校舎三階の突き当たりに位置する生徒会室。
そこを出て左に数メートル程歩くと、扉の真横に分厚い木の板が掲げられた教室が目に入る。
「生徒指導室」と、たっぷり太く重厚な筆致のそれを横目に、柳生は儀礼的にノックをすると、
中からの返事を待つ事無く教室へ足を踏み入れた。
「先月の案件と違反者名簿、会長にお渡ししておきました」
その代わり、というように生徒会の方から風紀委員会の方に渡された様々な書類を抱え、
柳生が後ろ手に扉を閉めながら報告すると、奥に立っていた真田の後ろ姿がご苦労だったな、
と背中越しに凛とした声を発した。柳生が傍まで歩いていくと、彼はちょうど使い終えた硯や筆を仕舞っているところだった。
長机の上には半紙が置かれ、「実践躬行」の文字がきっちりと形良く収まっている。
「いつ見ても達筆ですね」
書類で手が塞がっていなければおそらく拍手をしていた筈だ。
そんな感嘆を込めた柳生の言葉に、しかし真田は不本意そうに腕組みし少しだけ眉を曇らせる。
「そうか。俺としては実の形が取りにくくてな」
真田が毎月始めにここで書く四字熟語は、風紀委員の標語として生徒指導室に貼られる。
今月はこの言葉が選ばれたらしい。自分で実際に行動、手本を見せること。いかにも真田が好みそうな言葉だった。
柳生は漆黒に濡れた出来上がったばかりの標語を汚さないよう机の脇に書類を置くと、傍にあったパイプ椅子を引き寄せそのまま腰掛けた。
「片倉は何か云っていたか?」
習字道具を手慣れた様子で片付けながら、同じように向かい側の席についた真田が訊いてくる。
柳生は口を開くより先に、まず目の前に積まれた書類の山からクリップで留められた原稿用紙を真田に手渡した。
「違反者の増大に頭を悩ませていましたね」
先々月から風紀強化月間を提言し、率先して取り仕切っていた張本人である真田は、
その言葉を聞いた途端苦いものを噛み含んだような表情になる。
彼に手渡したのは、強化した結果大幅に増えてしまった違反者達の提出した反省文の束だった。
委員長である彼がまず目を通し、特に問題が無ければ顧問の教師に検印を貰いに行く。
しかし真田によって反省の色無しと見られた場合、違反者は再び書き直しを命じられるのだ。
「ワーストは何処だ」
柳生は机の中央に並べられている分厚いファイルの一冊に手を伸ばすと、自分の方に引き寄せページを捲った。
「3Bです」
眼鏡を押し上げながら、個人の部門もお訊きになります?と声を掛けると、
頭に手をあてた真田は必要ない、と重々しい声できっぱり断った。
「どうせ仁王と丸井だろう。全く嘆かわしい」
御名答。柳生は黙って苦笑するしかなかった。
服装頭髪遅刻その他諸々風紀が司る事柄に関して、丸井と仁王は常に名が挙がる常習違反生徒だった。
特に仁王は一年の頃から何度もこの生徒指導室に世話になっている。
校則を破れば逆に煩わしい手間が増えるだけだし、それならば適当に守っておけば良いものを、
と模範生である柳生などは考えるのだが、人一倍束縛を嫌い、自由を好む彼にしてみればそういうものでも無いらしい。
「…仁王といえば、柳生、あいつに伝えておいてくれたか?」
名前を聞いて思い出したのか、真田は原稿用紙から顔を上げると、柳生を見た。
「ええ。今朝集会の前に会いましたのでその時に」
云いながら、人通りの多い廊下に立ち、こちらの顔をけして見ようとしなかった仁王を、思い出す。
酷い喧嘩をした後だったから、その態度は仕方無いのだろうけど。
分かり易い程自分の放つ言葉に揺れて、傷つき易くて、引き摺って。
悪いのは関係を綺麗に清算出来ない彼の方なのに、まるでこちらが加害者のような気分になった。本当に、困った人だと思う。
「今日が提出最終日だぞ。本当に来るんだろうな…」
ぶつぶつと口の中で苦言を呟きつつ、真田は原稿用紙に綴られた反省文に順次目を通していく。
