約束
約束します。
貴方以外を見ない。
貴方以外の声を聞かない。
貴方の傍を片時も離れない。
貴方以外の何者にも、心を動かされたりはしない。
貴方が望むのなら、強固な誓いを。約束を。
仁王くんの後ろ髪が微かに震えている。
透き通るような銀色に意識を奪われたまま、私はその眩しさに目を細める。少しだけ、頭がくらくらした。
鈍い熱をはらんで痛む右頬。無造作に口許を拭えば、手の甲に赤黒いものが付着した。
ぼんやりとそれを見下ろした後、再び顔を上げて、制服に包まれた仁王くんの背中に視線を戻す。
眼鏡、は先程ぶたれた衝撃で、何処かに飛ばされてしまったのか行方は分からない。
ただ、床に落下する際大きな音を聴いたような気もするから、どこか破損しているのかもしれなかった。
どれだけ目をこらしても、どうしても輪郭が暈けてしまう自分の曖昧な視界に酷く苛だつ。
これでは仁王くんが、良く見えない。
「仁王くん」
名を呼ぶ。彼の名前を舌に乗せ、音にするのはとても好きな行為のひとつだった。
鬱陶しいと厭われても、これだけはどうしても止められない。仁王くん。
何度呼んでも返事は無かった。無視される事には慣れているから、私は構わず次の言葉を投げ掛ける。
「すみません」
その声にピクリ、と前方に見える彼の両肩が小さく動いて反応した。
けしてこちらを振り返らない後ろ姿にぼんやりと想いを馳せる。
彼は、今、一体どのような顔をして、どのような事を、想っているのだろう。
「私が、浅はかでした」
切れた口の端を、そっと伸ばした舌先でなぞれば、じわりと鉄の味が唾液に混ざる。
傷ついて疼くそこに指を添えながら、私は謝罪の言葉を呟く。
約束をしたのに。それなのに。
なんて自分は愚かだったのだろう。
寄せられた好意に、気づいた時点ですぐにでも対処すべきだったのだ。
それを怠った私は、良い顔をし続けた結果いつの間にかある一人の女生徒に交際を申し込まれていた。
その時になってようやく事の重大さに気づいて断ったのだが、今にして思えばその断り方もいけなかったのだろう、
泣き出した彼女と結託した友人達に責められ、非難された。
最低。思わせぶりな態度をとったクセにあっさり裏切るなんて。
彼女達が口々に放つ攻撃的な言葉は、例えそういうつもりでは無かったにせよ、
「そう」思わせてしまった私の耳には容赦無く痛烈に突き刺さるものばかりで、
ただその自ら犯した過失の事実と大きさに脅かされ、ひたすら謝罪を繰り返すしかなかった。
しかし、泥沼のようなこの状況に決着をつけたのは、途方に暮れる私でも、傷つけられた女生徒でも無く、仁王くんだった。
例え大人数の生徒を擁していようと、学校という世界は身を浸してしまえばとても狭い。
いつの間に情報が耳へ入ったのだろうか、勝手に間に入った彼は、見事に事態を収束し、そして一方的に彼女と私の縁を切ってしまった。
かつて何度もこんな修羅場をくぐり抜けたのであろう慣れた手腕で、呆気無い程、鮮やかに。
それから私は、仁王くんに殴られた。
裏切られた可哀想な彼女の為、では無い。彼の拳は、いつも私の為だけに使われる。
以前から、こういう事はよくあったが、こういう事をする時の仁王くんは、酷く苦しそうで、
暴力をふるわれているのは誰でもない私自身である筈なのに、それを忘れてなんて痛々しい、
と苦痛に歪む彼の表情を見つめ心配する程だった。
こういう事をした後、仁王くんは優しくなる。
まるで張りつめた糸が切れるように。嵐の後不意に訪れる、静寂のように。
私を傷つけていた固い拳はゆるゆると解かれ、痛みに耐えるように強張らせていた私の身体へ力無く廻る。
どくどくと、脈を打つ心臓。熱を持った身体。互いの鼓動と皮膚の温度が伝わるくらいきつく抱き締められると、
その息苦しさに私は何故かいつも泣きたくなった。柳生。と仁王くんが名を呼ぶ。縋るように頼りなく、子どものような幼さで。
やぎゅう。鼓膜を甘やかに震わす声音に陶然としながら、なんですか、と返事をしても彼はそれ以外の言葉を口にしない。
