静かな声や、きれいな顔だち、崩れない表情、
生真面目な髪型、格式張った仕草、癖、この男を形づくるもの全部、ぜんぶ。
「仁王くん」
この時確かに救いの声だと思った。
仁王はゆっくり顔を上げると、教室後方の扉、そこから覗く廊下で自分の名を呼ぶ男の姿を視界に捉えた。
相変わらず何を考えているか分からない無表情で、柳生はそこに立っている。
じゃ、迎え来たんで。と周囲を取り巻く女子生徒たちの間をくぐっていくと、
そのたび名残惜しそうな声が各所から漏れたが、彼にしてみればいい加減解放されたいと思っていたところなのだ。
鞄、は持ってこなかったので、卒業証書の入った筒と、プリント類を収めた大判の茶封筒を小脇に抱え教室を出た。
式典の後の非日常的な喧噪から次第に落ち着きを取り戻し、人気の無くなった廊下にはひんやりと、少しだけ花の香りが残されていた。
「お話の最中だったのではないですか?」
教室の扉を背中越し、器用に後ろ手で閉める仁王を見つめながら、柳生は申し訳なさそうに小さな声で話しかけた。
閉じてしまえば中の騒音は遮断されてしまうのだから、別に誰に遠慮する必要などないのに。
そう思いつつ彼は手にしていた筒で自分の肩を気だるげにとんとんと叩く。
「や、助かった。あれだけの数はさすがにしんどい」
卒業式というイベントは年間行事の最後の締めくくりという事もあって、
下級生や同級生を問わず、女子達が一番盛り上がるのではないか、と卒業生である仁王は疲れた頭でしみじみ思った。
女子は好きだ、が対応するにも限度がある。立海大の高等部は全てが持ち上がりではなく、附属の工業高校に分かれる生徒も数多くいて、
その中の一人に自分も含まれているという事も、きっと原因の一端ではあるのだろうが。
「仁王くんは、もてますから」
そんな事を真顔でさらりと云ってのける柳生の顔を、観察するようにじっと見つめる。
見慣れた薄い楕円レンズの奥に潜む静謐な眼差しは、その言葉に嘘はないと告げてはいるが。
「妬いてくれてる?」
眉間のあたりがうっすらと曇っているのを、仁王は見逃さない。
平坦なトーンを保つ声とは裏腹に、この男の感情はきちんと揺れているのだ。
それはひどく解りにくく、また曖昧としたものだったが、意識をすれば微かなそれを掬えるようにはなったと思う。
「私には、そんな事を思う…」
「権利はあるんだって」
柳生はいつもすぐそれだ。権利が無い。自分にはそんな資格が無い。そもそも権利って何なんだ。
昨年の秋からずっと、変わらず繰り返される言葉の応酬に、仁王は心中でやれやれとため息を吐く。
あきれるくらい自分の事を想っているくせに、それだけはけして止める事はしなかった、
そんな頑固さを持ち合わせている反面で、その実奇妙なところでひどく臆病になる柳生。
未だこの男の思考回路と想いの基準を掴みかねていたが、とりあえず仁王は自分が云われて引っかかる部分から矯正していこうと心に決めている。
「妬いていいの。女に囲まれてた俺を見た時の、素直な感想をぶつけりゃいいんだよ」
「……」
何故学年主席の秀才にこんな当たり前の事を逐一レクチャーしなければならないんだ、
という気持ちとそんな事を云っている自分に気恥ずかしさとバカバカしさにも似た緩い笑いが胸に広がるが、
それをまるで難しい授業を受けるかのように生真面目な面もちで柳生が聞くから、今更後には引けなくなる。
分かったか?と後押しすれば相手は神妙にこくりと頷いた。
「何故か、嫌な気持ちがしました」
「はい、良くできました」
促され、微かに視線を惑わせながらようやく自分の気持ちを正直に告げた柳生の頭にぽん、と手を置くとそのまま軽くかき混ぜてやる。
その動きでほつれては乱れる前髪に、彼は少しだけ眉を寄せ困惑した表情を浮かべたが、黙ってされるまま大人しくしていた。
好意を向ける事しか知らなかった柳生の気持ちを少しずつ広げていくのは、
予想していた以上に面倒くさい作業ではあったが、それはおそらく彼にその感情を教えた自分にしか出来ない事なのだろう。
先に進めないのなら、自分が道を示してやればいい。
そうしてそれは、今まで彼の想いを裏切り、傷つけ、逃避し続けてきた仁王なりの償い方だっだ。
「もう追い出し始まんのか?」
彼が来たという事はてっきりその迎えだと思っていたのだが、
柳生は悪戯にかき混ぜられ、くしゃくしゃになってしまった髪を几帳面に撫でつけながら腕時計に視線を落とすと、
