自分に持っていないものを全て持っている、そう思ったら目が離せなくなった。
【espressivo】
二年生になった。
出席番号順でひとつ前に座る草壁光は、授業中いつも眠っていた。
元々話を聞く姿勢が良いとはいえなかったけれど、授業が始まるとどんどん背中の傾斜がなだらかになる。
規則的な両肩の動きはゆっくりと緩慢になり、そしてそのまま薄茶の後頭部がかくん、と前に落ちるのだ。
佐条は黒板に書かれた数式を手許の紙面に写し取りながら、机上に突っ伏してしまった彼の後ろ姿を眺める。
窓際の後方だし、春の陽差しは燦々と優しく自分達を照らす為、確かに眠気を誘われるには十分な環境なのだが、
それにしても毎日毎時間こんな調子、というのは学生としてどうだろう。二年に上がりクラスが変わって一週間、
佐条は前に座る彼の抜きん出て不真面目な様子を目撃するたび面食らっていたが、日が経つにつれ次第にそれにも慣れてしまった。
逆に、背中が沈むと黒板が見易くなるから少しだけ助かってもいるのだ。
ふわふわと柔らかな曲線を描く薄茶の髪の毛が、開け放たれた窓から吹く風に揺れる。
授業が終わると草壁は、先程まで微動だにしなかった状態がまるで嘘だったかのように活発に動き回る。
離れた席の友人の所へふらふらと足を伸ばす時もあれば、友人達が彼の許に寄ってくる時もあった。
彼の周りはいつも笑い声と喧噪が絶えず、それに負けない頻度で教師達の注意や怒声もついて回った。
ギターが、コードが、ライブハウスの場所、フライヤーの数、
休み時間、参考書を広げていると、前方から賑やかに飛んでくる意味不明の言葉達。
佐条の耳は聴くともなくそれを聴き、そして知らない間に草壁についての様々な情報を知る事になった。
「草壁てめえ今週掃除当番だぞー!」
放課後、掃除用具入れから長箒を取り出した佐条は、背後から聞こえてくる声に思わず振り向いた。
教室には生徒がまばらにしか残っていない。どうやら喧噪の主は廊下にいるらしい。
後ろの扉を開けてひょい、と顔を覗かせると、雑巾を持ったクラスメイトに追いかけられ、
草壁がバタバタとこちらに向かって走ってくるところだった。
「やーごめん頼む抜けさして!用事があんの大事な!」
「んな事云ってどーせサボる気だろ!あっ佐条草壁捕まえて!」
「えっ…」
いきなり名前を呼ばれて佐条が固まる。
草壁は彼に気付くと走る速度を緩め、そのまま佐条の背中に回り込んだ。
「来週代わるから!なーお願い。バンドの練習動かせねーんだ」
佐条の背中越しに、草壁が追いかけてきた男子生徒に向かってそう云う。
バンド。ああそうか、だからライブハウスがどうって話をしていたのか。
頭の中にあった言葉と意味がこの時ようやく繋がって、佐条は一人で納得する。
自分達と同じ掃除班である男子生徒ははあはあと肩で息をしながら、佐条の前で立ち止まると不本意そうに声を荒げた。
「…じゃあ来週絶対代われよ。あと佐条にもちゃんと了承とって。おんなじ班なんだから」
再び自分の名前が会話の中に紛れ込み、佐条の両肩が無意識に竦む。瞬間、竦んだ肩にぽんと掌が置かれた。
「!」
「つー訳で今週抜けさして、サジョウ。頼む!」
お願い!と深々礼をされ、佐条は内心慌てふためいた結果、小さく分かった、とだけ呟く。
直後、顔を上げた草壁はぱっと満面の笑みを浮かべ、ありがとなー!と廊下を凄い速さで駆けていった。
一陣の風が吹き抜け、茫然と佐条が彼の後ろ姿を眺めていると、傍にいた男子生徒がやれやれと持っていた雑巾を振り回す。
「っとに調子のいい奴だ…」
そんな言葉を背後で聴きながら、長箒をきゅ、と両手で掴み直し教室へと戻る。
なんだろう。頭の奥がぐらぐらする。
自分の中でさざ波のように生まれた不思議な感覚に首を捻って、佐条は一人黙々と汚れた床を掃いた。
授業中、いつも眠る草壁が起きている日があった。
珍しい事もあるなと佐条が教科書から目を離し、前をそっと見遣ると、彼の耳辺りから白く細いコードが伸びている。
音楽を、聴いてる?まさか、授業中に?
自分の予測を遙かに超えた彼の行動に、佐条の心臓は何故かひどく高鳴った。
先生に見つかったらどうするんだろう。眠るのも確かに良くない事だけど、音楽なんて、音がもし漏れたら。
そんな彼の心配を余所に、草壁は左手で頬杖をつきながら、くるくるとペンを器用に回している。心臓の音が、煩い。
先程まで確かに聞こえていた教師の声が、上手く拾えなくなってしまった。それすら気付かずに、佐条は草壁の背中を見つめ続ける。
ふわり、と風が吹いて草壁の髪を揺らした。
陽差しに透けて金色に光る細やかなそれに、佐条は思わず瞳を細める。
見つかったら、なんて。例え先生に見つかっても、きっとこいつにとってはどうって事ないんだろう。
どれだけ騒ぎを起こしても、どれだけ教師に怒られても、しれっと受け流し学校生活を自由に楽しんでいる。
まるで自分とは正反対だ。佐条はそこまで考えて、知らず沈んでいく思考を切り替えるようにそっと目を伏せ眼鏡を押し上げた。
途端に周囲の音が戻ってくる。ざわつきの中で、プリントは余ったら前に戻せよーと呑気な調子で喋る教師の声が耳に入る。
いつの間にか増えていた板書の続きをノートに書き取っていると、目の前でカサリと小さな風が起こった。
顔を上げると、右手にプリントを持ち後ろに上体を捻った草壁と目が合う。
「……あ」
思わず声が出てしまった。その反応に、ん?と草壁が首を傾げる。
自分の視線が露骨にコードへと向かっていたのだろう、それが分かると草壁は、ああ、これね。
と一人納得した様子で空いている方の手をちょいちょい、とイヤフォンのコードに差し向けた後、
そのまま人差し指を立ててそっと唇に押し当てた。
秘密にしといて。
多分、おそらく、そういう風な事を示したかったのだろう。
草壁は眠そうな瞳のまま悪戯っぽく唇を引き上げると、佐条の机の上にプリントを置いて、くるりと前を向いてしまった。
目の前で起こった出来事についていけず、しばらく茫然として、しかし我に返った佐条は慌てて後ろの生徒にプリントを流す。
心臓の音が、まだ、煩い。一体、これはなんなんだろう。大きく息を吐いて、着席したまま居住まいを正した。
アクビまじりで授業を受け、すぐに眠ってしまう草壁。友達と大声で騒ぎ、楽しそうに笑う草壁。
短い期間で、他のクラスメイトよりも強く印象に残っているのは、席が近くていつもその姿が視界に入るからだと思っていた。
今でも、そう思っているのだけれど。佐条は小さく咳払いをし、気を取り直して、紙面に転がっていたシャープペンを手に取る。
自分とは正反対の、様々な表情を見せる座席ひとつ前の同級生が、この時初めて少しだけ気になった。
■了■
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espressivo[エスプレッシーヴォ]
表情豊かに