「…以上で。それではお水を取ってきますね」
てきぱきと注文を済ませメニューをぱたんと閉じた柳生は、席を立ち一人ドリンクバーの方へ歩いていった。
赤也は軽く上体を捻って首を回し、遠ざかっていく姿勢の良い後ろ姿を眺めながら本日幾度目かの後悔を胸に抱く。
しまった、一緒について行けば良かった。
とはいえいつまでもこの体勢のままでいるのも不自然なので、首と身体をゆるりと戻せば、
広いテーブルを囲む残り二人は既に険悪なオーラを出し合っている。
先程まで柳生が座っていた席の横には仁王が、そして彼と向かい合った、自分のすぐ隣にはブン太が座っている。
よりによってなんでこのメンツなんだ。赤也はこの殺伐とした雰囲気の中そそくさとカバンから辞書とノートを引っ張りだしながら、思う。
皆で集まって学習会をするのですが、良ければ切原くんもいらっしゃいませんか?
放課後、わざわざ二年校舎まで出向いてきてくれた柳生の誘いに二つ返事で承諾したのは、つい数十分前の事だ。
実はレギュラーになってからというもの、彼は定期テストの前に必ずといって良い程先輩達の世話になっている。
試験期間が近づくにつれ、コートや部室でやばいやばいと騒いでは真田に怒られているそんな自分を見かねて、
いつしか柳生と柳が交代で、空いた時間に勉強を見てくれるようになったのだ。
それだけでも日頃の授業についていくのが精一杯だった赤也にとってかなりの救いだったが、
面倒見の良い柳生は、定期試験前になると心配をして必ずこうして声を掛けてくれた。
この時期は、いかなる部活であっても問答無用で全て休みになる為自由に使える時間はたっぷりとある。
しかし自分一人では、絶対に教科書など直前になるまで開かない事は目に見えている。
その点柳生のように教えてくれる人物が傍に居れば、気も引き締まるし効率もいい。そして赤也は今回も先輩の申し出に甘える事にした。
しかし、てっきりいつもの場所だと思い、教室を出て図書室のある方向へと歩き出したのだが、
数歩しない内に柳生に呼び止められてしまった。図書室は満員なので、今日は別の場所でやりましょう。
そのまま階段を降りて廊下を渡ると、生徒用玄関で上履きを靴に変え、最終的に何故か学校近くのファミレスに案内された。
仁王くん達はもう来てますから。さらりと告げられた言葉に、柳生のすぐ後ろをついて歩いていた赤也の身体が微妙に強張る。
仁王くん?達?
しかし、自動扉の開いた店内に一歩足を踏み入れた途端、禁煙席の奥の方に銀色と赤色の目立つ頭が視界に飛び込んできた為、
赤也は前を行く先輩にわざわざ訊き返す手間も無く「仁王くん達」の正体を知る事になった。
「…えーと」
くたびれた布製の筆記用具からペンを取り出し、赤也はとりあえず隣に座るブン太の方を横目で見た。
会話。とにかく会話だ。何か話題をふらなければ。
「先輩は何の教科持ってき」
「で、お前ら結局何な訳?」
さすがブン太先輩単刀直入。いやそれよりも俺の質問完無視っすか、いやまず云い終わる前だし。
中途半端にばっさりと会話の糸口を断ち切られた赤也は、頭の中で色々と突っ込みを入れつつ、
しかしペンを持ったままじっとなりゆきを窺っていた。胸の前で腕を組むブン太は、正面に座る仁王をきつい眼差しで睨みつけている。
対する仁王は相変わらずどっちつかずな曲がった姿勢で頬杖をつきながら、先程柳生が置いていったメニューの冊子を広げ物色していた。
「何ってなにが」
「だから、どうなってんだっつってんの」
この雰囲気に似つかわしくない、やたらのんびりとした仁王の質問返しに、ガムを噛みつつブン太は更に質問をくり返す。
どうなってんだ。赤也は隣に座る先輩の言葉を心中で反芻しながら、さりげなくこっそりと頷いた。
本当に、どうなっているんだ。
夏の終わり、絶不調だった柳生の調子は、ある日を境に次第に元へと戻っていった。
そうしてダブルスはいつものように上手く噛み合い、まるで何事も無かったかのように日々は流れた。
ただ、あの頃と違うのは、仁王が部活にきちんと顔を出すようになった事。だから、部活前に柳生が仁王を探すいつもの風景も無くなった。
これは劇的な変化だと赤也は思った。あの仁王が、自分よりも遙かにサボリ癖もやる気の無さもぶっちぎって上回っていた、仁王が。
絶対変、絶対何かあった。あの時、つき合ってもらった書店で勇気を出して柳生に訊いてから、硬い口調で何もないと云われてから、
