授業で使用する掛け図の上げ下ろしは、乾の役割だった。
さほど身長は変わらない。それなのに教師は授業毎にこのクラスで一番背の高い乾を指名する。
結果、自然それが世界史の授業での彼の役割となった。終了の鐘が鳴り、いつものように掛け図を下ろし、
大判のそれを手際良く巻いている途中、指先に生じた微かな違和感に乾が手を止め古びた図面に視線を落とすと、
端から細い切れ目が走っている事に気づいた。

 「破れているな」

背後からの声に振り返ると、チョークを片付け自分の教材をまとめ終えた手塚が傍に来ていた。

 「授業中、分かりませんでしたけどね」
 「大分古いものだからな。ガタがきてもおかしくはない」

呟きながら教室を出ていく手塚の後ろに、掛け図を巻き終え紐で結び、自分の肩に乗せた乾も続く。
4限目が終了した廊下は、学食へ行く者、購買へ急ぐ者、手を洗いに数人で洗面所へ歩いていく者が一斉に
あふれ、たちまち活気づく。賑やかな話し声や響く靴音の中、生徒の波を避けながら一定のスピードで歩む手塚の行き先は
社会科準備室だ。授業中使用する教材はすべて特別棟の準備室に置かれている為、そこへ掛け図を返却するまでが乾の仕事だった。
ほんの僅か、2人だけになれる時間。を、この朴念仁且つ生真面目且つ冷徹な教師がわざわざ作ってくれているとは考え難いので、
おそらく単純に自分をこき使っているだけなのだろうが、乾にとってこの時間はなによりも代え難く、また幸せなものだった。
自分の教室のある階からもうひとつ上へ階段をのぼり、特別教室のある棟へと進む間も、特に会話らしい会話は交わさない。いつも。
3歩ほど開いた後ろ姿ばかりを見ているから、そこから気づく発見ばかりが増えていく。髪が少し伸びたなとか、首筋に汗が浮かんでいるな、とか。
密やかな観察は、しかし彼が準備室の鍵を差し込んでしまうと呆気なく終了するのだ。
ご苦労だった。ありがとう。
そう云って掛け図を預かると、無情にも扉を閉められる。これもいつもの事。
次の世界史は2日後。と既に頭の中にインプットされた時間割を弾き出しながら、乾は肩に乗せていた掛け図を手渡す。
しかし、閉められる筈の扉は未だ開いたままで、掛け図を預かった手塚は乾を微かに見上げ、予想外の言葉を口にした。

 「乾、ついでにこれを直してくれないか」

他の教員は不在だったのだろう、一歩足を踏み入れると社会科準備室は温い熱気が至るところにこもっていた。
カーテンを閉ざしたまま備え付けられた銀色の錠に手を掛け窓を開けた手塚は、
掛け図を乾に押し返した後そのまま正面奥にある自分の席に腰を降ろすと、さっさと仕事を始めてしまった。

 「テープは3段目の引き出し。接着剤を使うなら正面のガラス棚の左奥にある」
 「…はあ」

今昼休みなんですけど、というか先生昼飯は、などはおそらく云えない雰囲気。
まあ空腹よりはこちらを優先した方が得策か。自分の欲求に素直に従った乾は、
頭の中で計算をしていた所為で一拍遅れた妙なタイミングで返事をした後、結んでいた紐を解くと、
掛け図を教材だらけの広い机上に何とか押し広げ、ガラス棚に向かい修復道具を探した。

 「接着剤で大丈夫ですかね」
 「数センチ破れているだけだから、問題無いだろう」

探す指はそのままに視線を斜め前に移す。
視界に入るのは、椅子に凭れようとしない真っ直ぐな背中。艶やかな黒髪。

 「いいんですか?」
 「問題ない、と云っている」

よく見ると、右手に持つぶ厚いファイルには彼が授業を受け持つクラスの名簿が貼り付けられていた。
耳の後ろ。に、すっと汗が伝い落ちる。わんわんと降りしきる蝉の声と夏のにおい。
窓を開けただけでは、この熱気に満ちた部屋の温度を逃がす事など到底不可能だと乾は思う。

