柳生比呂士は、博愛を騙る男である。
別に、そういつもりは無かったのだけど。
仁王は立ち寄ろうとしたA組の教室の前でぴたりと立ち止まると、
そのまま上体を微かに倒し扉にはめ込まれている硝子越しに中を窺った。
彼が覗く室内には、柳生と、微かに俯いた女子生徒の後ろ姿が見える。
見慣れた指定の立海ジャージはチアリーダー部のものだ。
仁王は、ちょうどこちら側を向いて立っている柳生に対し扉の外からひらひらと手を振ってみたが、呆気なく無視される。
単に気がついていないのかもしれない。柳生の視線は、ずっと正面の女子生徒にだけ向けられていた。
折しも本日はバレンタインディである。日の暮れかけた放課後、誰も居ない教室。告白するには絶好のシチュエーションだ。
仁王は手に提げていた、底の破れかけた紙袋を一旦廊下脇に置くと、少しだけそこから離れ窓際の壁に背を凭せ掛けた。
この場所は、向こう側からは死角になるが、こちら側からは十分に中の様子を窺える位置なのだ。
我ながら悪趣味と思わなくもなかったが、そもそも自分は柳生に用があって教室に赴いたのだから、
向こうの用事が済むまで待つのは理に敵っている気もする。まあ正直に云えば、単に興味があっただけなのだが。
「あの」柳生が女子に告白されて、どんな態度をとるのか。どんな言葉をかけるのか。非常に興味がある。
硝子の向こうで柳生が少しだけ、首を傾げて困ったように笑う。
瞬間女子生徒の細い両肩がビクリと震え、ふるふると首を横に振った。
そんな彼女を、柳生は宥めるように優しい眼差しで見おろし何か語り掛けている。全然分からん。
一つに束ねた銀髪の尻尾を弄りながら、仁王の口角は知らず下がり、不機嫌な顔になっていく。全然知らん。
あの男の優しげな表情、柔らかな眼差し。女が相手だと、あんな顔をするのか。
しばらく続いていた会話が切れたのか、女子生徒はジャージのポケットからもたもたと、
可愛らしくラッピングされたちいさな小箱を取り出すと、それを柳生に手渡し何度もお辞儀を繰り返した後、
振り返って勢い良くこちらへ駆けてきた。やば。仁王が思わず身じろいだが、ガラリと扉が開かれ、女子生徒とばっちり目が合ってしまう。
両頬はふわりと紅潮し、それは髪を一つにまとめ露わになっている耳の端までしっかりと染め上げられている。
確かチア部の二年だ。赤也を含めた後輩達の何人かが、可愛いと話していたのを聞いた事がある。
彼女は突然視界に現れた仁王の姿にかなり驚いたようだが、おつかれさまです!
と、泣きそうな声でそれでも礼儀正しく深いお辞儀をして、そのまま廊下を走っていった。
「盗み聞きとは感心しませんね、仁王くん」
開け放たれた教室の奥で、凛と鋭い声がした。
仁王は置いてあった荷物を手に持つと、A組の室内へのろのろ足を踏み入れる。
「聞こえんかったぞ、なんも。チョコは見えたがの」
「覗きも同罪です」
柳生は先程まで居た場所から、既に自分の席へと移動していた。
机上に置かれた鞄の中身を整理しながら、顔を上げてじろりと仁王を睨めつける。
「まあそう怒りなさんな。お前に用があって来たんじゃ」
云いながら近づいて、持っていた底の破れかけた紙袋を柳生の方に差し出す。
「入れ過ぎて底が抜けた。替えになるもん何かくれ」
柳生が整理する手を止め、目の前に差し出された袋の中を不審そうな顔で覗き込む。
そこには、色とりどりで華やかな本日の戦利品が無造作にどっさりと詰め込まれていた。
「相変わらず良くおもてになりますね」
「妬けるじゃろう」
どちらに対して?
