「あ」
唐突に隣から発せられた感嘆詞に、シャツを脱ぎかけていた手塚の動きが止まった。
声がした方に顔を向けると、既にジャージに着替え終えた男が、自分の2つ隣のロッカー前に佇んだ状態で、
掛けている黒縁眼鏡に触れたまま身動きもせず固まっている、という奇妙な光景が視界に映った。
「なんだ」
動かない乾を訝しんで声を掛ける。
しかし乾は指を眼鏡の弦に移動させると、ううん、と更に奇妙な声を発する。
理解し難い。ますます怪訝な顔つきになった手塚が、着替えを再開しながら再び促す。
「だからなんだ、と云っている」
「いや、うん。たいした事ではないんだけど」
というか気のせいかもしれないし。
後半の語尾に至ってはまるで人に聞かせる気が無いような小ささでぽつりとそう一人ごちた乾は、
己のトレードマークであるそれをあっさりと外してしまった。折り畳んだカッターシャツをロッカーに預けながら、手塚は裸眼になった乾を見る。
部室の扉を開けると、珍しく本日の一番乗りは乾だった。
他の奴らは球技大会の選手決めでSHRが遅れているんだろうな、
制服のボタンを手際よく外しつつ飄々とそう云いながら、彼はさっさとシャツを脱ぎにかかっている。
「11組は早かったんだな」
テニスバッグを部室内のベンチに置いた手塚は、
そう云いながら机上に置かれた部誌を手に取るとざっと昨日の報告に目を通した。
「うちは担任がジャンケン勝ち抜き以外認めないからさ、すぐ決まる。で、俺はわりと早めに勝ったから」
早々に抜けてきました。部誌の確認を済ませた手塚が再び顔を上げた時には、
既に乾はレギュラージャージに袖を通しているところだった。無駄が無い男だな、と改めて思う。
動きも、身体も、言葉も。数字や統計に基づいて思考を組み立てる質だからなのか、彼の語る言葉は常に合理的で論理的だ。
着替えひとつとっても乾からは無駄な動きが省かれている。
いつもロッカー前でだらだらと喋っては脱線し、部活開始時刻に遅れる菊丸や桃城に見習わせたいくらいだ。
「手塚何出る?」
「卓球だ。お前は?」
「バスケ。卓球か…予想外だったな」
なにがどう予想外なのだろう。
自分達のクラスは予めアンケートを取っておいて、出来る限りその希望に沿うよう生徒を割り振っていく。
手塚はどちらでも良いに○を付けていたので結果的に一番希望者が少ない卓球へ回されただけだ。
その事をかいつまんで伝えると、俺も卓球にすれば良かった、とまったく脈絡の無い返答が戻ってきて更に手塚を軽く混乱させた。
「意味が分からん」
「卓球ならもしかしたらいい勝負かなと思ってさ」
あと大会中、結構一緒に居られるしな。
本気なのか冗談なのか判別し難い声音でそう云うと、
乾は自分の着替えの入った袋をロッカーの中に押し込んで、ぱたりと閉めた。
そして数分後の現在。
先程そんな事をのたまった男はおもむろに黒縁眼鏡を外し、困ったようにレンズを見つめ続けているのだった。
「視力下がったかもしれない」
ポロシャツに身を包んだ手塚が、その告白に思わず眉を寄せる。
「それは…」
「良くないよなあ。でも4月に測った時はキープしてたんだけ、ど」
曇ってるのかな、とレンズに息を吹きかけ、
何処からともなく取り出した眼鏡拭きで軽くレンズを磨いてから乾はもう一度眼鏡を掛けたが、
やはり何か違和感があるのか、腑に落ちないような顔つきで僅かに首を傾げた。
「思いあたるふしは無いのか」
確か乾は自分よりも視力が悪かったように思う。
これ以上下がるようならいくら眼鏡で視力矯正出来るとはいえ、プレイに支障が出てくるかもしれない。
そうすると、困った事になる。青学を全国一に導く為にはこの男もまた手塚にとっては外せない、必要な部員なのだ。
「いや、どうだろう…。あるとしたらパソコンかな。でも俺データまとめるの基本ノートだし」
再び眼鏡を外し、順番に片目をぱちぱちと瞑りながら、乾は云う。
裸眼の乾は見慣れていないせいもあって、三年間同じ部に所属しているというのに、なんだか隣にいるのが別の人間のように思えた。
「…そうか」
何か気の利いた言葉も思い浮かばず、結局裸眼の乾から視線を外すと、
俯いたままでリストバンドを手首に嵌める。いつもあるパーツが外れるだけで、
こんな不可解な気分になるのか。そんな事を、頭の隅で黙々と考える。
しかし、突如にゅうと白い腕が伸びてきて、それは手塚の視界に収まったかと思うと、強引に彼の思考を中断させた。
「手塚、ちょっとごめん」
カシャ、とささやかな音がして、途端クリアだった視界がぶれる。
