練習
なんかマズイかな、とは思っていた。
いつも以上に青白い顔は、それでも苦しさを押し込めるように唇を噛みしめていて。
懸命なそれがけれどそう長く続かないという事は、自分だけでなくきっと誰の目から見ても明らかだったのだろう。
「これ荷物。服と鞄」
トサ、と傍にあった丸椅子の上にそれらを置くと、ブン太は黙ってすぐ横のパイプ椅子に腰掛ける。
「…すみません。迷惑をかけて」
彼の正面、硬く白いベッドで上体を起こした柳生が、平坦にそう詫びた。
感情の希薄なそれは、ただ彼がそういう気持ちを表に出す事が普通の人よりも苦手だからだ、とブン太は知っている。
気持ちを上手く声に込められない。表現出来ない。だから別に気にならない。
本当は誰よりも申し訳無く思っているという事は、ちゃんと雰囲気で伝わってくるから。
「別に俺はかまわねーけど、ぶっ倒れるくらい熱あんなら休めよ」
ハーフパンツのポケットへ乱暴に片手を突っ込んで、
がさがさとその中から目当てのガムを引き当てたブン太は、それを口の中に放り込んだ。
その様子を目で追っていた柳生の表情が、ほんの僅か厳しくなる。
「ブン太君、ここは保健室です」
「もう食べちゃったもん」
「……またそんな、…」
反論しかけて、億劫そうに柳生が口を噤む。どうやら本格的に体調が良くないらしい。
当たり前だ。熱があるのに通常メニューの後半まで、レギュラー達と一緒に普段通りの練習を続けていたのだから。
そして突然フツリとその場に倒れた。柳と真田が二人掛かりで肩を貸し、保健室まで運び、
熱を計った保健教諭から部活は無理だという判断を下され、そして自分が幸村の指示で彼の荷物をここまで運んだのだ。
ダブルスを組んでいる筈の仁王は、部活に参加していなかった。今日も。
思い出しただけで、ブン太の目つきが無意識に険しくなる。
心なしか、ガムを噛む為顎に込める力も少し強くなっていた。
「ったく、こんな時にどこ行ってんだよアイツはよ」
吐き捨てるように小さく呟いた筈だったのに、聡い柳生の耳にはしっかりとその言葉が聴こえてしまったらしい。
熱で少しだけ上気した頬をこちらに向けて、無表情のまま、告げた。
「仁王くんは、関係ありません」
「別に仁王だって云ってねーじゃねーかよ」
ふてくされるように反論するブン太の顔を眺めながら、
この人は本当に嘘のつけない人だな、と柳生は静かに思う。
自分も嘘は苦手だが、彼程素直では無い。純粋に、本当にいい人なんだろう。
そう思うと、こうして自分につきあわせてしまっている事に対し、酷く申し訳なくなってしまった。
自分なんかの為に時間を潰す必要なんて無いのに。
「俺、あいつ嫌いなんだよ」
私の事はもういいですから、と切り出そうとした瞬間だった。
一瞬、自分の聴き間違いかと思い、柳生は次に口にすべき言葉を、声にする事を躊躇う。
けれどブン太はそう云ったきり、難しい顔をしたまま無言でガムを膨らましてはパチン、と破裂させる行為をゆっくりと繰り返す事に専念していた。
「…仁王くん、は」
掠れた声に自分でも驚いて、咳払いをして唾を飲み込む。
熱がある所為か、何だかそんな当たり前の動作でさえも何処か壁一枚隔てたような、別の世界の事のような奇妙な感じを覚えた。
「…仁王くん、は、悪い人ではありませんよ」
ぐらりと襲う浅い目眩に目を細めて。
薬が全然効いていない気がする。背中をザワザワと這い上がっていく悪寒が酷くなる。
こうして倒れたのは、誰の所為だ。
熱を出したのは、昨日、彼を、雪の中で2時間も、待っていたから。
甦る、彼の蔑んだ瞳。投げかけられる無慈悲な言葉と、それでも触れられた部分から伝わってくるぬくもり。
思い出すだけで、胸の奥が熱くなる。
「悪い人ではないです」
倒れたのは自分の所為だ。熱を出したのも、自己管理がなっていなかったからだ。
まるで自分に云い聞かせるような、そんなやけにはっきりとした声で、
柳生はこみ上げてくる忙しない呼吸を抑え、ブン太の言葉を否定する。
ブン太は今まで作っていた一際大きく膨らんだガムをパチンと割ると、小動物のような丸い瞳でまじまじと柳生を見つめた。
いつも冷静で物静かな彼が、一瞬でもこんなに感情的になるなんて、珍しい。
否、薄々気づいていた。普段の徹底した無表情がほんの時折僅かに崩れる時がある事を。
「柳生ってさ」
それが、この人物の名前を出す時に限られている事を。
「仁王の事好きだよな」
ぐぐっと柳生の顔に自分の顔を近づけて、これでもか、というくらい真面目な表情を作って尋ねた。
正面、ベッドの背にもたれている柳生も、とても真剣な表情をしてそれを聞いていた。
遠くで聞こえる暖房器具の音だけが、控えめに空気を震わせている。
「つか愛しちゃってるよなー!」
さっすがダブルスパートナー!