いえ、部室の方には4時集合です。と返す。それなら時間はまだ早い。
今頃、新部長である赤也を中心にして後輩達が追い出し会の準備に奔走している最中だろう。
時間外の来訪を、純粋に不思議に思った仁王が微かに首を傾ける。
「仁王くんに、お渡ししたいものがあって」
視線を時計の針から正面の男の顔へと戻した柳生は、
来て頂けますか?と真っ直ぐ彼をその両眸に据えたまま、落ち着いた声音でそう云った。
埃を纏ったカーテンを左右に引いても、露わになった窓から教室にこぼれ落ちてくる日差しは何処か白くとろりとしている。
未だ春にはなりきれていない冬の緩い目映さに仁王は瞳を細めながら、埃のついた両手を払った。特別棟の空き教室。
かつて頻繁に出入りしていたそこを訪れるのは本当に久しぶりで、だからこそ柳生の行き先がこの場所だった事に少なからず驚いた。
彼にとって、ここは余り良い思い出のある場所ではないと、仁王は思っていたからだ。
そうさせた原因の半分以上は、もちろん自分にあるのだが。
「ストーブは…つかねーな、さすがに」
しゃがみ込んで首を伸ばし、以前世話になった暖房器具を少しだけいじってみるが、
自分が来なくなってからここを使用するような勇者は現れなかったのか、それは沈黙を保ったまま微動だにしない。
しばらく格闘していたがどうにもならずに諦めて、立ち上がった仁王が背後を振り返る。
彼の視線の先に居た柳生は、埃のかぶった机の表面を持参したウェットティッシュで丁寧に拭き、
そこに自分の鞄や手に抱えた荷物を置いているところだった。机の脇に乗せられたささやかな花束は、
結局二、三学期を通し委員長を務めあげた彼に対し、風紀委員会からの謝礼として渡されたものらしい。
荷物を置いて身軽になった柳生は、向き直って仁王の視線を受け入れる。
「渡したいものって?」
先程廊下で聞いた時からずっと気になっていたので、仁王が早々に話を切り出すと、
相手は無言のまま頷いて、制服の上着の内ポケットに手を伸ばし、そこから何かを取り出した。
柳生が持っていたのは、丁寧に折り畳まれたハンカチだった。
「これを、お返ししようと思いまして」
「…?」
意味が良く分からなかった。
仁王は少しだけあった二人の距離を縮めるべくゆっくり傍まで歩いていくと、彼が手にしているハンカチを見下ろした。
布地に描かれているブルーの薄い模様はどこか見覚えのあるような気がしたが、しかしどこで見たのかは、頭の中でつながらない。
返す、と柳生は云ったのだから、これは本来自分のものだったのだろうか。
差し出されてもいまいちピンときていない、彼の表情からそんな様子を読み取ったのか、柳生は更に言葉を付け加える。
「覚えていないと思います。貴方にこれを貸して頂いたのは、入学した当初ですから」
「入学?一年か?」
「ええ。放課後、この教室で眠っていた貴方を起こしてしまって。その時私は、怪我をしていたので」
トーンの変わらない、落ち着いた声で淀みなく紡がれる柳生の言葉。
仁王の記憶がそれに呼応するように、頭の奥で微かなさざなみを立てる。
穏やかに漂う桜の匂い。使われずに放置され、日焼けたカーテン。怪我をしている、同じ色のタイを結んだ生徒。
意識下に沈んでいた過去の断片がゆっくりと表層に浮かび上がり、不完全な自分の記憶の欠落部分にピタリと嵌っていくような気がした。
「濡らしたハンカチを私に貸して下さったんです」
単に俺が見るに耐えねえからだ。
「……」
乱れた薄茶の髪の毛。明らかに、誰かに暴力をふるわれた痕。
眼鏡は掛けていなかった。驚いた顔で、こちらを見上げてきた。あれは、あれが。
「あの後、すぐに洗ってお返ししようと思ったのですが、つい貴方のお言葉に甘えてしまって」
云いながら、柳生は手にしたハンカチを指先でなぞり、当時を懐かしむような表情でじっと見下ろす。
「今までずっとお返し出来ずにいたのです。しかし今日は、卒業という節目ですし」
貴方は、優しい人です。
冷ややかな廊下で「告白」をされた時、真っ直ぐこちらを見ていた柳生の口から、放たれた言葉。
つながった。
最後の断片が記憶に嵌めこまれた瞬間、仁王は腕を伸ばし無意識に柳生を胸の中へと引き入れていた。
それはかなり乱暴で、突然の行動に、抱きしめられる事に慣れていない彼の身体は途端にぎこちなく強張ってしまう。
かたい。力を抜け。仁王は思わず口にしかけたが、抜けない理由も知っていたから黙って抱きしめる力を強くした。
