本当は、伝えたい事たくさんあるのに云えないままでずるずる放課後。
【allargando】
終礼の鐘が鳴って、人がようやく捌けた後、A組教室の扉をくぐる。
佐条はいつもの場所にきちんと着席して、いつものように読書をしている。
「佐条、かえろー」
草壁は自分でも変な声だと思いながら、ふらふらと彼の傍まで近づいた。
声と同じように、ずっと気持ちが上擦っている。三日前、公園でしたキスから、ずっと。
いつものように遅れてきた待ち人を上目遣いで確認すると、佐条はすぐに俯いて頁の間に栞を差し込み、
ぱたんと静かに文庫本を閉じた。至って普段と変わらないその反応に、草壁が睡眠不足気味の脳内で首を捻る。
あの酔っぱらった可愛い佐条は自分の目の錯覚だったのだろうか。いや今も十分可愛いけれど。
金曜日、解散ライブに佐条を誘って、来てくれたにもかかわらずすれ違って怒らせて。
挙げ句の果てに着信拒否までされてしまい、冗談ではなく死ぬかと思った。
時間にすればとても短くて、離れていたのもほんの一瞬だ。それなのに目の前が真っ暗で、
繋がらない携帯片手に喧噪と人混みの中必死で探しながら、目に灼き付いた佐条の後ろ姿ばかりが焦る頭によぎって消える。
見つけたら見つけたでひどい事を云うし、ばかだし、可愛いし、もう本当に好き過ぎてどうしたらいいか分からなくなった。
初めて深めにしたキスも、掌で味わった背中と骨も、小さく掠れた無防備な声も。
それら全部が鮮烈に自分の中に残ってしまって、タチの悪い熱となり未だじわじわと燻っているというのに、
目の前にきちんと座る佐条は何事も無かったかのように涼しい顔で文庫本を鞄の中に入れ、帰り支度を進めている。
「あのさぁ、佐条…」
俺、かっこよかった?
キス、気持ち良かった?
触れられて感じた?
俺の事、一番好き?
訊きたい事は山程あるのに、いざという時喉の奥につかえて出てこない。
「朝帰りして、怒られなかった?」
結局いつもみたくあやふやで無難過ぎる質問に終わってしまい、
草壁は尋ねながら心中がっくりと項垂れた。そんな彼の視線をするりと外しながら、佐条が答える。
「朝じゃなかっただろ」
「でもさー心配したろ親。佐条優等生だし」
優等生で品行方正のそんな佐条を誑かして、オールのライブに誘って酒飲ませて。
ああよく考えればとんでもない事をしてしまったなあ。ご両親の印象最悪だよなあきっと。
考えれば考える程どんどん気分が落ち込んできてしまい、草壁はごめんな、と今度は本当に項垂れしんみり謝った。
「大丈夫だよ。草壁が気にする事じゃない」
眼鏡をカチャリと押し上げる音がして、少しだけ柔らかな声が耳に伝う。
その声に導かれるように草壁がそっと顔を上げた。しかし声の主は鞄を机上に載せ着席したままやはり視線を合わせない。
細い銀縁眼鏡の奥に隠された瞳は、正面に立つ草壁を避けるようにじっと教室の床を見ているだけだ。
動かないと、整い過ぎて人形みたいだ。
そんな事をぼんやり考えていると、意識を読まれたように固く結ばれていた唇がゆっくりと開いて、ドキリとした。
「それより、……こっちこそごめん」
開かれた唇が紡いだのは小さな謝罪の言葉で、瞬間草壁の頭の中は疑問符で一杯になる。
「え?なにが?なんで?なんでごめん?」
混乱して思わず佐条の顔を覗き込む。しかし佐条は頑なにこちらを見ようとしない。
つつつ、と視線を草壁の足許付近に這わせながら、彼は少し困ったように眉を寄せた。
「や、あの、変なこと云って。…酔ってたから」
なんか色々悪かった。と佐条はぽつりと消え入るように口の中で呟く。
見るとすっきりと出された耳の端が、仄かに赤い。もしかして、照れている?から、視線を合わさない?
草壁は身体の奥で燻る熱の温度が上がるのを感じた。
酔っぱらった佐条は素直で、正直で、ばかで、可愛くて。
隠していた本音をぽろぽろ口から零しては、抱き締めた腕の中でぎゅうとかたくなった。
一人でぐるぐる悩んでマイナス方向に突っ走って、それなのに背中に回る手はけして緩めない。
自分なんかのどこがいいんだ、なんて本気で訊いてくるのだから本当に手に負えないと思う。
例えば全部丸ごと、と云ったら信じて貰えるだろうか。佐条のつむじから足の爪先まで、全部丸ごと愛しいと。
「変なことじゃないよ」
指を伸ばす。佐条の白い頬に触れるとピクリと小さく肩が震えた。
机にもう片方の手を載せて、ぐ、と佐条に近づいて、鼻先が触れ合う程の至近距離でようやく視線を捕まえる。
「え…」
「云うの忘れてた。ライブ来てくれてありがと」
死ぬほど嬉しかった。その後死ぬほど落ち込んでパニクったけど。
佐条の困った顔が間近に見える。もう輪郭すら暈けるくらい近づいて、互いの吐息が混ざり合う頃、ゆっくり唇を重ねる。
キスをする時の佐条はひどく緊張していて、それなのに驚くほど無防備だ。与えられる口づけを、身を固く目を閉じて待っている。
自分が今まで知らなかった感触や感情を、必死で受け止めながら応じてくれるその仕種はだけど本当に可愛くて。
草壁はそんな彼の様子を薄目を開けて眺めながら、きつく引き結ばれた上唇と下唇をそっと舌で舐めて割った。
金曜のあの夜みたいに、佐条の身体が大きく震える。鞄の上に載せられていた手はいつのまにか草壁の肩に縋りつく。
口中で惑う舌を、割り入れた舌で搦め取って、そのままきつく吸えば肩を掴んだ指からカクンと一気に力が抜け落ちた。
「…ッ、」
「……、は……っ…」
角度を変えて、根刮ぎ奪って。
上気した佐条の頬も、蕩けるような舌の甘さも、まるで夢のようで。
何度腕の中に引き入れても、キスを交わしても、現実感が無くて足許がずっとふわふわしていた。
二人で並んで歩きながら、これはもしかして自分の都合のいい幻なんじゃないかなんて疑った時もあったけど。
佐条の白い顎に伝う唾液を舌で舐め取りながら、草壁は痺れた思考の片隅で感じる。
耳の奥に留めた声と、指で確かめた翼のあと。目を閉じれば思い出せる、頭の中に甦る。
そして、目を開ければ正真正銘本物の佐条がいる。ここに、ちゃんと。
「…さじょう、」
俺、かっこよかった?
キス、気持ち良かった?
触れられて感じた?
俺の事、一番好き?
訊きたい事は山程あった。名前を呼ぶその声に、佐条が薄く開けた瞳で微かに応じる。
その現実に胸が痛くじんと震えて、草壁は好きだ、と愛を告白し掛けたが、しかし唇が離れるのが嫌で結局全てを後回しにした。
■了■
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allargando [アラルガンド]
強くしながらだんだん遅く