その張りつめていた空気と、作り上げていた真面目な雰囲気をわざと一気にぶち壊す。
努めて明るい声で笑うブン太が、パートナーのナーの部分を云い終わる前に、
しかし未だに彼の顔を見つめたままだった柳生が、真顔でこくりと深く頷いた。
「はい」
「いや冗談だって!軽い冗談」
わはははと笑うブン太。なに頷いてんだよなんでそんな真面目な顔なんだよ。
心の底では全然笑えてなかった。背中に薄ら寒いものが流れ落ちる。
「仁王くんの事が好きです」
「いや、だから…」
「冗談では無いですよ」
ケホ、と小さく吐き出した咳を拳で覆いながら、柳生は眼鏡越し、熱で潤んだ両眸でブン太を見つめ続けていた。
「いや……」
どうしよう。
軽く、本当に軽くカマをかけただけなのに、ものの見事にハマった。
というか自ら飛び込んできた、という方が正しいのか。
ブン太は引き攣りもはや笑いになっていない乾いた笑いをようやく止める事に成功した後、
え〜と…、と赤い髪の毛の先を落ち着きの無い様子で指先でゆるゆるといじった。
「……いやでも柳生、男だぞアイツ……」
やっぱり柳生の前でこいつの話題は禁忌だったんだ。絶対そうだ。
興味本位でつついていい話では無かったのだ。後悔の念に苛まれながら、
馬鹿馬鹿しい事を口にしている自分に気づき、またウンザリした。
「男ですね。でも好きなんです」
柳生はというと、何のためらいも無くサラリとそう返す。
先程自分の言葉を否定した時のような感情はそこには全く見られず、
ただ淡々と用意された答えを口にするような彼に、ブン太はますます訳が分からなくなる。
「…い…いつくらいから…その」
口に出してウワアと思った。何を訊いているんだ。もう止めたいのにこんな話題は打ち切りたいのに。
けれどある部分では、柳生の反応に妙に引っ掛かっている自分が居た。
何かが不自然だと思ったのだ。何かがちぐはぐだ。奇妙な齟齬感。男が男を好きだと云っているからか?
違う、そういうものとは異なる、もう少し本質的なところで何かが食い違っていると、頭の何処かで思ってしまったのだ。
「一年生の頃からですかね」
何の感慨も無く答える柳生。
やはり違和感。どうしてこんなに客観的でいられるのだろう。
それが彼の想い方なのだと云われれば、それまでだけれど。なんだか。
「ずっと…好きなのか?」
「はい、好きです」
人工的。
だと思った。
それきり黙ってしまったブン太は、しばらく経った後、悪い。と小さな声で呟いてカタン、と椅子から立ち上がった。
その言葉を受けた柳生は、微かに首を傾げる。どうして彼が謝るのかが分からない。
迷惑をかけてしまったのは一方的にこちらだというのに。
「部活戻るわ」
「どうも有り難うございました、ブン太くん。皆さんに私は大丈夫だと、お伝え下さい」
「そういう事は熱が下がってから云えよ」
「すみません」
ベッドの中で律儀に頭を下げる柳生を視線の端に捕らえながら、出ていこうとカーテンに手を掛けた彼が一瞬、立ち止まる。
「あー…と、えーと」
「……?」
「さっきの、やっぱ聞かなかった事にするから」
後ろ姿の小さな背中はそう告げると、ひらりと生成り色のカーテンをめくって出ていった。
まとまらない頭でその意味をようやく理解した柳生は、ぼんやりとブン太が出ていった方向を眺めながら、ひとつ軽い咳をする。
医者の息子が情けない、とは思うが、けれど別に後悔はしていなかった。
雪の中の出来事を反芻するだけで幸せになれる自分は物凄く安上がりで、とても愚かで。
それでも彼を想わずにはいられなかった。
初めて他人に晒した自分の気持ち。
軽く痛む喉をそっと押さえながら、ひっそり口にする。
心優しい友人は聞かなかった事にする、と云ってくれたけれど。
私は。
「仁王くんが、好きなんです」
声にすればする程、安心できた。
想いが確固たるものになるような、そんな気がした。
「好きなんです」
彼にはけして、届かないだろうけど。
■了■
- - - - - - - - - -
二年の冬、はじめてブン太にバレる時。
ここから第三者・ブン太の受難が始まります。