ゆっくりと、自分の体温を相手に分け与えるように。
「…仁王くん」
不安そうに、小さな声でぽつりと柳生が名前を呼んだ。
それに応えずにいると、両腕の中でひっそり息づいていた身体が微かに動く。
少しだけ、柳生がこちらに体重を預けたようだ。その控えめな重みと、伝わってくる体温を感じながら、仁王は知らず呟いていた。
「なんで今なんだ」
なんで今日、このタイミングなんだ。卒業って、節目って。何を云ってるんだ柳生。
「…今までのようには、もう会えないでしょう?ですから、その前に…」
「会える」
囁くような声で最後まで続けられる前に、仁王はきっぱりと柳生の言葉を打ち消す。
この春から柳生は高等部に、そして自分は工業高校に進む。同じ立海大附属であっても、これからは簡単に会えなくなる。
分かっていたし、分かった上で別々の道に進むのだから、お互い何も云わなかった。云わなかったけれど。
何故かひどく不安になり、胸の奥がざわつき始めた。変わっていく。この男の言葉ひとつで、こんなにも。
「いつでも会える」
「…私はもう、大丈夫ですから、」
仁王くん、と。柳生の腕が微かに持ち上げられた気配がする。
おそらく手にしたハンカチを強く、握りしめているのだろう。ふざけんな、と思った。
今更過去の接点に気づいたところで何も変わりはしない。ふざけんな、思いは声になって出た。
それは自分に向けているのか、それとも相手に対してなのか、仁王自身云いながら理解らなくなっていた。
一体何が大丈夫だと云うんだ。今頃そんなものを返されたって。
道を示すよりも早く、導いたその手をそっと離されてしまうような、
その云い知れない焦燥の混ざった不安定な感覚に、仁王は唇を噛みしめる。
「会えなくても、大丈夫です」
「柳生」
たまらなくなって顔をずらす。
間近になった柳生と視線がぶつかる。すっと通った鼻梁に掛けられている眼鏡。
そこから覗く瞳はしっかりとこちらに向けられていて、その言葉に嘘はないと、告げている筈なのに。
「俺は全然大丈夫じゃねえ」
「仁王くん」
「お前にまだ全然、やさしくもしてねえ」
レンズに映る柳生の茶色の虹彩が、仁王の言葉で微かに揺れる。
見返りなんて求めない、ただ柳生自身の中で完結している、彼の想い。
それは確かに強固だ。強固だけれど、自分自身だけをひたすら信じるそれは恋じゃない。
想いの対象である仁王はそのたびいつも置き去りにされているような気がした。そしてその気持ちは、彼を知る程に強くなっていった。
主導権は確かにあの時放棄した。好きにしろと思った。けれどそれは、以前のようにただ一方的に自分だけを想え、という意味では無かった筈だ。
あれから数ヶ月、状況は変わっているのに、自分の気持ちは腹立たしい程変わり続けているというのに、柳生だけが変わらない。
これからなのに。それなのに、勝手に一人で見切りをつけるな。満足するな。
云ってやりたい事は沢山あるのに、言葉がせめぎあって喉に絡まり、口から上手く出てこない。
なんだこの状況は。仁王は胸に広がる焦燥感にひどく苛立つ。詐欺師の名前をほしいままにしていた自分が、なんだこのざまは。
「仁王くんは、やさしいですよ」
その時、至極当然な事を告げるように、柳生が真面目な顔で応えた。
「だから私は、そんな貴方が好きなんです」
感情の希薄な声は、少しだけ和らいで仁王の耳にそっと滲みる。
途端、彼の全身から力が一気に抜け落ちそうになった。いつもより、テンポもタイミングもずれきった、柳生からの愛の告白。
それを受け、ゆるゆると息を吐きながら柳生の肩口に額を乗せた仁王は、そのまま動かなくなる。何故か顔が上げられなかった。
柳生の言葉は嘘じゃない。これは、少しずつ、前に進んでいると思っていいのだろうか。それともそう思うのは、自分の希望でしかないのだろうか。
先程から、柳生は何度も自分の名を呼んでいる。その声を聴くたび歯がゆくて、もどかしくて、たまらなくなる。
「…俺は、」
やさしくもないし酷い事ばかりしたし実際後悔ばかりだし本当は手放すのが正解なのかもしれない。
けれど。呟いた仁王の語尾は、ゆっくり吐息と混ざって聴き取れなくなる。
言葉の代わりに両腕に力を入れると、戸惑うように柳生が小さく身じろいだ。
けれど、後悔を上回るくらいこの感情は本物で、絶対になくしたくないと思うのも、彼にとってまた真実だった。
□END□
あいうえお作文*こいしてる