それでもどんどん調子は下降していった。それなのに。
顔にも言葉にも出さないけれど、今の柳生はとても穏やかで、なんというか、見ていて不安にならない。
均整がとれている、というか。均整なんてよっぽど自分よりもとれている筈なのに、何故か赤也が彼に対して持った印象はそれだった。
二人の間に何かがあった事は明白だ。自分にだってこれくらい解るのだから、
彼らをずっと見てきたブン太など、それ以上の気持ちを抱いているのだろう。
「べつにー」
頬杖をつきメニューを眺めながら、仁王はその口許にふ、と意味深な笑みを綻ばせる。
ああ、この人絶対解ってやってる。赤也は背中がひやひやした。こういう態度がブン太の神経を逆撫でする事を解っていて、わざと。
「別にってなんだよ!お前なあ…」
案の定ブン太が喰って掛かっていくが、その言葉は、突然頭上から降ってきた別の声に取って代わられた。
「お待たせしてすみません」
少し手間取ってしまって。そう云いながら、トレイに四つのグラスを乗せた柳生が戻ってきたのだ。
ナイス。ナイス登場です先輩。赤也は思わず立ち上がり、ありがとうございまっす!とグラスをトレイからテーブルへと乗せかえていった。
珍しくきびきびと動く後輩の働きを見守りつつ着席した柳生と入れ替わるように、今度は仁王が席を立つ。
「仁王くん?」
顔を少しだけ上に向けた柳生が、椅子を引いた彼を見上げた。互いの視線が静かに絡む。
「便所。柳生、あとパフェ追加しといて」
コレ、と広げられたメニューを指さしながらそう云うと、仁王はのろのろとその場を離れていった。
一触即発な展開を免れ、僅かに薄れた緊迫感の中で赤也はゆるゆると息を吐く。
よし、このまま解らなかった数学の類2を訊こう。あと59ページの応用問題。そう思った直後だった。
「柳生、お前ら今、どうなってんの?」
すかさずブン太が口を開き、会話の主導権を奪い取った。どうやら質問の相手を順当な方に変更したらしい。
しかし柳生は、自分に対し向けられたその言葉に少しだけ首を傾げた後、何がですか?と先程まで居た隣の男と同じような反応を返した。
所在が無くなった赤也は、しかしどうする事も出来ず、結局なみなみとグラスに注がれた水を飲み干していくという無難な行為に専念する。
「うまくいってんのか、そうじゃねえのか」
やっぱ先輩単刀直入。
だけどそれは、本音を云えば自分も知りたかった事なので、
赤也は余計な口を挟まず濡れたグラスをことりと置いて、正面に座る彼の答えを待つ事にした。
「上手く」
小さく呟いた後、柳生は微かに俯き顎に指を添えて、深い思案に陥りかけてしまう。
質問内容が漠然とし過ぎて、逆に難解に捉えられてしまったのだろうか。ブン太も気づいたのか、
じゃなくて、と胸の前で組んでいた腕を解くと、僅かに前のめりになりながら訂正版を口にした。
「つ…つき?合ってんの?」
そう云った後、けれど彼は自分の放った言葉がそぐわない、といった風に眉を寄せ複雑な表情を浮かべる。
隣で見ている赤也も、なんとなく彼の気持ちが解ってしまい、つられて複雑な表情になった。
訊きたい事ははっきりとしているのに、言葉にすると何処か妙になるのだ。彼らの関係は、多分どんな言葉をもってしても何かがずれる。
「つき合う、というのがどういう定義なのかは分かりませんが、」
「や、でも変わっただろ、なんかお前ら。何か……って、アレ?そういや赤也知ってんの?」
物凄いタイミングで唐突に話を差し向けられかなり狼狽した赤也だったが、
彼の視線は何度か柳生とブン太の顔を往復し、覚悟を決めてこくりと頷いた。ここまできたのなら、乗りかかった船である。
「部室でエロティック消毒見せられましたから」
「なんだよそりゃ」
「あぁ…仁王くんが指を怪我したので」
「柳生先輩がなめて」
身振り手振りを加えながら解説しかけると、ブン太はぐったりとした顔つきでもういいとひらひら手を上げ言葉を遮る。
「部室外でやれよそーいう事は」
「すみません」
「軽く心のトラウマになったっす…じゃなくて、」
話、ずれてません?赤也が控えめにボソリと呟き、横に座る先輩の小柄な肩を肘でつついた。
今になってあの事をどうこう云うのは見当違いだし、趣旨も逸れている。トラウマになったのは事実だったけれど。
後輩からの妙に冷静な指摘が入ったおかげもあり、危うく逸れかけた本題を、咳払いしてブン太が戻す。
