物事は始まったら必ず終わる。永続性を信じてはいけない。そう、思っていた。

【sosutenuto】

何故か再び海に来ている。
今度はサボタージュではなく、予備校までの空いた時間にと草壁は放課後佐条を連れて電車に乗った。
車窓を流れる風景は全体的に濃い橙に染まっていたが、海岸に着いた頃には既に太陽が地平に傾き、
景色は薄い蒼に塗り替えられていた。二度めの夏が過ぎ、秋が深まるにつれて夕暮れの時間は次第に短くなっていく。
陽射しは翳り頬に触れる海風はひんやりと冷たかった。
しかしそれにも臆せず砂浜をさくさくと背中を丸め歩いていく草壁の後ろ姿を眺めながら、佐条は微かに瞳を細める。
相変わらず楽しそうだ、とても。草壁は海が好きだ。無駄にテンションが上がるとかなんとか云いながら、
今日も波打ち際まで来た途端、裸足になって海に入った。佐条は寄せて返す波と一人戯れる草壁を横目に、
少し離れた場所へ腰を降ろすと、傍に置いた鞄の中から一枚の封書を取り出した。
今朝、夏休みに受験した統一模試の結果が自宅に送られてきたのだ。
登校前、家を出る間際に気づいた為、鞄に入れたまま今まで目を通す暇が無かったのだが、
佐条はようやくその封を慎重に破り、中に入っている紙をそろそろと広げた。
少しだけ緊張しつつ、各教科の点数と判定を丁寧に確認する。

 「……」

一瞬我が目を疑って、そしてもう一度まじまじと紙面を見直した。
あの時自分が置かれていた状況は、今まで受けてきたどの模試当日よりも波瀾に満ちたものだった筈なのに、
そのどれよりも、今回の試験結果が良かったのだ。全力を出しきったとは云い切れない、
けれど確かに試験が行われている間は不思議な程に落ち着いていた。佐条は記憶を反芻する。
それまでの試験とあの時と絶対的に違う事、それは、草壁が傍にいた事だ。
電車から自分を救い出し、試験会場までバイクを飛ばし、終わるまで外で待ち続けてくれた草壁。
生まれて初めて、背筋がぞっとするような厭な喧嘩を彼としてからずっと、連絡は途絶えたきりだった。
それなのに、あんな現れ方は本当に反則だと思った。距離を置いて考え悩んで、その上で伝えたい事も沢山あって、
けれど朦朧と頼りない意識の淵で、目を開け視界に飛び込んできた心配そうな草壁の顔を見た瞬間、
頭に浮かんでいた言葉全てが蒸発して、もう何もかもどうでも良くなった。それくらい、反則的な程に、あの時の草壁は格好良かったのだ。
別れるという選択肢は無い。結果的に、彼の告げたその言葉が自分を今までになく強く、あるいは安定させたのかもしれない。
紙面に印字された得点の羅列を眺めながら、佐条はそっと息を吐く。
まさか草壁の存在が、こういう形で大きく影響するとは思ってもみなかったので、正直驚いていた。
結果の伸び辛い夏に偏差値が上がったのは良い事だと思う。しかし純粋に喜んでいいのかは、迷う。

 「なに見てんの?」

突然、声が降ってきたかと思うと背後からひょい、
と草壁の顔が耳許間近から現れて、佐条は思わず変な声を出してしまった。

 「なっなに…!」
 「や、訊いてんのはこっちの方なんですけども」

全身を硬直させ、ぎくしゃくと顔だけ振り返ってこちらを見ようとする佐条の反応が可笑しかったのか、
草壁は緩く笑いながらさくさくと背後から彼の隣に移動して、同じように腰を降ろした。

 「なにこれ?」

体育座りの格好で横から首を伸ばして覗き込み、
しかしさっぱり分からないのか、んん〜?と唸りながら草壁は眉を寄せる。
佐条は広げていた用紙を草壁の方へ心持ち寄せてやりながら、模試の結果だよ、と告げた。

 「夏にあった統一模試。お前が会場まで送ってくれた」
 「あ。ア〜あったなそれ。それかあ。こんな遅いの?返ってくんの」

あの時の事を思い出したのか、草壁が納得したように頷いたその後で、
すぐに不思議そうな釈然としない妙な顔をこちらに差し向けた。

 「全国模試だし。…って草壁、受けたこと」
 「ないよ。なんか学校で強制で受けさせられるやつしか」

結果戻ってくんのも知らんかったなー、と口の中で呟きながら、
見てもいい?と訊いてきたので佐条はどうぞと用紙を手渡す。

 「なにこれはどこを見るの?あ、京大て書いてある」

どうやら見方からして既に分からないらしい。
データ化されたそれは確かに複雑だよなと佐条は苦笑しつつ、紙面に記された科目配点や偏差値、
そして志望校判定の部分を指で示しながらかいつまんで説明してやる。

