柳生は意外と女にモテる。
「お願い、仁王くん」
と、いう事に気がついたのは、奴宛の手紙を三度握りつぶしてからだった。
放課後、一人教室に居残ってだらだらと部活の用意をしていたら、同じクラスの女子に廊下へと呼び出された。
柳生くんに渡して欲しいの、と控えめな態度で手紙を差し出す彼女に、呼び出された仁王はいつもの表情でにっこりと返す。
女子にしか見せない、人懐こく甘やかな笑みを口許に浮かべて。
「構わんよ。あいつに渡しとく」
眼前にある手紙を掠め取るように、骨張った指で挟むと、それをひらりと揺らした。
断られると思っていたのだろうか、女生徒は仁王の顔を見上げたまま、しばしぽかんとしていたが、
我に返ってありがとうとごめんねをお辞儀と共に何度も彼に寄越した。
今にも泣き出しそうな、耳まで赤く染まった顔をにこやかに見下ろしながら、仁王はズボンのポケットにそれを仕舞い込む。
こっちこそごめんなあ。多分この手紙、一生柳生に届かんよ。
心の奥でこっそりと、彼女にそう懺悔をしながら。
あんな男のどこが良いのだろうか。
女生徒と別れた後、仁王は荷物を放置したままの教室に戻らず、どんどん廊下を進むと突き当たりを折れて階段を昇った。
階下と同様に人気の無いがらんとした灰色の廊下を歩きながら、彼は目当ての教室に辿り着くと、
首を微かに伸ばしガラス戸越しに中を覗いてみる。柳生の在籍しているクラスは、けれど誰一人そこには居なかった。
誰よりも真面目な奴の事だ、既にユニフォームへと着替え、コートに立っているのかもしれない。
空振りに終わってしまった来訪に少しだけ気力を殺がれたが、かといってこのまま部活に出る気にもなれず、
仁王は廊下に面した窓枠へ凭れるように背中を預けると、ポケットから預かっていた手紙を取り出し、無造作に封を開けた。
同じテニス部だから、ダブルスを組んでいるから。
自分と柳生には他の者以上に接点があるように見えるのだろうが、
実はレギュラー達の中で一番互いのつながりが薄いのは自分達だと仁王は思う。
三年間同じ部で、同じ頃にレギュラーになって、最近はダブルスも組んではいるが、仁王は柳生に近づいた気がさっぱりしない。
常に礼儀正しく、物腰は柔らか。性格も成績も人あたりも良いなんて、自分とはまるで極致に値する男だ。
理解しろという方が無理な話だった。一方、相手もそう思っているのか、柳生は自分に対し、明らかに見えない線引きをしていた。
露骨に警戒されてはいないが、かといって内部にまで踏み込んでこないし、踏み込ませない。
いつだって笑顔で接してくるクセに、自分の引いた線から先にはけして入ってこない、そんなガードの堅さがあった。
「…ふうん。つくづく面倒見のええ男じゃのー」
手紙に視線を落としたまま、思わず仁王は一人ごちる。
内容はなんて事の無い、以前別の女子から預かったものとかわりばえのしない、可愛らしい文字で一方的に綴られる想いの羅列だ。
去年の海原祭で同じ委員になり、その時助けてもらったり、色々相談に乗ってもらってからずっと気になっていました。
つき合っている人、好きな人はいますか。もしいないなら、
そこまで目を通して先を予測した仁王は、もう見るまでも無いといったように顔を上げると、ぐんと大きく伸びをした。
そのまま窓に凭れていた背中をゆっくりと起こし、身体を反転させて、がらがらと自分の正面にある窓を開け放ち風を入れる。
「学級役員、海原祭に体育祭、修学旅行もあったか…なんじゃあいつ、イベント男か?」
いつもと異なる状況下、そういう時に親身になってくれる柳生に、どうも皆ヤラレるらしい。
しかし残念ながら、どのイベントも彼と時や場所を同じくしていない仁王にとっては理解不能だった。
手の中で三枚に重ねられた紙にゆっくりと力を込め、仁王は何の感慨も無くそれを端から破っていく。
酷い所業だと、頭では分かっている。しかし自分のしている事や相手に対する罪悪感など、とうに失せていた。
そんなに仲良くなったのなら、自分なんかに頼まず直接本人に渡せばいいのだ。そうすればこんな妨害されなくて済む。
妨害?自分の思考に何処かひっかかりを覚えた仁王は微かに首を傾げたが、生じた疑問をまるごと無視した。
預かっておいてなんて無責任な、と我ながら思わないでは無かったが、
細かな白い破片となって自分の手許から地面へと落下していく手紙を、彼は醒めた眼差しで追いながら思う。
同じように過去三度、自分は柳生に宛てられた手紙を握りつぶしている。
それなのに、何故かトラブルになった事は一度も無かった。
以降、彼女達から柳生の反応を聞かれる事は無かったし、柳生からもそういった話を出された試しは無い。
埒が明かず彼女達が柳生にコンタクトをとったならば、必ず彼らの間に入った自分の名前が挙がる筈だ。
それなのに不気味な程静かで、柳生の周囲は何も変わらなかった。
柳生は何かを知っている?それとも本当に気づいていない?
