「どうして欲しい?」
乾はそう言って、静かに笑った。
精一杯力を込めて、勢い良く立ち上がる。
ガタン!派手な音がして今まで座っていた椅子が床に転がった。
それでも乾は手を離そうとはしない。
怖い。
瞬間、自分を襲ったのは、その感覚。
「乾、いい加減にしろ…!」
低く怒鳴る。
思い切り睨みつけながら。
それでも、彼はこちらを見たまま、表情を崩さなかった。
ぐ。と右手を潰される程強く、握られて。
カタ…とそこから立ち上がり、二人を隔てていた机の横をゆっくりと横切って。
じわり。じわり。間合いを詰めていく乾。
怖い。
反射的に後退する。
強く握られた右手。最早感覚さえ無く。
一歩、二歩、三歩。
「乾…!」
今の自分に出来るのは彼の名を呼ぶだけ。
(名を呼ぶだけ?)
(本当に?)
ドン、
全身に軽い振動が響く。
同時に背中にヒヤリとした感触。
逃げられない。
乾はそのまま冷たい壁に片手をつき、自分を入れる檻を作った。
もう片方の手は、右手と絡んだままで。
感覚が無い。どちらがどちらの手なのか、理解らない。
「…何の、つもりだ?」
出来るだけ冷静に口を開く。
たった5センチの身長差が、じりじりと自分を追い詰めていく。
見下ろされるのは、どちらかと言うと苦手だった。
「別に意味は無いよ。只ちょっと、試したかっただけ」
「…試す?」
不可解な言葉を反芻する。
乾はそう。と頷いて、中指で眼鏡を上げた。
そのままグイ、と繋がれた右手を顔の近くまで上げ、
見せつけるようにもう一度、今度は確かめるようにゆっくり唇を落とす。
「…どうして拒まないんだ?」
囁く。
「…拒む理由が、無い」
言うと乾は僅かに眉を上げて不思議そうな顔になり、
そうしてまた、読めない表情を作ったままで、笑った。
「へえ。器が広いな、手塚は」
まるで馬鹿にするような口調。
壁についていた右手を離し、それはシャツの釦に掛かった。
「…!?」
「俺が今、何考えてるか本当に理解ってる?」
乾の器用な右手は難無く釦を外し、無造作にはだけたシャツの間から掌を侵入させる。
自由の利く左手で何とかそれを阻止しようとするのだが、抵抗は全て後手に回ってしまう。
結局、呆気無く左手も彼に捕まり、動けなくなった。
「物凄く酷い事、考えてるんだけど」
「…ふざけるな…」
「ふざけてないよ、至って真面目だ」
乾と話をしていると、思考が滅茶苦茶にされる錯覚に陥る。
本心を見せない。
腹の探り合いのような。
そんな表面だけの会話。
もう、考えるのは嫌だった。皆が言う程自分は器用では無い。
本心を晒して全てを露わに。
そう、想っているのに。
「手塚は、狡い」
肩に乾の重み。
耳許で聴こえた、そんな言葉。
狡い?
この男は一体、何を言っているんだ?
「こうして全て受け入れるクセに、」
スルリと上半身を、大きな掌で撫でられる。
無意識に身体が震えた。顔を背けようとしたら、眼鏡を取られた。
顎を無理矢理捉まれ、そのまま深い口づけが落ちてきた。
「………、は……、っ」
長い長いそれは意識の輪郭を暈す程、強烈で。
「…肝心なものを、見せようとしない」
口づけの合間、乾が何を呟いているか、もう理解出来なかった。
かんじんなもの?
この男のキスだけでこんなにも容易く翻弄される。
それが証拠じゃないのか?
そこから踏み込んで来ないお前の方こそ、狡いんじゃないのか?
更に深くなる口づけ。
耐え切れず、両脚に震えが走った。
強い腕に抱き止められる。けれど身体は立っている事さえ限界だった。
眼鏡を失った視界は既に輪郭を濁らせ、様々なものが混ざり合って見える。
そして。
また、お互いを欺くしかないその行為によって。
両脚は冷たい床に、崩れ落ちた。
□END□