あ。と小さく柳生が呟いた。
そのくぐもった声音に、仁王が角の取れくたびれた雑誌から顔を上げる。
机を挟んだ彼の正面に座っている柳生は手許に広げている部誌に視線を落としたままで、
しかし持っていた万年筆をコトリと紙面に置くと、鬱陶しそうに右手の指先で前髪をかき上げた。
「髪を切りに行かないと」
「伸びとるんか?…それで」
思わず仁王が疑わしげに、じっと彼の顔を見る。前髪はいつも通り一分の隙無く丁寧に分けられているし、
襟足はすっきりと一定の長さを保っている。傍目には違いが分からないのだが、柳生にとっては気になるらしい。
「俯くと、前髪が眼鏡に掛かって邪魔なんです」
そう云いながら再び万年筆を手に取りさらさらと続きを書き記しては、
徐々に落ちてくる前髪を空いている方の手で時折かき上げる。そんな様子を頬杖をつきぼんやり見ていた仁王は、
ふと何か思い出したのか制服のポケットを探ってしばらくした後、ほい、とそこから赤いビーズの付いたヘアピンを差し出した。
突然目の前に現れた小物に、柳生が少しだけ怪訝な表情を浮かべる。
「なんですか」
「ヘアピン。前髪邪魔なんじゃろ」
「そう、ですけど…」
仁王の掌にちょこんと載っている愛らしいそれは明らかに女性用である。事実同じクラスの女子生徒から貰ったものだったが、
話すとややこしくなるのでその事は黙っていた。しかし柳生は語尾を曖昧に濁したまま、いつまで経っても受け取ろうとしない。
仁王が首を微かに傾ける。
「要らん?」
純粋に、何故受け取らないのだろうかという気持ちが先立って不可解な表情になっていたのだろう、
柳生はあの…とひどく云いにくそうに口許へ手を遣りながら、こほんとひとつ咳払いをした後で続けた。
「お心遣いは有り難いのですが」
私が付けるには流石に少し勇気が要ります。と、それは心の中でだけ呟いた言葉だった筈だが、
仁王は気付いているのかいないのか、ピンを握ったまま、ぐ、といきなり腕を伸ばして机越し、上体を前に倒して柳生に近づいた。
反射的に、柳生の身体は後ろに引いてしまう。しかし椅子に着席した状態なので最低限にしか避ける事は出来ない。
伸ばした腕が、指先が、柳生の前髪に微かに触れる。目の前の身体がビクリと震える気配を感じて、仁王が少しだけ息を呑む。
「に、おうくん」
何を、と続けようとした言葉は指の動きであえなくかき消された。仁王は柳生の前髪へ無遠慮に触れると、
そのままゆるりと真っ直ぐで細いそれを指の腹で撫でて、ひとしきり感触を楽しみながら口を開いた。
「別に気にする程伸びとらんと思うがの〜」
「…ちょっと、離れて下さい」
ちかい。前髪を撫でられながら柳生が少しだけ嫌な顔をした。
至近距離は苦手だと知っていて、けれど仁王はわざと距離を縮める。
怒られるのを覚悟できちんと分けられた前髪を指でくしゃりと崩して、梳きながら後ろに流す。
途端、白く聡明な広い額が露わになって、柳生はますます嫌な顔をした。
「…仁王くん」
「お前、前髪上げると全然雰囲気変わる」
これはちょっとした発見かもしれない。面白いな、と思った瞬間悪戯心に火がついた。
ここまで近づかれてしまうと逃げようが無い為、柳生は仕方なくされるがままでいたが、明らかに困惑している。
寄せられた眉間の皺は次第に深くなっていた。仁王は空いているもう片方の手をそろそろと彼の顔の傍まで近づけながら、一応尋ねる。
「柳生、眼鏡外して」
「嫌ですよ」
にべもなく断られて、まあ断られるのは重々承知の上で云った事なので、近づけていた手で勝手に奪った。
あ。と再び柳生が呟く。しかし発せられた声は先程のそれよりも少しだけ大きかった。
眼鏡を外され前髪を乱された柳生は、普段の彼とは全く違った顔をしている。パーツは同じなのに、がらりと雰囲気が変わる。
出逢った頃からずっと同じ髪型しか見た事が無かったので、それはひどく新鮮で、なんだか仁王は得をした気分になった。
そのきっちり優等生然とした外見の所為で、度を超えた真面目さばかりが目立ってしまうが、柳生は実はその眼鏡の下にとても端正な顔を隠している。
コンタクトにすればいいのに。それだけでも十分女子の目を惹くに違いない。そんなアドバイスをし掛け、思い直して口を閉ざした。
「…仁王くん、眼鏡を返して下さい。部誌が書けません」
痺れを切らし、柳生の右手が空を泳ぐ。良く見えないのか微かに瞳を細め、こちらを睨みつけて。
しかし仁王はその厳しい視線を何処吹く風と受け流し、
かき上げていた彼の前髪を片手で器用にまとめてそのままヘアピンで留めながら、意外に似合うと小さく笑った。
直後、何してるんですか、と早速苦情が飛んだが無視して顔を近づける。近すぎて息が出来ない、柳生がそう思った瞬間だった。
「柳生、キスさせて」
そう云われじっと顔を覗き込まれて、一瞬柳生の息が詰まる。
白銀の前髪から見え隠れする仁王の切れ長の瞳からは、その言葉が冗談なのか本気なのか計り知れない。
ここは部室で、練習が終わったとはいえ誰かが不意に戻って来てもおかしくはない場所なのだ。だから。
「…、嫌ですよ」
柳生はこの時確かにそう答えた筈なのに、数秒後には呆気なく唇を塞がれて、本当に息が出来なくなった。
□END□