あれからずっと、困った事に地に足つかない。

【staccato】

どうやら前代未聞の出来事だったらしい。
合唱祭が終了した後、職員室で佐条と二人揃ってしこたま怒られる羽目になったのだが、
草壁は並んで立っている間中、目の前の教師が紡ぎ出す説教など全く聞いてはいなかった。
ゼンダイミモン、今自分の心に起きている事態だってきっとそうだ。
佐条を好きだと自覚したらもう何処にも逃げられなくなった。歌と同時に気持ちが溢れて、自分の涙腺が制御出来なくなって。
訳が分からないまま体育館を飛び出せば、こんな姿を一番見られたくない相手が後を追いかけてきた。
肩に置かれた冷たい手と、控えめな声でもたらされた嘘みたいな本当の言葉。
なんだか実は両想いらしいという奇跡的な事実が判明して、舞い上がってそのまま今に至るのだから、
そんな状態で堅苦しい話なんか耳に入ってくる訳がない。同じように隣に立つ佐条をちらりと横目で盗み見る。
余りこういう場面に慣れていないらしく、佐条はそっと瞳を伏せて神妙に話を聞いているようだった。
白い肌。薄い唇。草壁はこの肌が耳まで赤く染まる事を知っている。引き結んだ唇の、少し乾いた感触も。
思い出して、胸の辺りにふわりと火が灯り微かに息苦しくなった。これはもう本当に、洒落にならないくらい、重症かもしれない。
草壁は制服越し、心臓の上をきゅうと押さえて人知れずこっそり深呼吸をした。

ようやく長い説教から解放された後、皆既に下校してしまったのか、
誰も居ない教室に戻った草壁は、後をついて来た佐条に携帯電話の番号を訊いた。
佐条は一瞬、きょとんと少しだけ驚いた顔をして、しかしその後無言で自分の席に歩いていったかと思うと、
鞄の中から薄い携帯電話を取り出しぱちんと手の中でそれを開いた。
 「…えと、番号は…あ、先にアドレスを云った方がいいのかな」
そうすれば草壁の携帯に送れる、と親指でボタンを押しつつ一人呟いていたが、
制服のポケットから携帯を取り出した草壁がそんな彼の傍までゆるゆると近づいていく。

 「佐条、これさー赤外線使ったら一発だよ」
 「え?」

間近で聞こえてきた声に、佐条が携帯電話のディスプレイから顔を離す。
あ、そうか。とも何とも反応が無いところを見ると、どうやら赤外線を使うという選択肢は彼の中には無く、
丁寧にひとつずつ教えてくれるつもりだったらしい。というか、赤外線機能、使った事無い?もしかして自分が初めてなのだろうか。
だとしたらなんか嬉しい、かも。右手に持ったまま固まってしまっている佐条の携帯を、ちょっと貸してとボタンを操作し、
草壁は自分の携帯と触れ合わせる。通信中、の文字の後に軽やかな電子音がして、互いの情報が上手く受信された。

 「でね、保存。これで俺の電話もメールもオッケーだから」
 「あ…、どうも、ありがとう」

返却された携帯電話をじっと見つめながらそう云った後、
たどたどしくボタンを押して自分の番号とアドレスを保存してくれている佐条の横顔に、あーやばい。と思った。
胸に灯った火がゆらいで大きくなる。草壁が音も無くそっと前に一歩進んで、二人の間にあった距離を更に縮める。
佐条は未だ携帯電話と格闘中で、至近距離に立つ草壁に気がついていない。

 「佐条」

さじょうりひと。へんな名前と思っていたのに、まるで自分を取り巻く全てがあのキスをした瞬間ぐるりと反転してしまったかのように、
目に映るものも感じ方も劇的に変わってしまった。歌練習からだからきっと多分、まだ数える程しか呼んでいない名字を、声に乗せる。
これから何回、自分はこの愛しい同級生の名を口にするんだろう、とか考えながら。呼ばれた本人がふ、と顔を上げた。
傍に立ちこちらを覗き込む草壁との距離が、先程よりもかなり近くなっている。しかしそう思うより先に、ゆっくりと唇を重ねられた。
突然の事に驚いて、驚いているのに身体が全く反応出来ない。こういう状況に持ち込まれてしまうと、
経験の無い佐条はただただ緊張に身体を固くして草壁の唇を受け入れるしか出来なかった。
どうやって息をすればいいんだろう。というか、息をするという基本的な行為すら忘れてしまう。
最後の歌練習で、不意に交わしたキスよりも、用具室に隠れ互いの気持ちが暴かれた後のキスよりも、長く感じる。
少しずつ、草壁はわざと時間を伸ばしているのだろうか。それともそう思うのは、自分の錯覚なのだろうか。
目を瞑り余裕のない頭で羞恥心と戦いながら必死にそんな事を考えていると、
ふ、と柔らかな吐息と共に唇に触れていた感触が消えて無くなった。そろそろと佐条が両目を開ける。
息が混ざる程近くにいる草壁は、この雰囲気に少しだけ照れているのか視線をずらすと、
声聴かしてね。と小さく耳許でそう云った。