それにしても誤字が多すぎる、と時折添削まで施しながら。
対する柳生も、ミーティングが始まる時間まで残っている仕事を済ませておこうとプリントを内容別に選り分けていると、
難しい顔で両目を細めていた正面の男がぽつりと低く呟いた。
「…お前にこんな事を云うのは筋違いだと思うんだが」
だしぬけにそう云われ、柳生が手を止め顔を上げた。
視線の先の真田はやはり難しい顔で手にした原稿用紙を睨みつけている。
「俺は三年間あいつを見てきたが、あいつが何を考えているか皆目見当がつかん」
この実直で厳格な男を煙に巻く、代名詞の人物。
柳生は表情を変えなかったが、自分に向けて告げられた皇帝と呼ばれる男の本音に内心少し耳を疑った。
「苦手、という訳では無いんだ。同じ仲間だしな。だが全く本心を掴ませないから、時折分からなくなる」
「……」
難しい顔をしたまま真田はそこでしばらく黙ったが、
つまらん事を云ったな、と呟く言葉を最後に本格的に口を噤んでしまった。
確かに、真田のような男にとって性質が真逆の仁王は理解や同調はし辛いのかもしれない。
しかし、そんな事を微塵も感じさせずに接していたから。少なくとも自分にはそう見えていたから、男が見せる戸惑いに純粋に驚いた。
「…意外でした」
「そうか?俺としてはお前があいつの事を理解している方が、意外なんだが」
ああいう輩は苦手だろう。
と真田は件の相手が居ないのを良い事に、好き勝手を云いながら傍にあった自分の湯飲みに茶を注いだ。
先程柳生が席を外していた間に淹れたらしく、机上の中央に戻された急須の口からは淡い湯気がのぼっている。
相変わらず直球な人だな、と思いながら、柳生は机上でとん、と重ねられたプリントを整えた。
「まぁ、最初は確かに苦手でしたね」
目が覚めるような銀髪と、揺れる尻尾の後ろ髪。
云う事為す事何もかもが自分とは正反対で、何を考えているか理解らなくて、だからこそ目につき惹かれた。
「けれど、真田くんもご存知の通り、悪い人では無いでしょう?」
ただ色々な面でルーズなだけで。
あえてこの部分は声にしなかったが、柳生は云いながら、むしろそこが一番の問題なのだけど。
と内心こっそりひとりごちる。しかし、本気でやる気が無かったら、この立海でレギュラーなど勝ち取れる訳が無い。
詐欺師などと謳われながら、その名を欺くように実は陰できっちりと努力している事を、柳生は知っている。
真田は、まあなと相槌を打って茶を啜った。芳ばしい匂いが微かに漂う。
「押さえつけると逃げますが、逆にこちらが一歩引くと、寄ってきますよ」
「なんだそれは」
「仁王くんの対応術です。ご参考までに」
そう云って柳生は、眉を寄せ怪訝な表情を浮かべる真田に対し穏やかに笑い掛ける。
本当は柳生自身、真田が云うように彼を理解したなんて全く思っていなかった。
三年という月日など、仁王雅治という男を知るには余りにも短い。
けれどその中で少しずつ学んでいった事は、柳生にとって何物にも代えがたいものだった。
互いの引力が強過ぎるのか喧嘩ばかりを繰り返して、それでも懲りる事無く諦めきれず傍に居て分かった事。
一人を好むくせに、独りが嫌い。束縛が苦手で、それなのに時折酷く甘えたになる。
戻ってくる場所があって安心して、初めて彼は自由になれるのだ。
「まるで猫だな」
「猫より難解ですけどね」
柳生は立ち上がり、小さな食器棚から自分のカップを手に取ると、再び机に戻ってきた。
真田は持ってきた彼のそれに温かな茶を淹れてやる。彼の所持するそれは湯飲みでは無くティーカップなのだが、
気にせずなみなみと注いでやった。
「今日、提出期限の最終日なんですよね」
「あぁ」
「ですから、来ますよ。きっと」
迷う事無く決然とそう告げる彼に対し、怪訝そうな面持ちで聞いていた真田の両眸が不可解そうに細められる。
「どうしてそう云えるんだ?」