訊こうと思ったが、柳生はその質問を胸の中に留めておいた。
にやりと意味深に笑っている仁王の顔を見れば、自ずと答えは知れたからだ。
「さて。どうでしょう」
こういう質問は真面目に受け取らずさっさと流してしまうに限る。
柳生は、はぐらかすようにそう答えると、鞄の内ポケットからきっちりと折り畳まれた群青色の風呂敷を取り出した。
席を立ち、そのまま手にしたそれを隣の机に丁寧に広げ、仁王の紙袋を預かる。
「こちらに贈り物の方、移動しますから」
「入るんか?」
「大判ですからね。十分だと思いますよ」
へえ、と仁王は感心しながら、紙袋から広げられた風呂敷の上へと、
大小様々な包み箱を積み重ねてはてきぱき移し替えていく柳生の手の動きをじっと見つめる。
「柳生」
「なんですか?」
「なんであの子断った?」
ふ、と。淀みなく動いていた柳生の手が止まった。
仁王は空いた柳生の椅子を引き摺って、いつの間にかちゃっかりとそこに腰掛けている。
「…彼女が向けてくれるだけの愛情を、私は彼女にお返しする事が出来ないと思ったからです」
柳生はしばらく考え込んでいたが、頭の中に浮かんでいるより適切な言葉を選び取るようにゆっくりと少しずつ答え始める。
この男にしては珍しい訥々とした喋りに耳を傾けながら、仁王はふうん、とやる気の無い相槌を打った。
柳生は誰にでも優しい。物腰が柔らかで、人当たりが良くて。
だから皆勘違いをしてしまう。自分だけが特別なのだと。
けれどそれは大きな誤解で、柳生はその丁寧できめ細やかな優しさを誰に対しても行っている。
博愛主義者のようなその態度は、逆に皆を誤解させ結果的に騙している事を、この男は知らない。
好意や善意と愛情は違う。しかし彼のもたらすそれは、相手にとってひどく区別がつきにくいのだ。
とはいえ、誤解した方が悪いのであって柳生に罪は無いのだろうが。
「申し訳ありませんとお断りしたら、せめてチョコレートだけでも受け取って欲しい、
と云われたので頂きましたが…結果、彼女を悲しませた事に違いはありませんし」
こういった対応は、本当に難しいですね、と弱々しい息を吐きながら、
柳生は大きなリボンで包まれた最後の小箱を積み終え、風呂敷の端と端を摘まむと器用に結い始めた。
「お前が煩わされん方法、いっこだけあるぞ」
椅子の上で頬杖をつきながら話を聞いていた仁王が、ようやく口を開いた。
隣に立って風呂敷を結んでいた柳生が、興味を惹かれたのか彼の方に視線を向ける。
「誰にでもええ顔せん事じゃ」
誰にでも優しくするのは、誰からも嫌われたくないから。だから無意識に予防線を張る。過剰なくらい、頑丈な。
しかしそれは度を越すと要らぬ誤解を招き、結局相手も自分も傷つき疲れてしまう事に、柳生は気づいているのだろうか。
「…それは」
顎を指先でそっと撫で、深く思案するように眼鏡の奥で瞳を細めた柳生が呟く。
「特定の人物にだけいい顔をしろと、そういう事ですか?」
予想の遥か斜め上をいく奇妙な、しかしこの男らしい返答に思わず吹き出しそうになったが、仁王は必死でなんとか堪える。
まあ、その考え方はあながち間違ってもいないと思う。
「極端な話そういう事。そっちの方が楽で疲れんと思うがの」
なるほど、考慮してみましょう。とまるで会議で出された意見を了承するよう生真面目に頷いて、
柳生は沢山の小箱を包み膨らんだ風呂敷と、空になった紙袋を両手に持って仁王に手渡した。
「どうぞ」
「助かった」
云いながら席を立ち、仁王がそのまま教壇の真上に掛けられた壁時計を見上げる。
「げ。もう過ぎとる」
「誰かと待ち合わせですか?」
机上に乗せてあったチェックのマフラーを首に巻きながら、
帰り支度を始めた柳生が訊ねると仁王は少しだけ居心地が悪そうに肩を竦めてみせた。
「呼び出されとるんじゃ」
指定時間は確か4時。校舎裏で待っていると、云っていたような気がする。
時刻は既に10分程過ぎていた。仁王から返ってきたその答えに柳生は微かに眉を上げたが、何も云わずに鞄と手荷物を持つ。
そしてそのまま、私は塾がありますのでお先に失礼しますね、と軽く会釈し仁王の脇を通り過ぎていった。
教室に一人取り残されかけた仁王も、のろのろと荷物を手に取る。その間にもどんどんと気分が重くなる。
柳生の許で長居をし過ぎた自分が悪いのだし、早く行かなければと思うのだが、反面諦めて帰っていて欲しいとひどく自分勝手な事も考えた。
その時ガラ、と扉を開ける音がして、しかしそれは閉じられずにそのまま止まった。
仁王が顔を上げると、扉に手を掛けたまま柳生が振り返りこちらを真っ直ぐ見ていた。
「先程の質問を蒸し返して申し訳ないのですが」
突然そう前置きした柳生の眼鏡は、教室の窓から差し込む陽射しで微かに反射し、表情が良く分からなくなってしまっている。
仁王が「先程の質問」を記憶から探っている間に、更に言葉は続けられた。
「しましたよ。嫉妬。あなたに、ではなくあなたに好意を抱く女性に対して」
それは胸の内を容赦無く塗り潰す、淵のない、底の見えない闇のような。
「…どうやら、私はあなたに『いい顔』は出来ないみたいですね」
そう云って、どこか諦めたように静かに微笑むと、彼はくるりと向き直って廊下へと出ていった。
仁王は片手で荷物を持ったまま、その姿勢の良い後ろ姿をただ茫然と見送る。
本格的に取り残されてしまったが、相手を呼び止める事も、追いかける事も出来ない。
自分に投げ掛けられた言葉を頭の中で反芻して、けれど底にある真意は掴めそうで掴めなくて。
結局、彼が残した群青に視線を落とす。
博愛主義者で紳士の柳生が、自分だけに垣間見せた嫉妬。
彼が「いい顔」を捨て、言葉で認めた確かなそれは、仁王が初めて見たものだった。
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行動指定>普段見えない所が見えたら?