「やはり私には無理なんです」

柳生が、力無く沈んだ声でひっそりと呟く。
夜のストリートテニス場で、目映いライトを背に受けコートの隅にしゃがみ込んでしまった彼を見つめながら、
仁王は右手に持ったラケットを器用にくるりと回転させ、何度目だよ、とため息を吐いた。
髪の毛を鮮やかな銀色に染め変えられた柳生は、恨めしそうな表情で後ろを振り返ると、
反対に普段の自分と同じ色、同じようにきっちりと前髪を分け眼鏡を掛けた仁王をじっと見る。

決勝戦で入れ替わりをやってみたい。と、仁王からとんでもない話を持ちかけられたのは何週間か前の事だ。
余りの突飛さに断固として拒否し続けていた筈なのに、いつの間にか半ば無理矢理まるめこまれていた。
真田を除く全てのレギュラー部員を味方につけた仁王は、
入れ替わる事で相手に与えるメンタルダメージの確率の高さを柳に算出してもらい、
赤也はもとよりブン太やジャッカルの8割方面白半分興味本意の後押しも手伝って、
最終的に柳生が首を縦に振らざるを得ない状況に追い込んでいったのだ。
ふざけている、と再三思ったが、承諾した時見せてくれた笑顔に胸の奥がぐらりと揺れたのも、柳生にとって誤魔化しようのない事実で。

副部長に見つからないよう、部活が終わったその後で、
最寄り駅の傍にあるストリートテニス場を借りてこっそり練習を繰り返していたのだが、柳生はその都度弱音を吐いた。
利き腕とは逆の、左腕を使ってプレイをする。それが思っていた以上に困難なのだ。
グリップが上手く握れない、力の加減が分からないから打球が思ったように飛んでいかない。
幼い頃から基本的に両利きだった仁王にとって彼の苦労は理解し辛いものだったが、
それでも入れ替わりを承諾してからの柳生は、熱心に左手を使って練習をしてきたと思う。
今ではサーブも自然に打てるようになったし、ラリーだって続く。
それなのに毎回様々な部分で躓いては、そのたび深刻な顔になって自信を無くすのだ。

 「だーかーらー。お前は余計な事せんでもコートについとるだけでええんじゃって」
 「そういう訳にもいかないでしょう。ダブルスなんですよ」
 「俺が全部拾う」

途端、仁王の格好をした柳生がきつく眉を寄せ、非難の眼差しを声の主に寄越した。
自分にそんな顔を向けられる筋合いは無い、と思いつつ、仁王はとん、とラケットで自分の肩を面倒くさそうに叩く。

 「私はそんな桑原くんのような芸当は出来ません」
 「ならお前も適当に返したらええ」

あっさりそう切り返すと、柳生の寄せる眉間の皺はますます深くなった。
実力の発揮出来ない左手で、あの黄金ペア相手の試合に臨むのは不安だ。
何度も何度も繰り返した会話。堂々巡りになると分かっているのかいないのか、
それとも根気よく云えば自分が入れ替わりを止めて通常のダブルスに戻してくれると思っているのか。
残念ながらそういうつもりは一切無いので、仁王はそのたび相手をのらりくらりと宥めすかすだけだった。

 「仁王くん、真面目に…」
 「やりたまえ。本当に、いい加減にしてくれませんか?」

柳生の口が、云い掛けたままの状態で固まった。
彼の言葉を柳生の格好をした仁王が綺麗に浚っていったからだ。
中指を眼鏡のブリッジに添えて、カチャリと微かに押し上げる。柳生の癖、柳生の仕草を完璧に模倣しながら、
仁王は力無く腰を降ろし呆然とこちらを見上げている柳生の方へ真っ直ぐに、そして一定の速度で歩みを進めていく。

 「話を持ちかけたのは貴方の方でしょう。試合までもう日が無いんですよ」
 「に…」
 「仁王くんは貴方です」

その言葉を受けた柳生の視線が惑う。瞳には、困惑よりも混乱の色の方が強く滲んでいた。
仁王はゆっくりとコートを踏みしめ、彼の前でぴたりと立ち止まると、
地面につけた両掌で微かに後ずさろうとする柳生の肩をしっかりと掴んだ。
銀色のつけ毛が、ライトを反射しながら彼の肩で静かに揺れる。

 「私は、貴方に従いますから」

そう云って、自分の顔でにっこりと品良く微笑む仁王。そのタチの悪さに、思わず柳生は彼を睨みつけていた。
まんまと自分になりすまし、体のいい言葉を操って。怒りよりもその巧妙なやり口に舌を巻く。
そもそも自分は、彼に対しそのような素直さも従順さも持ち合わせていない。