しかし、投げ掛けられたその問いに柳生は悩む様子も窺わせず、
手にしたカップを口許に寄せ一口だけ飲み下した後、そっと離して至極当たり前のように云った。
「提出しないと真田くんと私が困るからです」
力強く眉を中心に寄せ、全く解せないといった真田の表情から、僅かにだったがゆるゆると力が抜けていく。
しかしやはり眉間の皺は中央に滞在したままだった。
「…あいつがそんな殊勝な男か」
今まで少なからず、赤也や丸井共々、
あの詐欺師に煮え湯を飲まされてきた真田は、柳生の云う事をそのまま素直に受け取る事が出来ない。
思い返すと確かに、自分が委員長に就任してから、規則は変わらず破るものの大事にはならず厳重注意で済んではいたが。
苦々しく呟く真田に対し、柳生は眼鏡の奥で涼やかに笑うと、扉の方に視線を傾けた。
「ほら。噂をすれば」
直後、扉がガラリと開き、ユニフォームを着た噂の主が姿を現した。思わずびくりと真田の身体が強張る。
「相変わらず辛気臭い部屋じゃのー。おら、持ってきたったぞ真田」
仁王は教室に足を踏み入れるや否や周囲を見回し眉を顰めてそう云うと、そのまま着席している真田の方まで歩いて行き、
よー見てみんしゃいと指先でぴらぴら振り回しながら持っていた原稿用紙を彼に突きつけた。
「仁王」
「なんじゃ」
「反省文は三枚以上だ、と云っただろう」
真田が感情を押し殺した声で云う。仁王が持ってきたのはよれた原稿用紙一枚きりだ。
これでも彼的には及第点なのだが、やはり怒っているのだろうな、と柳生は整理したプリントをファイルに挟み込みながら、
しかし助け船は出さずにいた。
「知らん。これが俺の精一杯じゃ。文句云うな」
悪いのは規則を無視した方だというのに、当事者の仁王はあくまでも偉そうだった。
途端、真田がぐしゃりと手に持っていた仁王の原稿用紙を握り潰した。
「これが文句を云わずにいられるか!一枚はおろかたった五文字とは何だ!」
五文字。数的に考えて「すみません」だろうか。
ささやかな推理を巡らせつつ、しかし余りの簡潔さに思わず柳生も仁王の顔を見上げる。
しかし彼は何処吹く風とばかり、じゃけー俺の精一杯じゃ云うたやろーとひどく面倒臭そうに答えていた。
火に油を注ぐ、とはまさにこの事である。
「馬鹿者!一日延ばしてやるからもっと真面目に考えろ!」
真田の宣告に仁王が固まった。
「そんなん話が違うぞ、柳生、お前今日までに持って来い云うたじゃろ」
そして余波は柳生にまで及ぶ事になった。
仁王はそれまで静かになりゆきを見守っていた紳士を巻き込む事に決めたらしい。
「云いましたけど、やはり規定枚数を書かなかった仁王くんが良くないですよ」
しかし紳士は厳しかった。穏やかな顔でばっさり仁王の非を指摘すると、
皺になった原稿用紙を突き返され嘆いている彼の分のパイプ椅子と湯飲みを用意してやる。
「手伝いますから、片付けてしまいましょう。仁王くん」
「柳生、無闇にこいつを甘やかすな」
真田が乾いた半紙を窓側に寄せ、机上にスペースを作りながらもじろりと柳生の方を睨む。
仁王は不承不承そこに腰掛け、ほっとけ真田と毒吐きながら、貸してもらったペンを回す。
すみません、と怒れる副部長に詫びながら、柳生は机の下でこっそり携帯電話を開くと、柳宛にメールを打った。
『本日のミーティングですが、真田・仁王・柳生、都合により遅れます』
自分達と同じく、役員を兼任している勘の良い柳の事だから、おそらくこれで察してくれるだろう。
静かに携帯電話を閉じた後、柳生は顔を上げて思わずやれやれと苦笑した。
真田は束で置かれている未チェックの原稿用紙を放置して、仁王を叱りつけている。
対する仁王は知らん顔で棚の上に乗せられていた茶請けの菓子を摘まんでいた。これは当分、長引きそうだ。
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