それから、二日。草壁は人生初の「悩み」というものにぶつかっている。
合唱祭が済んで学校生活は普段通りの通常授業に戻った。
佐条とする歌練習は無くなってしまったけれど、練習じゃなくても一緒に居られる立場を得た。
それなのに、なんだか、教室で過ごす時間や友達も別段変化する事無く、
少し離れた場所に座る佐条もあれからいつも通りで、更に二日続けてあったバンド練習で放課後は仲間に速攻拉致されてしまい、
二人の時間を作る事が出来ない草壁は心中かなり焦っていた。もしかして、盛り上がっているのは自分だけではないだろうか。
両想いで、キスをして、はからずしもこれって恋人同士という関係だと思うのだが、何かが変わる気配は無い。今のところ。
バイトの練習から帰宅した草壁はそのまま自室のベッドへ倒れ込むように横になると、うーんと低く唸りつつ頭を抱えた。
声が聴きたい。授業中、当てられて淡々と質問に答える声じゃなくて、ちゃんと自分を呼んでくれる佐条の声が欲しい。
枕に押し付けていた顔をのろりと上げ、草壁は右手に握っていた携帯電話の表面を指先で撫でる。
今から電話をしたら、迷惑だろうか。既に時刻は日付が変わって三十分程経過している。でも家電じゃないし。
先にメール打って訊いてからの方が確実かも。だけど寝てて気づかれなかったらアウトだ。
草壁は携帯電話を睨みつけたまま、ぐるぐる考える。というか、佐条メール返すの苦手なんだよなあ。
これはこの二日間という短い期間で学んだ事。だからきっとアポ無しの方が捕まる。
頭の中でぐるぐる巡る考えは、まとまりなく際限無く拡がって手に負えなくなった。

 「…だあ!もー!考えるな、感じろ俺!」

がばりと良く分からない事を口走ってバネ仕掛けのように勢い良く起き上がると、草壁はベッドの上であぐらを組んだ。
いざ、と携帯電話を開いた瞬間、掌で軽快な着信音が鳴る。草壁は我が目を疑った。ディスプレイに表示された名前が、
今まさにこちらが発信しようとしていた相手だったからだ。
予想もしない出来事に混乱したが、なんとか即座にボタンを押して、佐条!と叫んだ。
後になって考えれば普通、初めて掛かってきた相手にその応答は無いと思う。

 『あ、…く、くさかべ』
 「うん!」

佐条だ。草壁が耳にぎゅう、と電話を押し付ける。佐条の声が、自分の名前を呼んでいる。
たったそれだけの事なのに、心臓が速度を上げて高鳴ってしまう。

 『ごめんな、こんな夜遅くに。…今、時間大丈夫?』
 「へーきへーき!さっきバンドの練習から帰ってきたとこ。あ、あの」

俺も電話しようと思ってた。
とはなんだか云えなくて、変な感じに語尾が潰えてしまった。
しかし佐条には、草壁の云いそびれた小声のそれが聴こえていなかったらしく、
良かった、と小さく息を吐いて安堵すると、実はと話を切り出し始める。

 『明日の英語の小テストの範囲、教えて欲しいんだけど…』
 「ん?」
 『プ、プリント無くしちゃって』
 「んん?」

小テスト。の範囲。それらは自分の中で余りにも縁遠い言葉だった為、
一瞬、佐条が何を云ったのか分からなくて草壁がかちんと固まる。しかし思考が再起動した直後、
ちょっと待って!とベッドから飛び降り、山積みの机上から死ぬ気で該当プリントを探し出した。
この時ばかりは、部屋を片付けてなくて本当に良かったと感動する。くしゃくしゃになったプリントを伸ばしながら、
草壁は明日行われるらしい小テストの範囲を口にした。

 「えとねー、単テキの35から48ページ。でもさあ、きっと佐条だったら楽勝だよ」
 『そんな事ないよ』
 「今から勉強すんの?」

一拍置いて、佐条が答えた。

 『…少しだけ。ありがとう、助かった』

草壁の、携帯を握り締める力が強くなる。やばいこれは何事もなく電話切られる予感。本能がそう察知した。
キスをして、両想いになって、電話をして、次々とめまぐるしく変わる状況に地に足がつかなくて、
それなのにまだ全然恋人っぽくない現状にもどかしさを感じて。だってまだ二日だ。だけど。
考える暇があるなら行動に移せ。草壁は意識をそう切り替え、あの!と無理矢理会話の主導権を奪い取った。
電話越しから突然聴こえた大声に佐条が微かに狼狽する。

 「あの!佐条、あした…明日、一緒に帰ろう」

しん、と静まった電話口の向こう側。手に汗握る、とは今まさにきっとこういう状態の事を云うのだろう。
心臓は先程からずっと高鳴りっぱなしで、顔が熱い。向こう側で、ふ、と空気が緩む感じがする。
耳を澄ませると、佐条が柔らかな声音でいいよと云った。

 『予備校あるから途中までだけど、じゃあ、一緒に』

それを聴いた草壁の身体から、ゆるゆると力が抜けていく。
嬉しい、やっと、ちゃんと、佐条と一緒にいられる。佐条の傍に。
もう一度、きちんと明日の放課後帰る約束を念押しすると、分かった、と苦笑して佐条は電話を切った。
どうもありがとう、と最後に感謝の言葉を呟いて。しかし草壁は通話の切れた携帯電話を握りしめたままで、
なかなか手離す事が出来なかった。佐条の告げたありがとう、は、きっとテストの範囲を教えてくれて、に係るに違いないのだけれど。
胸はずっと高鳴ったままで、耳に残る声の余韻がこびりついて、離れない。
草壁はぽつりと小さく、無意識に最後の言葉を口の中で反芻した。

 「…ありがとう」

先にきっかけを作ってくれて。
踏み込む勇気を、与えてくれて。



■了■



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staccato [スタッカート]
音と音の間を切って演奏すること