 「…なら、やめよ。撤回するわ入れ替わり」

彼がそのつもりなら。
肩を掴まれた柳生が小さくため息を吐いた後、仁王の口調を真似てそう告げた。
正面に見据えた男の変貌に、眼鏡の奥で仁王の眉が微かに上がる。僅かに生じたその隙を突いて、
肩に乗せられた手の上に自分の掌を重ねると、柳生はそのままゆっくりそれを握りしめた。

 「やっぱ普通に試合するんがお前には一番じゃろ、柳生?」

片手を握られたまま、ぐ、と肩から引き離され僅かにバランスを崩した仁王がコートに膝をつく。
とっさに体勢を整えようとするが、柳生は仁王の手を強く掴んだまま離さなかった。
地面にあった視線を戻すと、レンズ越しに見える柳生は、その口許に浅い笑みを浮かべている。
気怠げな、そんな表情を自分はいつもしているのだろうか。そう思いながら仁王も柔らかく微笑み返す。面白い。

 「とんでもない、私は大丈夫ですよ。今更変更される方が余程困ります」

大袈裟に両肩を竦めてみせながら、仁王はそう云った。ふ、と柳生が鼻をならす。
互いの表情、互いの雰囲気、全てを模してなぞらえて。自分の姿を模倣しながら、相手の腹の内をゆっくりと探り合う。
こんな面白い事、柳生以外に出来る訳が無い。その隙の無さ、計算高さ。普段は真面目な紳士を気取っているが、
その実本性はとんでもない食わせ者だと、仁王は思っている。だからこそ、この入れ替わりを持ちかけたのだけれど。

 「いつの間にそんな聞き分けがええようになったんじゃ、お前」

柳生が相手を挑発するように、低く笑う。
仁王は捕らえられていない方の手でゆっくりと顎をなぞりながら、僅かに首を傾げた。

 「貴方こそ、こんなに私に優しくして下さるなんて、どういう心境の変化です?」

その問いに、柳生の視線がこちらに向けられる。裸眼の所為で顔が見にくいのだろうか、僅かに瞳を細めて。
パワーリストをつけた彼の右手は相変わらず仁王の手をしっかりと掴んだままで、未だ離す気は無いようだった。

 「だって俺、お前ん事スキじゃし」

云って、にっと口角を引き上げ笑う。この告白は、一体誰が誰に向けたものだ。
仁王は紳士めいた穏やかな表情を崩さないまま、指先で顎をひと撫でする。この場合、俺が柳生にした事になるのか?
思案している間にも、構わず柳生は続けた。

 「スキな相手にいらん苦労はさせとうない」

自分の姿になりすまし、体のいい言葉を操って。彼は詐欺師を演じる。
黙ってそこまで聞いていた仁王だったが、顎に添えていた指をゆっくり耳の傍まで移動させると、
そのまま、掛けていた眼鏡を外してしまった。遮るものは何も無くなり、至近距離で眼差しが絡まる。

 「残念。俺はスキな相手はいじめる主義じゃ」

吐息だけで囁いて、同じように口角を引き上げ楽しそうに笑うと、
仁王は正面に座り、こちらを見ている柳生に眼鏡を掛けてやる。ゲーム終了、入れ替わりごっこはもう終わりだ。

 「成程。それならこの仕打ちに納得がいきます」

本来の持ち主へと帰ってきた眼鏡を自分の指で丁寧に掛け直しながら、柳生は至極冷静に呟いた。
その言葉の真意を計り損ねているのだろう、仁王はきっちりとセットしていた髪をがしがしと掻き混ぜながら怪訝な視線を相手に傾ける。

 「余りいじめると嫌われますよ」

私に。
涼しげな顔であっさりとそう付け足した柳生は、仁王の真似ではない、彼自身の笑みを瞳に浮かべた。

 「…よう云うわ」

は、と仁王が呆れたように鼻で笑う。なにが不安だ。なにが上手くいく自信が無い、だ。
自分に対してはこんなにも自信に満ちた言葉が出るクセに。本当は誰よりもしたたかで、自分よりも騙し上手な柳生。
こちらを見て穏やかに笑うそんな彼に、それ以上の言葉を投げつけるのも面倒だったので、仁王は言葉の代わりに相手の手の甲を軽く抓ってやった。
そういう事すると、ますます嫌いになりますよ。と、僅かに顔を顰めながら柳生はそう云ったが、それでも掴んだ彼の手を、けして離そうとはしなかった。

 

 

□END□