が二卓押し込められたその上へ、将棋盤が置かれている、という光景だった。
使い込まれたパイプ椅子に窮屈そうに座って駒を指で玩んでいる乾の他には、彼と将棋盤を挟んで対峙している男子生徒、
そして奥には女子生徒が二組、同じように盤を囲み、手前の本棚の傍には棋譜や雑誌を片付けている女子生徒が一名立っていた。
盤に視線を落としていた乾がふ、と顔を上げて手塚を見る。つられるように奥に座っていた女子生徒もこちらを見上げ、慌てたように礼をする。
失礼しますと頭を下げたものの、手塚は部室に足を踏み入れない。否、雑然とし過ぎていて入れない、という方が正しい。
「じゃ、すまんが今日はここまでだ」
そう云って一方的に切り上げ席を立ち始めた乾に、
こちら側に背中を向けて座っていた対戦相手である男子生徒が、
投了ですか?と嬉しそうに訊いたが、乾はまさかと楽しそうに笑って首を振る。
「崎、後でこいつと一緒にここまでの棋譜まとめいて。俺のノート置いてくから」
本棚で整理を続けていた、崎、と呼ばれた少女が振り返り、はーいと元気の良い返事をした。
両手には手塚の祖父も愛読している将棋の月刊誌が抱えられている。
「じゃ後の戸締まりよろしく。お先です」
彼女にノートを預け、鞄を肩に担いだ乾が長身を小さく屈めるように本棚と机の間を歩いてくる。
お疲れさまでーす、と送り出す部員達の声を聞きながら、時間にすればきっと数分の出来事の筈なのに、
何故か手塚は乾が自分の所にやって来るまで時間の流れがひどく遅く感じられ、そしてそう感じた自分に内心少し戸惑った。
部室の扉を閉め、こちらを振り返った乾が、お待たせ手塚と声を掛けたが、対する手塚は何故か返す言葉が見つからず、しばらく沈黙してしまった。
「…?どうした?」
こちらを見上げたまま、いつまで経っても黙ったまま微動だにしない手塚の様子に、不思議に思ったのか乾が首を微かに傾げる。
「………?いや、…分からん」
分からん。同じように首を傾げそう云いながら、いや、違うな。と手塚の中の何者かが小さく呟いた。
それが行動を起こす引き金となったのか、手塚は自分を見ている乾から完全に視線を外すと、くるりと踵を返し、来た道をどんどん歩き出した。
「え、わ、分からんて何が?それより手塚、手塚、歩くの速いって」
斜め後ろから背中にぶつかってくる狼狽えた声に気づき、歩幅を緩める。
ああそうか、今日はこの男と一緒に帰る約束をしていたのだ。約束を持ち掛けたのはこの自分だ。
それなのに、この一向に晴れない気持ちの靄は何だ。
「お前は俺の属しているクラスの女子比率が高いと云った」
「え?…あ、はあ。うん。云ったな」
話題が突然思わぬ所に飛躍して驚いたのか、
先程の会話を思い出しているのか、すぐ背後まで近づいた乾が妙なテンポで相槌をうつ。
「しかしお前の属している将棋部も女子の比率が割合高い」
緩めてはいたが、続けていた歩みをゆっくり止める。
正直、何を云っているのか自分でも良く分からなかったが、
晴れない霞の部分を手探りで掬い上げたらこんな言葉になっていた。手塚は息を継いで言葉を続ける。
「華やかじゃないか。と思ったが、それが少し不快だった。
しかし、何に対して、何故不快になったのか分からなかったから、分からん、と云った」
以上だ。背中を向けたまま、薄暗い霞を吐いた。
結果幾分気持ちは晴れたものの、いつまで経っても背後の男はうんともすんとも云わないので、
本当に居るのかどうか疑わしくなり思わず振り返ると、ぽかんと口を半開きにした乾が立っていた。
「…なんだその顔は」
訝しむように瞳を細める。手塚にしてみれば、そこまで驚いた顔を向けられる理由が思い当たらない。
声を掛けられ、我に返った乾が眼鏡のブリッジを押し上げながら、いや、と曖昧に口の中で否定した。
否定の言葉を呟いているのに、右手の甲の影から覗く口の端は笑みで綻んでいる。
「なんでもない。不快な気持ちにさせて、悪かった」
「?…何故お前が謝るんだ」
更に訳が分からなくなり、手塚の眉間がきつく寄る。
しかし乾は足を前に踏み出し手塚と肩を並べると、そのままゆっくり歩き始めた。
「多分、いやきっと、それは俺のせいだと思うから」
「……」
きっぱりと断言する乾の言葉に迷いは無く、
それは自分ですら分からなかった晴れない霞の正体が、この男には既に分かっているのだと感じさせた。
しかし核心には触れようとしない。ここまで云うならはっきり教えろ、と思う反面、絶対云うな、という気分にもなる。
複雑だ。自分の中で割り切れないものがあるのはとても嫌な性分なのに、何故か隣に立つ男に関してはそういう事例が罷り通る。
つまり、そういう事なのだろう。
「お前のせいなら、お前が悪い」
そもそも、教科書を借りに来なければ、自分が貸さなければ、こんな気持ちにはなっていなかった筈なのだ。
無意味に責任転嫁をしたもののやはり釈然としないまま、しかし放つ言葉は明確に、手塚も歩みを再開させる。
のんびりと隣を歩く乾が、そうだな俺が悪い。と、全然反省していない素振りで穏やかに笑う。
手塚は緩い腹立たしさと複雑な諦念を胸に、小さくため息を吐くと、窓際に目を遣った。雨はもう、止んでいた。
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