まだじんじんする。
柳生は自身の掌に落としていた視線を、そっと部室の奥へ移動させた。
備えられた長机、の上に、着替えを済ませた仁王がだらりと座っている。
練習が終わって、シャワーを浴びた所為で満遍なく濡れた銀色の髪の毛は、
いつもの勢いも無く、重力に素直に従い彼の両肩や背中を音も無く濡らしていた。
「…お疲れ様です」
いつものように声を掛けると、唸り声のような応答が彼の喉許から聴こえてきた。
ぐったりと力の抜けた背中。水滴によって白いカッターシャツに作られていく、濃い水の染み。
少しだけ躊躇ったが、柳生は彼の傍を横切って自分のロッカーへと向かった。
ガタン、と建て付けの悪い扉を開けながら、何の気無しを装って軽い調子で会話を開始する。
「暑かったですね、今日も」
「うん」
「昨日の試合の疲れ、取れましたか?」
「うん」
「私は左腕が少し、筋肉痛です。やはり普段使わない所為でしょうか。身体は正直ですね」
「うん」
喋りながらユニフォームを脱ぎ、汗を拭ってシャツを羽織って。
てきぱきと着替えを続けてはいるが、柳生の意識はひどく散漫としたままだった。
話したいのは、そんな事じゃない。云いたいのは。
けれど何処か見当違いな気がして、だけど練習が終わって集合したあの時からずっと。
柳生はひとつの想いを、仁王に抱いていた。
釦を全てホールに埋め、ネクタイをきっちりと締めて、柳生がそっと、息を吸う。
ネクタイの、硬い布地に触れる右手の表面は、未だ熱を持ち微かな痺れを伴っていた。
「ありがとうございます」
室内に響く自分の声。直後、一層しんと静まったそこで、柳生は心の中で少しだけ狼狽した。
しかし、おかしな事を云って申し訳ありません、と慌てて用意した言葉を口に出そうとした瞬間、仁王の声に阻まれる。
「なにが」
おずおず振り返ると、仁王がのろりと首を起こし、顔を上げてこちらを見ていた。
びしょびしょに濡れた髪の毛は机上を遠慮無く濡らしている。きちんと拭けばいいのに。
眠たげに細められた瞳。機嫌が悪いのかもしれない。悪いのだろうな。柳生はぼんやりと頭の片隅で思う。
「制裁を。…仁王くんがきちんとして下さったから」
彼もきっと、満足でしょう。
云い終えた途端、あの時殴られた真田の顔が、瞼の裏で鮮明に甦った。
敗北したとはいえ、相手はよりにもよって副部長なのだ。
今回に限っては、ブン太も、ジャッカルも、そして自分も気が進まなかった。
敗者には制裁を。
真田の言い分は最もだと思う。無敗での三連覇を成し遂げられなかった者として、
そして常勝という名を掲げた王者立海大附属の名誉に、傷を付けた者として、彼は酷く悔いていた。
ここで彼よりも強い幸村が居れば、状況は変わっていただろう。そして自分達が手や心を痛める事も無かったのだ。
誰が決めたのか知れない、けれど脈々と受け継がれているその鉄壁の掟が、これ程までに疎ましいとは。
灼けつく太陽の下、柳生は沈鬱な表情で、必ず廻ってくるであろう自分の順番をじっと待つしかなかった。
誰もが気を遣って強くは打たない。そしてジャッカルの弱々しい平手に、いよいよ耐えられなくなった真田の怒号が飛ぶ。
直後。一歩前に出た仁王が、彼を本気で殴ったのだ。
普段は左利きで通している彼がこの時使ったのは右だった。彼なりに手加減はしたのだろう。
けれどあの真田の足場が揺らぐ程の強烈さでもって、仁王は平手で彼を打った。あの厭な雰囲気を、打ち破った。
「べつに。俺ぁいつまでもグダグダ云うとるアイツにムカついたけえ、殴っただけじゃ」
終わったことをグダグダ云うても、なんも始まらんじゃろ。
ぶつくさと機嫌の悪い声で、仁王が返してくる。険しい両眸。未だ怒りは収まらないらしい。
彼の纏うその刺々とした気配はこちらにまで伝わってくるが、柳生は何故か口許に穏やかな笑みが浮かんでしまう。
機嫌が悪いのは、痛みをちゃんと知っているから。
怒っているのは、チームの事を想っているから。
コート上では詐欺師でも、そこから出れば本当は誰よりもテニスを、自分達を想っている事を、柳生は知っている。
汚れ役なんて誰も引き受けたがらないそれを、自分達の為に被った仁王。
本心なんて絶対見せてくれないし、いつだって妙な言葉で茶化したりして、本当に、素直では無いけれど。
「だけど、誰にでも出来る事ではありませんよ。あの場面で、あんな事」
「誉めとんのか、けなしとんのか?お前は」
笑いながら云うと、仁王が軽く眉を顰め、呆れた顔で視線を寄越した。
フォローのつもりがどうやら逆に取られてしまったらしい。柳生は思わず口許を引き結ぶ。
「誉めているんですよ。それに、感謝しています」
あなたのお陰で、右手の痛みが和らいだ。気持ちが少し、楽になった。
真田だけではなく、あの時私も救われたのだ。だから再びその言葉を声にした。
ありがとうございます。
いつも以上に丁重で柔らかな感謝の言葉。
そしてゆっくりと頭を下げた柳生に対し仁王は鼻を鳴らすだけで、けれど何も云わなかった。
□END□