「なー」

バスの停車場をぽつんと照らす街灯に、小さな羽虫達が群がり細やかな影をつくる。
そこからあぶれ近くでさわさわとはためく虫を片手で追いやりながら、仁王が呟く。

 「なー、柳生」
 「…」
 「やあぎゅ」
 「……」

自分の斜め前に少し距離を空けて見える、真っ直ぐな背中。蒸し暑い夏の夜にうっすらと浮かぶ青白いシャツ。
テニスバッグを背負った柳生は、何度名を呼んでも黙ったままで、こちらに対し全く反応を返さなかった。

 「やーぎゅう、て。いつまで拗ねとるん」

呼べども呼べども闇の中にうつろい溶けていく自分の声にいい加減嫌気が差し、仁王が背後から柳生の脚へトン、と軽く膝蹴りをした。
関東大会の決勝が終わって、閉会式と着替えを済ませたその足で幸村の病院へと向かって、手術の成功を聞いてほっとしたのも束の間、
その場で真田主催の反省会が始まって。最終的には結局こんこんと長い説教となったそれから、先程ようやく解放された。
帰るルートが同じだから皆と別れて二人になって、それなのに柳生は一言も口を聞かない。
試合が終わってから、ずっと。

 「拗ねてなどいません」

膝蹴りを喰らい微かに体勢を崩しかけたものの、
すぐにまたいつものきちんとした後ろ姿になって、柳生の背中はやたら決然と返答する。

 「じゃあ根に持っとる」
 「……」

彼はいつだって冷静沈着を装っているわりに、突発的な変化にはついていけない。
だからこうしてすぐ態度に出る。こういうタイプは分かり易い。
図星を指されると黙り込んでしまうのも、本当に分かり易かった。

 「……一歩間違えれば、事故になっていました」

長い時間黙るだけ黙った後、覚悟を決めたのか、
カチャリ、と眼鏡のブリッジを押し上げる音がしてようやく柳生の背中が話し始めた。
淡々と落ち着いたトーンを保ってはいるが、僅かに震えた語尾を仁王の耳は聴き逃さない。

 「しゃあねえだろアレは。俺も予測がつかんかった」

柳生の肩越しに見える、端の剥げ掛かった時刻表をつま先立ちして眺めながら、仁王は気の抜けた声を出す。
印字の消えかかったそれによると、あと数分でバスが到着するらしい。
試合が終わってからも、手術成功の知らせを聞いても、浮かない顔はそのままだった。
未だ根深く延々と、柳生が引きずっているもの。やっぱり根元はそこか。

 「嘘です。貴方は狙って打ちました。そして菊丸くんに怪我を負わせた」
 「だからあ」

しゃあねえだろって。仁王が背負っていたテニスバッグを気だるげに担ぎ直す。
試合中、多少打ち合わせとずれたとしても、その状況に応じてプレイしていこうと。
事前に決めたそのルールに頷いたのは柳生だ。あの時了承したものを今更覆され、その上文句を云われる筋合いは無い。
とはいえ、菊丸に対し打ったボールは確かに彼の云う通り、わざと狙ってやったのだけれど。

 「謝りもしなかった」

仁王が軽く片眉を上げた。その事が、おそらく許せないのだろう。
正体を明かしてから、試合終了後にも閉会式の後にも柳生は菊丸に会うたび謝罪を繰り返していた。

間違った事は正さなければならない。

自分に代わって非礼を詫びる柳生を見ても、仁王はけして菊丸に対し頭を下げなければ、謝罪の言葉も口にはしなかった。
彼にとってあれは試合の、ゲームの範囲内だからだ。卑怯は承知の上でやったし、取れなかった方が悪いのだとも思った。
だから仁王は何故柳生がここまで怒るのか理解出来ない。否、理解出来ないというよりは、単純に疑問だった。
奴が怒っているのは、きっと「その事」ではない筈なのに。
いつまでも終わった事でぐだぐだと鬱陶しいなと思いつつ、けれど何故か切り捨てる事も出来ない。
そんな自分も大概物好きだと感じながら、仁王は皮肉っぽく口の端を上げてみせる。

 「なんじゃ、試合中にはノリノリで残念無念とか云うとったクセに」
 「あれは貴方が…」

反射的に振り返ろうとした柳生の動きが途中で停止する。
それよりも早く、仁王が背後から彼の首にするりと両腕を回したからだ。
突然覆いかぶさってきた人一人分の重さと体温に、ビク、と間近になった両肩が震える。
そこに顎を乗せながら、仁王は彼を抱きしめる力をゆっくりと強くしていく。
汗のひいた柳生の身体は夜の温度に馴染むように、ひんやりと冷たかった。

 「お前が根に持っとるのは、そこじゃのうて別んとこ」
 「な、に…」

微かに狼狽える声。
その反応が余りにも分かり易過ぎて、仁王は喉元までこみ上げた笑いを噛み殺すのに苦労した。
間違った事は正さないと。偽善者面して相手に謝罪を繰り返す柳生が、本当に許せなかったもの。