 「じゃなくて」

探し当てた接着剤を夏服の胸ポケットにとんと滑らせ、そのまま右手を彼の肩に静かに乗せる。
途端相手の体温がじわりと掌に滲む。それは当然の事なのに、何故かいつもひどく驚いてしまうのだ。
彼に触れるたび、冷ややかで無感情なその整った容貌や身体にも、自分と同じ血が通っているなんて。

 「俺をここに入れて」

しかし生徒の問い掛けに対し教師は僅かにも顔を上げる事はせず、
指先でペラ、と名簿をめくりながら静かに口を開いただけだった。

 「入れないと地図を直せないだろう」
 「…なるほど。本当にこき使う気なんですね」

緩く脱力しはあ、とため息を吐くと乾は肩から手を離し、掛け図の乗った机の方にゆるゆる戻った。
いつもこの場所に足を踏み入れる時は、「教師と生徒」では無いから。この突然の誘いに困惑した。
だから悪戯半分にカマを掛けてみたのだが、結果は至極あっさりとした敗北に終わってしまった。
期待するだけ馬鹿を見ると、理解っているのについ手を伸ばしてしまう。彼の言葉のその奥に、何があるのか知りたくなる。
肝心な部分はけして見せてくれないこの教師に、自分はいつまで揺さぶられるのだろう。卒業するまで、否、おそらく卒業してからも?
掛け図の修復は思ったよりも簡単で、さほど時間も掛からず済んでしまった。
古ぼけて色のくすんだ世界地図は、確かに年季を感じさせる代物だったが、
その割には目立った傷も少なく綺麗で、担当者が丁寧に扱っているのだろうと乾は思った。
壁時計に目を遣ると、昼休みは3分の1程残っている。出来うるならもう少しここに居たい誘惑に駆られるが、
睨まれることは目に見えているので、内心軽く沈みつつ彼の背中に声を掛ける。

 「直りましたよ」
 「…そうか」

ギ、と椅子を鈍く軋ませこちらに歩み寄ると、手塚は掛け図に指を這わせじっと見つめた。

 「随分良くなった。すまなかったな乾、礼を云う」
 「いえいえ、先生の為ならこれくらい」

肩を竦め、口許だけで緩く笑って乾が返す。
そういう所だけは律義に真っ直ぐ伝えてくるから、逆に気恥ずかしくなる。
こちらは下心や疚しい気持ちでいっぱいだというのに。

 「それじゃあ俺、戻ります」

なんだか顔が見れなくて、軽く礼をして背中を向けた。瞬間、ぐ、と腕を引っ張られ身体が後ろに仰け反った。

 「?」
 「少し待て。今準備をするから」
 「は?」

云われた言葉が理解出来ず、眉を寄せた乾は首だけで器用に後ろを振り返ると、
背後に立つ手塚は自分のズボンの左ポケットに財布を入れているところだった。

 「昼食。まだだろう。学食で良ければご馳走する」

視線をポケットに固定したままぼそりと云いながら、繋ぎ止めた腕を離そうとはしない。
緩やかな風を通していた窓はいつの間にか教師によって閉められ、再び息苦しくなるような熱気が二人を包み始める。
未だぽかんとしている乾とようやく視線を合わせた手塚は、不満そうに眉を攣める。

 「なんだ。俺が昼飯抜きで仕事を押し付けた生徒をそのまま返すような薄情者に見えるか」

そんな刺々しい言葉も、可愛らしい云い訳に聞こえるのは、自分が恋に囚われ舞い上がり過ぎてしまっているからだろうか。
駄目だと思いつつ、弛む頬を引き締める事が出来なくて、誤魔化す為に眼鏡を押し上げた。

 「いいえ、優しいですよ。先生は」

にっこり笑ってそう云うと、教師はとても嫌そうな表情を浮かべ、掴んでいた腕を離しさっさと扉へ歩き出した。
僅かに両肩に力が入った後ろ姿は、感情が揺れている証拠。そんな機微さえ理解るようになってしまう程、彼を見続け、追いかけ続けている。

 「上限500円までだ。それ以上は自分で払え」
 「え。安い」

口答えするなと静かに怒られ、はいはいと後に続く。
準備室の鍵が閉められた後、乾は胸ポケットに入っている接着剤の存在に気づいたが、何も云わずそのままにしておいた。
おそらく今日の放課後も、ここの扉を叩くのだから。

 

□END□