気まぐれ。わがまま。嘘つき。ルーズ。
三年間、いつだって苛々させられて、もう十分懲りた筈だ。
一緒に居れば居る程互いを傷つけ合うだけではないかと、疑惑と不安は常に胸の中にある。
それなのに。
時折不意に向けられる甘えた仕種と言葉に呆気なくほだされ、また彼の掌中から逃げられなくなる。
元の木阿弥堂々巡り。そんな日常を繰り返しながら、柳生は今日も消えた仁王を探していた。
時刻は既に部活の開始時間を過ぎていたが、
未だ強い陽差し照りつける炎天下のテニスコートに彼が来ている筈も無く、
ひとしきり周囲を見回した柳生は溜め息を吐くと、部員の指導にあたっていた真田に一言断りを入れ校舎に引き返した。
携帯電話を鳴らしてみるが勿論応答はない。渡り廊下からそのまま校内へ入ろうかと思ったが、
上靴無しで侵入するのは気が引けたので素直に生徒玄関から入り直す。
放課後特有の、取り巻く気配がやけにがらんとした校内、何か用があって教室に残っている生徒はおそらく数少ないのだろう。
柳生は三年教室に続く階段を見上げたが、しばらく思案した後視線を戻しそのまま一階廊下の突き当たりを目指した。
クラブハウスが連なる場所とは方向が丁度反対側となるこちらの校舎には西日がほとんど入ってこない。
目的の教室に辿り着き、扉の前でようやく柳生は足を止める。
保健室と、プレートが掲げられたそこには『保健医不在/職員会議中』の札がドアノブにぶら下げてあった。
「失礼します」
形式的なノックと共にドアを開けると、主の居ない室内は当然のようにしんと静まり返っていた。
しかし柳生は構わず奥にある閉めきられた薄く生成掛かった白いカーテンの前まで歩み寄る。
「仁王くん。いらっしゃいますか」
訊ねるが、返答は無い。柳生はもう一度同じ言葉を繰り返して五秒待ち、
反応が無い事を確認した後、目の前のカーテンに手を掛け一気に横に引いた。
布に隔てられた場所に置かれているのは三台のベッドで、
一番奥、壁に寄せて備え付けられたそこには誰か人がいるのか、上布団が微かに盛り上がっている。
柳生は勝手知ったる様子で人の気配のあるそのベッドの傍まで真っ直ぐ歩いていく。
「仁王くん、起きて下さい。部活が始まっています」
淡々と降ってくるその声に、軽く乱れた上布団の端、ちらりと覗く銀髪がごく僅かに動いた。
「………」
「仁王くん」
しつこく名前を呼ぶと、ようやく観念したのか、布越しにくぐもった妙な声がして、
上布団がめくられ、中からのそりと仁王が這い出てきた。どうやら本当に眠っていたらしく、
上体はかろうじて起こしているものの、表情はぼんやりとしている。
「おはようございます」
挨拶に対する返事は無かったが、代わりに仁王はゆっくりと顔を上げ柳生の姿を視界に捉えた。
未だ明順応出来ていないのか、眩しそうに目を細めまばたきを繰り返している。
「……なん」
掠れた声。
「姿が見えないので探しに来ました。部活、もう始まっていますよ」
起きたのなら行きましょう。腕を伸ばしそう促す柳生をしばらくじっと見ていたが、
しかし差し伸べられた手をあっさり無視して、仁王はあくびをひとつ噛み殺すと、再びベッドの中に潜り込んでしまった。
「…、仁王くん」
「暑い。眠い。今日は休むき真田にゆうといて」
「何を勝手な事云ってるんですか、ちょっと…」
柳生が慌てて盛り上がった布団に手を掛ける。
毎年、夏が近づき高くなっていく気温に比例するように、仁王の部活欠席率は増えていく。
休むのは本人の勝手だが(それでも柳生自身余り良い気分はしないが)この夏、自分達は本格的にダブルスを組む事が決まっているのだ。
その為、関東大会に向け納得するまで調整をしておきたい。しかしパートナーである仁王は部活に来ない。
このやる気の無さは彼の性格上もはや改善は望めないと半ば諦めてはいるが、それにしても余りにも身勝手が過ぎる。
「大会までもう日が無いんです、練習に来て下さい。仁王くん」
上布団の端を握る柳生の手に、静かな苛立ちがこもる。
もうこの際一気に剥いでしまおうかと考えがよぎった時、不意に手首を強く掴まれた。
「!?」
予想外の方向から働いた力に対応出来ず、身体のバランスが崩れる。
がくん、と上体がベッドへ引き摺られたが、柳生は咄嗟に空いている方の掌をスプリングにつき、
自らベッドに腰を下ろす事で何とか転倒を避けた。顔を上げると、いつの間にか布団から顔を出した仁王が枕に肘をつき、
頬杖をしてこちらを眺めている。前髪から覗く眠そうな瞳は相変わらずだったが、先程よりは幾分か覚醒しているようだった。
「キスしてくれたら」