 「お前の顔で誰かを怪我させたんが、気に喰わんかったんじゃろ?」

甘やかに囁く仁王の言葉を受け、柳生は後ろを向いたまま静かに身体を強張らせた。
さっきのは嘘。こっちが本当。仁王は呆気無く柳生の本心を看破してみせる。
菊丸の怪我にかこつけて、彼は本当は、試合中一瞬でも自分が悪者になってしまった事に、耐えられない嫌悪を感じたのだ。

 「汚れ役、嫌いなんはほんっと変わらんなあ」

そうやって綺麗な部分だけを周りに見せて、自分は潔白なんだとアピールして、残りは全部俺にかぶせるんだもんな。
仁王は低く笑いながら続ける。やめてください、と柳生の掠れた声を耳に受けても、聞き入れなかった。
そんな彼らの背後からゆっくりと、小さく唸るようにしてエンジンの重低音が空気を震わせ近づいてくる。

 「お前が俺に、ほんとに謝ってもらいたい相手は、菊丸やのうて柳生、お前じゃ」
 「……違います」
 「違わんよ」

そんな理由で口を閉ざして、拒絶して。紳士が聞いて呆れる。
誰に対しても優しく出来るのは、裏を返せばその程度の優しさしか与えていないからだと、仁王は思っている。
結局柳生は誰よりも自分の事が大切なのだ。礼儀正しく、人あたりも良く、誰にでも好かれる、自分自身が。
だから、そんな自分を汚された事が、許せない。

 「仁王くん、いい加減にして下さい」

ため息混じりの声で一層弱々しく柳生が云う。
それは後少ししたら泣き出しそうな頼りないものだった。泣かせてもいいかな、そう仁王が思った直後、
目映い程の白いライトが二人の姿を照らしたかと思うと、バスが滑るようにやって来て、停車しては騒がしい音をたてて中扉を開ける。

 「…仁王くん、」

柳生が控えめに手を動かし絡んだ仁王の腕を外そうとするが、対する仁王は顎を肩に乗せじっとしたまま動かない。
バスが、来ましたから、仁王くん、とつとつと遠慮がちに言葉を放つ柳生。人工的な明かりと振動音に満たされたバスに人は少なく、
誰も降りない。がらんと開かれた中扉とまばらに座る乗客の視線がいたたまれない、けれどその場から動こうとしない仁王の両腕を、
無理矢理振り払う事も出来ない。バスと仁王に何度も視線を巡らせて、柳生はいよいよ困じ果てた。
しばらくなりゆきを見ていた運転手がそんな彼に対し、マイク越し、平坦な声で告げる。

 『乗車しないんですか?』
 「待っ…」
 「しませーん」

しかし、柳生の制止は仁王の声にきっぱりと遮られてしまった。
直後、中扉がきしんだ音と共に閉まり、バスは排気ガスをふかしながら白いライトで暗い道路を裂くように走っていった。
次第に小さくなる車体を呆然と見つめていたが、しばらくして柳生は消え入りそうな声でぽつりと、
自分を背後から抱きしめる人物の名を呟いた。
仁王くん。

 「行ってしまったじゃ、ないですか」
 「うん」
 「あれが最終なんですよ」
 「歩いて帰る」
 「…ここから自宅まで何キロあると思っているんですか」

仁王はともかく、柳生は更に電車を乗り継がなければ自宅にたどり着けないのだ。
しかし、この時間にこんな場所にいるのでは、終電に間に合う確率は絶望的に低い。

 「帰ろ、柳生」

すぐ傍で静かに沈んでいる男を見ても何処吹く風とばかりに、仁王は聞き分けの無い子どものような無茶を云いながら、
ようやく柳生から腕と身体を離した。ふ、と突然重みが消滅して、柳生は胸中で密かに生まれた空虚感を抱えながら彼の方を見る。
何を考えているのか、何が楽しいのか、仁王は笑っていた。

 「…貴方にはつき合いきれませんよ、全く」
 「お前がぐだぐだ回りくどうて素直じゃないのが悪い」
 「私が悪いんですか」

わるい、と仁王の声が闇に反響して返ってくる。

 「拗ねて俺と口聞かないのが、一番悪い」

その言葉を聴いた柳生が、思わず黙り込む。
そんな彼を置き去りに、仁王は澄ました顔で人気の無い漆黒のアスファルトをゆっくりと歩き出した。

もしかして、一番拗ねて一番根に持っていたのは。

柳生は先行く背中と揺れる一筋の銀髪を眺めながら、はあ、とため息を吐いた。
仁王の云う通り、彼に対し少なからず腹を立てていたのは事実だ。
入れ替わりというリスキーなプレイだからこそ綿密な打ち合わせと練習を重ねたというのに、
試合中、仁王はその半分も守らなかったのだから。更に相手選手に怪我まで負わせて。
確かにあの時、まるで自分がやったかのような嫌な錯覚を感じはしたが、
けれど、それは仁王が云ったような自分可愛さの為では、けして無い。
彼は何故かとても単純で重要な事を、ひとつだけ見落としている。
柳生にとってはそれが不思議で仕方が無かったが、
チラリと自分に見せた詐欺師の本音が余りにも可愛らしかったので、もう少しだけ胸の内に秘めておく事にした。

 「分かりましたよ、くたくたですが帰ります。貴方と一緒に」

他の誰より、そして自分以上に彼を強く想っている。その真実を。

 

 

□END□

あいうえお作文*あなだけ