廻した両腕に更に力を込め、強く抱き締めたまま肩口に額を押しつけて、
自分の中の何かをじっとやり過ごすように、仁王くんは私の名前を、
私の存在を確認するように、ぽつりぽつりと口の中で呟いていく。
そして同様に、先程まで私の胸を占めていた泣きたい程に不安定な気持ちは、
彼のその声を聴いている間にゆっくりと落ち着いて消えてしまう。
けれど今日の仁王くんは、こちらに背を向けたまま一言も喋ってはくれなかった。
その仕打ちは当然の結果なのだと思う。約束を破った私が悪いのだ。
彼に想いを寄せていながら、どういう理由であれ、私は彼女の好意を無下に出来なかったのだから。
罪深い私を、仁王くんは抱き締めてくれない。あの腕の中に、入れてくれない。
じくじくと痛み出す口の端を押さえたまま、ゆっくりと立ち上がった。
瞬間視界が奇妙に揺れて僅かにふらついたが、覚束無い足を叱咤しながら仁王くんの傍まで歩いていく。
そこに再び腰を降ろすと、近くなった彼の、丸まった背中が低い声を吐いた。
「……お前は、」
「…?」
「お前は、それでも何も云わないんだな」
「………」
「俺を、責めないんだな」
責める。
私が彼を。
どうしてそんな事を云うのだろう。
唐突に告げられた言葉の真意が汲み取れず、口を噤んだまま仁王くんの方を見れば、
折り曲げた両脚、崩れた三角座りのような格好で両膝に力無く腕を乗せた彼は、
殺伐とした憂いを瞳に滲ませ何処か遠くを見つめていた。
「…責められるのは、私の方です」
長めに伸ばされた前髪から覗く、その瞳に気圧されそうになりながら、それでも口を開き声を出す。
尋常では無い、底無しに沈むような暗さをたたえた彼の瞳。
苦しんでいる。のか。
彼もまた。私と同じように、否、私以上に。
どこにも根拠は無い。けれど、まるで直感のように自分の中で生まれた考えに、思わず息を呑んだ。
想いというものは目に見えないから、それに対して絶対的な確信など持つ事は出来ない。
だから私は自分の想いを信じるしかない。何度もなぞって、揺るぎ無いものにして、仁王くんを、想うしか。
けれど、その行為によって彼を苦しめているのだとしたら、縛りつけているのだとしたら。
その、ひとつの疑惑に思い至った瞬間、背筋を覆う皮膚の下で、ぞわりと何かが走り抜けた。
嫌悪と、快楽が混ざり合った形容しがたい感情、感覚。
約束という言葉で、私は自分を縛るふりをして、本当は仁王くんを、縛っているのかもしれない。
だとしたら、それはなんて。
「全て私が悪いんです。仁王くんが責められる理由など、どこにもありません」
私の放った言葉にふ、と微かに顔を上げ、仁王くんがこちらを見る。
切れ長の瞳。何度射抜かれても慣れる事のない、強い眼差しを受けながら私は腕を伸ばしぎこちなく彼を抱き締める。
ゆるゆると二本の腕を背中に廻し、まるで彼の動きを模倣するように。
「ですから」
そんな顔をしないで下さい。
語尾はもう微かに震える吐息だけになって、私は彼の肩口に額を押しつける。
いつも彼がそうするように、同じように。仁王くんはされるままで、素直にそれに従っていた。
色々な場所で跳ねる、銀色の硬い髪が頬や耳にあたってくすぐったい。
息を吸う。彼の匂いを身体で確かめながら、目を瞑る。
いつから、こうなってしまったのだろう。どこから、間違ってしまったのだろう。
踏み外した先はとても暗くて、傍に居る仁王くんは笑ってもくれない。
揶揄の混ざった瞳も、愉しそうな声も無くなってしまった。私が縛ったから。私が全て奪ってしまったから。
その罪悪感と背徳感に押し潰されそうになりながら、私は彼を抱き締める腕の力を強くした。
自分の中の薄暗い部分、そこで確かに息づいている、怖いくらいの充足感と幸福感を、じっとやり過ごすように。
■了■
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がんじがらめの幸せ。