何が起きたか一瞬分からなかったが、瞳を細め、ぼけた景色と乾の顔を判別し、ようやく現状を理解するに至った。
「何をする気だ」
自分の顔から了承無く外された眼鏡を取り返すべく抗議をするが、
乾はまあまあと適当に宥めながら手にした楕円の眼鏡をためらいなく掛ける。
途端に手塚は奇妙な気持ちに陥った。乾が自分の眼鏡を掛けている。
「あー、やっぱ手塚のが視力いいんだな。軽くぼける」
「人の眼鏡をむやみに掛けるな。分かったなら返せ」
乾は聞いているのかいないのか、これだと0.6くらいかな、などと勝手に分析しながらゆっくり手塚に近づいた。
が、両目を細めただけでは距離感は掴めないのでどれくらい近くに来たのか手塚には良く分からない。
「はい、しばし交換」
「おい…」
至近距離にいるらしい乾はそう云うと、手に持っていた黒縁眼鏡を手塚に掛けた。重い。
自分のものとは異なるその違和感に、更に瞳を細める。度が合わなくて、軽く頭がくらついた。
そんな手塚を眺めながら、悪事を働く張本人である乾はおお、と何故か再び感嘆詞を発する。
「なんかカッコイイな、手塚」
「うるさい。早く返せ」
「きつい?」
「そもそもお前の眼鏡は乱視矯正も入っているんだろう。全然合わん」
まばたきを繰り返す。ぼうとした景色は相変わらずだったが、正面に立つ乾の姿形はなんとか像を結ぶまでにはなった。
ノーフレームの眼鏡を掛けた乾は印象がひどく異なっており、かなり奇妙に思えた。
「お前は変だぞ」
「変か。というか俺乱視入ってるって、知ってたんだ」
「以前お前が云ったんだろうが」
近視と乱視が複雑に重なっていて、だからレンズ選びに苦労をすると。
そんな話を聞いた気がする。いつの頃だか忘れたけれど。
「だけど、覚えててくれたんだ」
乾が笑う。手塚の眼鏡を掛けて。ますます漫然と不可解な心持ちになる。
離れた校舎で時刻を告げるチャイムの音が、微かにこちらまで響いてくる。
そろそろSHRが終了した部員達がやって来るかもしれない。手塚が眼鏡を外そうとフレームに指を掛けた時、
こうやって見えてるんだな。と抑揚の余りない穏やかな声が僅か頭上から落ちてきた。顔を上げる。
乾が同じように眼鏡のフレームの端に指を掛け、少しだけ持ち上げる。
「手塚は俺をこういう視界で見てるんだ」
いいデータがとれた。
「そんなデータに意味は無いと思うが…」
余りに下らなくて、馬鹿馬鹿しくて、
ため息を吐きながら手塚はそう返したが、とんでもないと乾が口許だけでどこか得意気に笑う。
「俺にとっては大変貴重なデータだ」
乾の眼鏡のせいで、距離感が測れなかった。
笑った口許は、いつの間にか間近にあって、いやに近いな、と手塚が認識するよりも早く、
彼は口を塞がれ息が出来なくなっていた。更に大きく乱れる視界。カチャ、と眼鏡が微かにぶつかる。
それすら厭わず触れ合う体温。しかしそれはとても短く一瞬で、まばたきをひとつ、次に瞼を上げた直後手塚は再び息が吸えるようになっていた。
「……い」
茫然と、名前を呼び掛けたその時、バタンと部室の扉が勢い良く開く。
「でさ、結局アミダんなって、俺最後の最後でバレーに回されちった」
「いいじゃないか英二、バレーも得意だろ」
「えええ俺もバレーっすよ!英二先輩とはあたりたくねーなあ…」
三者三様ガヤガヤと賑やかに、
球技大会についての会話に興じていた菊丸、河村、桃城がロッカー前に佇む先客二名を見た途端、はたと足を止めた。
「…あれ?」
河村の疑問は、しかし菊丸と桃城の笑い声にとって替わられ一気にかき消される。
「うわははは何!?お前ら何やってんの!?」
「え!?乾先輩はともかくぶ、部長!?」
俺はともかくって何だ桃。
二人を交互に指差す後輩に、乾は憮然としながらそんな反応を返すが、
対する手塚は部内に炸裂する笑い声にようやくしっかりと我に返る事が出来たところだった。
「ちょっと眼鏡交換してみた。似合うかな」
「いや何故そんな」
淡々と、冗談なのか本気なのかさっぱり判別し難い乾の問いに、
河村はどう返したら分からず、結果はははと苦笑するに留める。
「すごく変だ!」
しかし直後、菊丸によるストレートな判決が下り、桃城と河村は遅れて同時に頷いた。
「そうか。手塚、参考までにもう少し部員に訊いてみてもい」
「駄目だ」
有無を云わせぬ鋭い返事と共に、足の甲に感じる鈍い痛み。
菊丸達からは死角となるテーブル越し、手塚は乾の足を思いきり踏みつけながら、黒縁眼鏡をゆっくり外した。
□END□