何となく密かに勝ち誇った気分で、
手塚は生徒用玄関から顔を出し、空を見上げた。
ザアザアと容赦無く降る雨。
午前中は春麗らかな晴天だったというのに。
午後になっていきなり天気が崩れた。春の気候とはそういうものである。
久々に置き傘が役に立つ時が来た。
と、グレーの折り畳み傘を鞄から取り出し、クルクル紐を解いていく。
パンッ。
と勢いのいい音がした、同時に。
「いい処で逢った。途中まで御一緒していいかな」
気持ちやや頭上高めから降ってくる、聴き慣れた声。
振り仰ぐと矢張り、というか。乾が斜め後方に立っていた。
「…乾」
「やあ」
飄々と片手を挙げ、挨拶らしきジェスチャーをしてから、
「いや、まさか雨が降るとは思わなくて。傘持ってきて無いんだ」
手塚は用意がいいな。と笑うから、置き傘だ。と一言返した。
「入れてくれる?」
「…構わないが、」
それからチラリと傘を見る。どう考えても大の男が二人入るには小さ過ぎる。
それを感じ取ったのか、乾もまじまじと傘を見て、うーん。と唸った。
「ま。大丈夫でしょう。優先的に手塚は濡れないようにしてあげるから」
そう云ったかと思うとヒョイっと手に持っていた傘を奪われ、
乾はクルリとそれを軽く回転し、さあどうぞ。と眼鏡の下で微笑む。
「………」
身長差。を考えると当然なのかもしれない。
背の高い方が傘を持つ、その方が濡れる範囲も減少するし、合理的だ。
が、しかし。
男に傘を持ってもらい、そして一緒に歩くというのは………とても奇妙な気分である。
まあでも、仕方が無いので手塚はサッサと乾が掲げる傘の中に入り、無言で歩き出したのだった。
「この雨で、桜が散るな」
学園に続く桜並木を眺めながら、手塚が呟く。
大分雨足は弱まったが、それでも時折噴き付ける雨混じりの風が冷たい。
折り畳み傘の短い柄を僅かに上げて、乾も雨に濡れそぼる桜の樹を見た。
「花散らしの雨だ」
驚いて隣の男の顔を見てしまった。
乾の口からそんな詩的な言葉が出るなんて予想外過ぎて。
「何?」
「いや…お前の口からそんな言葉が出るとは」
嘘が吐けない手塚は大抵思った事をそのまま相手に伝えてしまう。
そこが彼の長所でもあり、短所でもあるのだが。
逆にそれが手塚らしいと思っている乾である。軽く眉を上げて、
「心外だな。俺だってたまにはこういう事も言うさ」
「その割には古典でいつも苦しんでいるようだが?」
切り返されて、う…。と詰まる。
物事の真理は常にひとつであると、そんな考え方を好む男の天敵は、
変幻自在な情感という形の無いものに支配される文系科目、主に古典なのだ。
「相変わらず厳しいな…」
「普通だろ」
実は会話も半分程上の空だった。
雨に濡れる桜の木々が、花弁が余りにも綺麗なので。
自然とそちらに意識が行ってしまう。そしてとうとう黙ってしまった手塚に、乾は苦笑混じりの溜息を吐く。
艶やかな黒髪と、端正な横顔と、繊細な眼鏡のフォルムと。
桜を眺める真剣な眼差し。かといって、手塚は何も考えていないのだろう。
直ぐに自分の心の中を無に、白紙に還す。そういう事が出来るから、彼は凄い。
「手塚と桜は良く似合う」
思わず口にすると、思い切り不審な顔で見られた。
「何を云ってるんだ」
「いや、日本人で良かったなぁと思って」
「?」
益々不可解。という表情で、手塚は次の言葉を待つ。
しかし乾からの言葉は意図的にそこで絶ち切られた。
「―――願わくば花の下にて春死なむ、だっけ」
そして突然彼が詠ったのは余りにも有名な歌僧の言葉で。
「西行法師」
「うん。出来れば俺もそうありたいと思って」
意味深に笑う乾を横目に、今度は手塚が溜息を吐いた。
「…お前の言ってる事は抽象的過ぎて良く分からん」
「たまにはね、予測不可能な事も言ってみたい。って事」
実は凄く簡単な事を云ってるだけなんだけれど。
他人の感情の機微に疎い手塚には先ず理解らないだろう。絶対に。
パシャン。と水溜りの端を歩く。
手塚と乾は黙々と桜並木を進んで行った。
□
「…さっきの話だがな、」
桜並木を出て、バス停近くまで来た時手塚が不意に口を開いた。
「ん?」
「予測不可能な事を言うよりも先ず、天気の確率くらい予測出来るようになれ」
「…精進します」
乾の肩が僅かに震える。手塚の言葉が可笑しくて堪らない。
どうやら先の会話で煙に巻かれた事が余程面白くなかったらしい。
だからといってこういう反撃に出るとは…それこそ予測不可能というものだ。
「…とりあえず、俺はバスで帰るから傘はお前が持っていけ…何が可笑しい?」
「いや別に何も。有難う、でもいいのか?傘」
無言で頷く。
同時にタイミング良くやって来たバスに乗り込み、手塚は居なくなった。
「………」
茫然とバスの後姿を眺めながら、乾が手持ち無沙汰に傘を回す。
見ると傘の表面に薄紅い花弁が張り付いていた。
きっと桜並木を歩いている時に付いたのだろう。
急にガランと空いてしまった右隣。
右肩に触れる温もりが忽然と消えて、何となく淋しいな、と思った。
それとは逆に左肩が雨で濡れ、それは制服を通り越して肌にまで到達している。
「冷た」
そして乾は当たり前の事を、一人ごちた。
□END□