果たして真相はどちらなのか。まるで駆け引きのようなそれが楽しくて、危ない橋を渡ってしまう。
「…お」
僅かに手を止め、目を細める。
窓の下、校舎に沿ってこちらに歩いてくる人物。余りのタイミングの良さに怖くなった程だ。
未だ制服姿のまま、小脇に本を抱えた柳生は相変わらずまっすぐな姿勢で歩みを進めていたが、こちらには気づいていないようだった。
「やーぎゅーうー」
呼ぶと、目下の彼は少しだけきょろきょろと周囲を窺っていたが、
ようやく声の方向を探しあてたのか、すうと顔を上げた。仁王は中断していた手を再び動かす。
「…仁王君?」
「お前部活はー?」
「図書室に寄っていたので、今から行くところです。仁王君こそ何をして…」
云いながら、遠くに見える柳生は微かに眉を寄せたようだった。
距離があるから詳細までは分からないが、おそらく紙を破っては校舎から無秩序にばらまいている自分の行動を咎める気なのだろう。
「仁王君、塵はきちんと所定のクズ入れに捨てたまえ」
下から飛んでくる鋭い声に、仁王の口許が思わず緩む。塵、か。
生真面目な声で放たれた無慈悲な言葉を聞いた途端、何故か背中がぞくぞくした。
最上級のスリル。最大限の背徳感。胸を渦巻くこの高揚は一体何だ。
「やぎゅうくーん、海原祭の時は本当にどうもありがとー」
彼の叱責を無視したままで、仁王は手紙を破りながら柳生に呼び掛ける。
「あの時助けてもらってー色々相談に乗ってもらってからー柳生君の事がずっと気になっていましたー」
突然、校舎二階の彼から投げ掛けられた言葉を、柳生は不可解と困惑を混ぜたような表情で聴いていたが、
降ってくる白い破片がひらりと目の前に落下し、思わずそれを手に取り視線を落とす。直後、柳生の身体が硬直した。
「つき合ってる人とか、好きな人はいますかー?もしいないんなら…」
最後の紙片を空中へばらまいた後、仁王が視線を地面に遣ると、
俯いたままその場に固まっている柳生の姿が見えた。手には破り捨てた白い紙切れが握られている。
仁王はそんな彼の様子を眺めながら、私とつき合ってくれませんか〜?とわざと呑気な声で云う。
その言葉に、す、と柳生が顔を上げた。視線が絡む。瞬間、仁王が息を呑む。
眼鏡の奥、かつて一度も見た事の無い、凄絶な眼差しでこちらをきつく睨みつけた後、
彼は早足で仁王の居る校舎の方へと歩き出したのだ。負の感情がたっぷりと塗り込められた瞳。
そんな視線を容赦無くぶつけられて、仁王は酷く嬉しくなった。
なんじゃ、そんな顔も出来るんか。
いつも紳士的な態度を崩さない、そんな男が血相を変えて。
校舎に入って階段を昇り、あと数分後にはこちらに到着するであろう彼を想いながら、仁王は笑う。
ああそうか。自分は、あの男が引いた頑強な線という名の壁を、あの男によって崩壊させてやりたかったのだ。
自分が踏み込み壊すのは、その気になればいつでも出来る。これは、柳生自らが手を下さないと意味が無いし面白くない。
気づいていたのか知らなかったのか、手紙の真相なんて、もうどうでも良かった。
それすら吹き飛ぶ程の誘惑に、今、仁王は駆られている。
柳生は怒るだろうか、それとも自分を軽蔑するだろうか。
あの端正な顔が嫌悪に歪む瞬間を、見る事が出来るのだろうか。
「のう、柳生?」
カツ、と階段を昇りきる靴音。微かに聴こえる弾んだ呼吸。
前髪を微かにほつれさせた柳生が、呟く仁王を廊下で見ていた。
++++++
つづく?