「そう、だから…もうメンドいからこれだけな、柳生」
「はい」
名を呼ばれた柳生がす、と微かに顔を上げた。
楕円眼鏡の奥の瞳はいつだって冷静で、揺れた所など入部してから一度も見た事が無い。
感情的になる時なんてあるのだろうか、と赤也は彼を見るたびそう思う。
「今、しあわせ?」
これだけ。
いつからなのかは聞いた事が無いから知らない。
けれど自分よりもきっと遙かに長い間、彼らをずっと見てきたブン太が今、一番訊きたかった事。
重たい言葉だと思った。カラン、と誰かのグラスの中の氷が小さな音をたてて溶ける。
少しだけ俯き、睫を伏せたまましばらく黙って質問の意味を考えていた柳生は、ようやく視線をブン太に合わせ、はい。と答えた。
「幸せですよ」
そう云って、瞳を細め静かに笑って。
赤也の心臓がドキリと跳ねる。笑顔なんて、これまでだって何度も見た事あるのに。
部活中も、勉強を見てくれている時も。紳士、と呼ばれるだけあって優しく笑う人だった。
それなのに、いつも赤也に向けてくれるものとはまた違う、なんだか今浮かべている笑顔の方が、彼にとって「本当」のような気がした。
「なら、いい」
気の抜けたようなブン太の声が、横から聴こえる。
それが引き金となったのか、つられるように赤也の全身から、無意識に張り巡らせていた力が抜けていく。
瞬間、頭頂部に突然予期せぬ痛みが走った。
「いッ…で!」
その声に柳生とブン太が顔を上げる。
ででで、と悲痛な声で喚く赤也のふわついた黒髪を、戻ってきた仁王が掴んではぐしゃぐしゃとかき回しているのだ。
「っとに興味津々だなーお前ら。そんなに気になんの?」
「仁王くん、離してあげて下さい」
テーブルについている面々を呆れた顔で順番に見下ろしながら、
しかし柳生からの制止の声を素直に聞いた仁王は、ていっと後輩の髪を勢い良く離すと、椅子を引きずりさっさと自分の席についた。
「それともそんなに柳生の事スキな訳?」
揃いも揃ってモノ好きな奴らだな〜と口の中でひとりごち、仁王は再びテーブルに頬杖をつく。
んな訳あるかよ、と早速応戦を始めるブン太を横目に、赤也は乱れてしまった髪の毛を両手でゆっくり撫でつけていた。
まだ頭皮が痛い。彼の暴挙は何度か経験した事があったし、その都度抵抗や仕返しはしてきたけれど、
今回はさすがに首を突っ込み過ぎた自覚が赤也にもあった為、素直に口を噤むしかなかった。
それに、仁王の質問はあながち間違いでは無かったからだ。嫌いだと云えば嘘になる。
好きじゃなかったらわざわざこんな場所に、こんな複雑なメンツと共に居る訳が無い。
別に構わねーけどさあ、と仁王はブン太の文句をあっさりと無視して一方的に前置きをした。
「こいつスキになんのって超空しいし自分が可哀想になるぞ。つーかそれ以前に俺にメロメロだし」
「メ…」
赤也が返す言葉に詰まっている間に、なー柳生、と仁王が横にいる相手に話題を振る。楽しそうだ。
対する柳生も生真面目な表情で彼を見つめ、はい、とゆっくり頷いている。
「メロメロですね」
めろめろなんですか…。いよいよ返す言葉を失った赤也の隣で、ブン太がケッと毒づいた。
前のめりになっていた身体をそのまま後ろに倒し、背中をソファに押しつける。
「ああもうなんか全部バカバカしくなった。もういいや。もう知らねぇ。俺は肉喰うぞ。サーロインだ。勿論お前らのおごりだ」
目が据わっている。ああ、頼みの綱の先輩もいよいよ匙を投げてしまった。
気づかぬフリを決め込めば良かったのに、あえて傍観者という立場から少し踏み込んでいったのは確かに自分達だ。
どんな顛末が待っていようと、それを受け入れるという事は、ある種自業自得なのだけれど。
赤也は脇にある店員呼び出しボタンをそっと押した。ピンポ〜ンと、気の抜けた音が遠くで響く。
心配して、振り回されて、結果めろめろに落ち着いた彼らを見る事が出来たのだから、
まあ、最終的に良かったんだろう、と心の何処かで安堵しているお人好しな自分もいる。
けれど、それだけでは済まされない胸を渦巻くもやもやとした気持ちも、確かにある。
やって来た店員に、赤也は先程仁王が指をさしていたパフェを注文した後、脱力した笑みを浮かべ、云った。
「それと、ダブルサーロインふたつ」
とりあえず、紆余曲折ありまくった先輩達の幸せがどうか長く続くように。そう思いながら。
□END□
あいうえお作文*こいしてる