 「A判定って?」
 「このままいったら合格圏ってことだよ」
 「すげー、あとなんか偏差値も上がってんよ」
 「なんか、今回一番結果が良かったんだ」

へえー!と大きく感嘆した声を上げながら、
良かったじゃんとまるで自分の事のように嬉しそうに云うと、草壁は持っていた紙を佐条の手に戻す。
海風が邪魔をして、渡された時紙の端が一瞬だけ翻った。

 「京大、行けそう?」

声と共にとん、と左肩に温かなものが触れた。
はためく紙を手に、佐条が自分の肩に視線を遣ると、
草壁が、右肩を彼の身体に凭れ掛けるように触れ合わせ、じっと佐条を見つめている。
湿った風は彼の柔らかな髪を巻き上げ、不思議な薄茶の流れを作っていく。
揺れる前髪からちらちらと覗く彼の瞳は確かに笑みを浮かべていたけれど、訊ねた声は少しだけ、いつもよりもどこか静かだった。
返答に少しだけ迷った後、佐条は持っていた紙を折り畳んで鞄の中に仕舞うと、眼前に広がる海を眺めゆっくりと口を開く。

 「…草壁のおかげだよ」
 「へ?」
 「草壁が傍にいてくれたから良かったんだ、と思う。点数」

本当は、受験の足音が聴こえ始めるこの時期に、こんな事で揺れていてはいけないのだ。
もしもあの時、距離を置いたままで関係も修復出来ていなかったら、模試の結果は惨憺たるものになっていたに違いない。
きっと自分のメンタル面でこの先草壁は多大な影響を及ぼす。それが少し、怖かった。目に見えないものだから、余計に。

 「…俺、受験ときもバイク飛ばそっか?」

顔を覗き込みながら、草壁が笑う。

 「京都まで?」

つられて佐条が静かに微笑んだ。

 「京都まで」

彼が云うと冗談なのか本気なのか分からない。けれど、きっと大方本気なのだろう。
惜しみなく、真剣に想ってくれているのはこの一年で充分過ぎる程理解している。
触れ合った肩が少しだけ接近して、草壁がそっとこちらに顔を寄せる。黙ったまま、視線だけが絡まった。
キスをする直前の、この独特な雰囲気は一体どこからくるものなのかと佐条はいつも考える。
何度も繰り返した筈なのに、頬が熱くて心臓が跳ねる。甘く、緩く、それなのに張り詰めたスローモーションのように一瞬が長い。
瞳を閉じ、唇を重ね合わせ、この時だけは有限を忘れて。反面、あとどれくらいこんな事が出来るのか、彼とこうしていられるのかを考えて怖くなる自分が居る。
草壁を好きでいる事と、自分の想いを信じる事は似ているようで少し違うと、この一年で佐条は知った。
寄る辺ないものを信じようとする時、どうしてもその向こう側まで先回りして考えてしまうのは、悪い癖だと分かってはいるのだけれど。
酔わされていた意識がようやく少しずつ明瞭になり、微かな波音が耳に戻ってくる頃、草壁の体温が離れていった。
お互い顔を見合わせ、黙ったままで何か言葉を探し掛けようとしたその途端、草壁のポケットの中で携帯電話のアラームがタイミング良く鳴った。

 「あああ…タイムアップ…」
 「時間だ。行かないと」

恨めしそうにぐずぐずとアラームを切る草壁のすぐ隣で、佐条は脚許の砂を払いながらそっと立ち上がる。
同じように、片足ずつ立って器用に靴下と靴を履き終えた草壁は、あ、そうだ。と自分のズボンのポケットをごそごそと探った。
程なくして目的の物が見つかったらしく、草壁は顔を上げるとほい、と佐条に向けて右手を差し出す。

 「?」

良く見ると、彼の右手の人差し指と親指の間には、波に削られ丸みを帯びた薄いブルーの硝子が挟まれていた。

 「さっき拾ったんだ」
 「硝子…」
 「この辺あんま落ちてないんだけど。めずらしーから佐条にあげる」

促されるままおずおず出した佐条の掌に、草壁が持っていた硝子を乗せる。
想う気持ちは形が無くて、信じる事はとても怖い。
けれど、もしもいつか、遠い未来に彼の存在が思い出になってしまう日が来ても、
彼がくれた海の硝子はずっと在り続ける。この、自分の掌に。表面がざらついたそれは、小さくひんやりと手の中に収まっている。
ひとしきりじっと見つめた後、佐条は礼を云おうと顔を上げたが、当の本人はふらふらと先を歩いて行ってしまっている。
多分、照れているのだ。いつもより心持ち竦められた両肩がそれを物語っていた。
佐条はもらった硝子の欠片を制服の内ポケットにそっと忍ばせると、
微かに笑みを浮かべて、砂浜に残る草壁の足跡を一歩一歩確かめるように進んだ。
怖くても信じる、例え自分が傷ついても信じたい、愛しい相手の居る方へ。



■了■



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