「…え?」
突然告げられた、前後の文脈を思いきり無視した彼の言葉が理解出来ず、反射的に訊き返してしまう。
仁王は柳生の手首を掴んでいた手の力にゆっくりと力を込めた。どうやらこれは、しばらく離してくれる気は無いらしい。
「キスしてくれたら起きる」
そんな突拍子の無い事を口にする反面、仁王の表情は相変わらず何を考えているのかさっぱり分からなかった。
からかっている、にしては全然楽しそうではないし、かといって本気で云っているとは到底思えない。
「…何なんですか、唐突に」
眉を微かに寄せた柳生がそっと口を開いた。
手首から離れない仁王の手。陽のあたらない場所で眠っていた所為か、体温が少しだけ低い。
「別にー。なんもないよ」
あっさりと返ってきた曖昧過ぎる回答に、柳生の眉は更に曇った。
嘘つき。こちらからのキスなんて滅多に求めてこない癖に。
黙ったままでいると、横になっていた仁王がゆっくりと上体を起こした。
その動きで、ベッドに腰を下ろしている柳生と、距離が近くなる。
「なあ。キス」
「…しないとこの手は離してくれないんですか?」
右手首には未だに仁王の左手がしっかりと巻き付いている。
柳生はちらりと壁に掛けられた時計を見た。このままでは、二人揃って副部長の説教を聞かなくてはならなくなりそうだった。
「うん」
頷くと、仁王はねだるように柳生の肩にとん、と顎を乗せた。
すり寄せる銀髪が頬や耳にあたり、くすぐったさに首を竦める。いつもだったら呼んでも見向きもしないのに、
欲しい時だけこんなにも素直になる。気まぐれでわがまま。しかし、それを拒めるだけの力と意思が、自分には無い。
だからまた、堂々巡り。長い間俊巡して、諦めたように溜め息をひとつ吐いた後、柳生はカチャリと眼鏡を外した。
目を伏せたままそっと首の向きを変え、顔を寄せるとぼけた視界はすぐに仁王の髪の白銀色に埋め尽くされた。
しかし消毒液の匂いが不意に鼻を掠め、意識がそちらに逸れた瞬間、身体と頭がぐらりと大きく揺れる。
突然起こったその感覚に、思わず柳生は目を瞑った。直後とん、と後頭部に柔らかいものが触れて、
そろそろと目を開けた柳生が次に見たものは、自分を組み敷き楽しそうに見下ろす仁王の顔だった。
「お前は俺を信用し過ぎじゃ」
そう云いながら、に、と口角を引き上げる。まるで獲物を仕留め満足げな猫のようだ。
仰向けでベッドに押し倒されてしまった柳生は、乱れた前髪を指先で分け直しながら、そのようですね。と無表情で静かに返す。
おそらく自分が怒っているだろう事は、目の前の男も察している筈だ。しかし仁王は構わず柳生に近づくと、躊躇いもなくそのまま唇を塞いだ。
抵抗はしなかったから唇は無造作に顎や首筋、隆起した喉仏を伝っていく。
「……、っ」
悪戯を仕掛けるように肌に触れられては奥底で生じる感覚に、柳生がこくりと息を呑む。
信じた先からこうして裏をかかれるのだから、何を信じればいいのか、何が真実なのか、彼を知る度理解らなくなった。
この先これからも彼の気まぐれにつき合って、飽きるまで傍に居たってそれはそれで構わないのだけれど。
キスを落とされながら柳生は朦朧とそんな事を考えたが、するりと侵入した仁王の舌を口内で感じ、意識に微かな明瞭さが戻った。
体温は低いのに、中で触れた部分はとても熱い。身体で感じるそれは揺るぎ無く確かな真実で。
柳生がゆっくりと睫毛を伏せる。溶け合った吐息の中で唾液がはぜ、互いに息を継いだ瞬間、絡んでいた舌に歯を立てた。
「……ッだ!」
仁王の身体が離れる。それ程力は込めていないが、かといって甘噛みという程優しいものではない。
予想もしなかった反撃に出られてなかなか言葉が出てこないのか、仁王はスプリングの上に座り込んで痛みに耐えていた。
晴れて自由の身となった柳生は、ゆっくりとベッドから起き上がるとポケットから取り出した眼鏡を掛け、
崩れたユニフォームの襟を丁寧に直しながら、そんな彼の背を見て告げた。
「あなたも私を信用し過ぎですよ、仁王くん」
先程の暴挙などまるで無かったかのように、
涼しげに微笑み立ち上がる紳士を見返しながら、乱暴に口許を拭った仁王が苦々しく呟く。
「全くじゃ。ちいと油断した」
今回ばかりは見事に逆転、読み負けだ。
仁王はかなり後ろ髪を引かれたが、柳生に噛まれた舌先の、疼くような痛みの余韻が引かない内に、
そして彼の姿勢の良い後ろ姿が視界から消えて無くなる前に、心地良い保健室のベッドから離れる事を決意した。
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