遠くにひぐらしの音を聴きながら、のろのろと何処までも続く坂道を上る。
時間はもう夕方の6時を過ぎているというのに空はまだ十分に明るく、
水を溶かしたような薄い青の涯に濃い橙色が沈澱していた。陽射しの余韻は至るところにしぶとく残っており、
それはアスファルトからたちのぼる熱となって歩く仁王の靴底を灼く。
一旦立ち止まり、肩に沈んだテニスバックを背負い直して、顔を上げる。
少し上った先に長方形の看板が見えていた。柳生医院、と古ぼけた文字で書かれたそれを目指し仁王は黙々と歩みを再開させる。
午後の練習に、二時間程遅れてきた仁王を待ち受けていたのは、幸村の、一瞬耳を疑うような言葉だった。
「仁王、明後日の決勝はシングルスで出てもらうよ」
「……は?」
彼の口から放たれた言葉の意味がさっぱり理解出来ず、呆けたように訊き返す。
確か、決勝は再び柳生とダブルスを組むようオーダーが出ていた筈なのだが。余程怪訝な顔を浮かべていたのだろう。
ベンチに腰を降ろしていた幸村はそんな仁王を眺め困ったように微笑んで、腕を組んだまま、ふうと小さくため息を吐いた。
「柳生がね、怪我をしたんだ」
「怪我?」
その言葉に、仁王の眉があからさまに曇る。
「朝、自主練に参加していたんだけど、その時足首を捻ってね。
たいした事は無いというんだが、夏休みで保健医も居ないからそのまま一旦帰らせた」
彼の家で看てもらった方が安心だろう?穏やかな声音で淡々とそう云いながら幸村は重ねていた脚をゆっくりと組み直し、そして続けた。
「先程連絡が来たんだが、やはり軽い捻挫だそうだ。動けない程度ではないが…」
「不安要素は完全に取り除きたい、って訳か」
部長の正面に立つ仁王が、ハーフパンツのポケットに片手を突っ込んだまま、続きの言葉を奪い取る。
幸村が少しだけ驚いたように瞳を大きくしたが、それは一瞬の事で、すぐにいつもの柔和な眼差しに戻った。
しかしその両の瞳の底には揺るぎない決意が灯っている。
「そう。相手はあの青学だ。我々は必ず勝利しなければならない。その為には仁王」
俺は手段を選ばないよ。
静かに、決然とそう告げる幸村を、仁王は白銀の後ろ髪に悪戯に指を絡めたまま、じっと見つめていた。
部長である彼の言葉に異論を唱える気は無い。敗北を許さない自分達は、王者の座を奪還、そして三連覇を達成する。
それは時として非情に見えるかもしれないが、何かを得る為には、必ず何かを捨てなければいけない。
そして、幸村は明後日に控える決勝戦で、故障した柳生を捨てる事を選んだのだ。
あのアホ。仁王の機嫌は急激に下降した。誰よりも慎重で、誰よりも完璧な男が何故、よりにもよって今なのだ。
こんな大事な時に、最後の試合を目前に。何故。
柳生医院の看板まで辿り着いた仁王は、そこではあ、と大きく深呼吸して息を整えると、
すぐ正面に見える白く無機質な病院の建物では無く、そこを回り込んだ裏手にある自宅の方に足を踏み入れた。
今更ながらにこの地域の坂道の多さには辟易する。バスと電車を乗り継いで、そして目の前には住宅街が建ち並ぶ、
長い長い一本の坂道。練習の後に来るものでは無いな、と軽く後悔しつつ自宅へ続く裏道を歩いていると、ふいにピアノの音が耳を掠めた。
仁王が顔を上げ、家の窓を仰ぎ見る。彼の妹が弾いているのだろうか、音の運びは少し辿々しかったけれど繰り返される旋律はとても丁寧で、
素人の自分が聴いても好ましいと思った。透明なその和音に耳を傾けながら、仁王は玄関のインターフォンを押す。
直後、ピアノの音がふつりと途切れ、誰かが二階から降りてくる気配を扉越しに感じた。
軽く手持ち無沙汰になりながら、そのままそこに立っているとガチャ、と重厚な扉が中から開けられ、長い髪の少女がひょこりと顔を出す。
「仁王さん!」
自分の顔を見た瞬間、嬉しそうに満面の笑みを浮かべる彼の妹に、仁王もにっこりと笑顔で返す。
「こんにちは、紗世子ちゃん」
「お久しぶりです。お元気でしたか?」
「暑さを除けばまあそれなりに。紗世子ちゃん、今ピアノ弾いてた?」
投げ掛けられた仁王の質問に、はい、と頷き今からレッスンがあるんです、
と紗世子は持っていた可愛らしい手提げ鞄を胸の前に掲げると柔らかに微笑んだ。
陽に透けて薄茶に映える髪と瞳の色が、本当に良く似ている。兄妹なのだから、顔だちも似ている部分があるのだろうが、
彼女のように花が綻ぶような笑顔や様々に変化する表情を彼の中で見た事が無いので、仁王は未だにこの兄妹の共通点をうまく見出だせない。
「あ、だけど今なら兄ですね。私はもう部屋で支度していたから」
「柳生が?」
弾くのか、ピアノ。訊き返す仁王に紗世子は再びしっかりと頷き、私より上手ですよ。
と返しながら玄関に揃えられていた細いリボンの巻かれたサンダルを履き、片方ずつとんとんと爪先を鳴らす。
その度に脚にひらりと纏わるフレアのスカートがやけに眩しい。
「家の応接間、分かります?そこに兄が居ますから。どうぞ入って下さい」
それじゃあ、行ってきますね。と笑顔で仁王に会釈をすると、
紗世子は未だ上空から注ぐ陽射しを厭うように鞄の中から日傘を取り出し、それを広げ裏の道を歩いていった。
いつ見ても可愛らしく完璧なお嬢様だ。柳生が放っておけないのも分かる気がする。
仁王は玄関先で彼女の華奢な背中を見送った後、靴を脱ぎ、勝手知ったる様子で家の中に入った。
あれからピアノの音は止み、廊下はしんと静まり返っている。食事に誘われる時はほとんどリビングに通されるが、
確か以前応接間にも足を運んだような気がする。その曖昧な記憶を頼りに仁王は廊下を進むと、ようやくひとつの扉の前に行き着いた。
一言断って入ろうかとも思ったが、おそらく玄関先の会話で誰が来たかは分かっているだろう。
そう思い、黙ってノブに手を掛けゆっくりと扉を開ける。ギ、と鈍く軋んだ音をたて、
視界が拓けたその先には、絨毯の上に備えられた一台のグランドピアノと、椅子に座りこちらに顔を向ける柳生が見えた。
「よ」
「…仁王、くん」
鍵盤を覆う深紅のカバーを手にしたまま、柳生は真っ直ぐこちらを見つめ硬直していた。
信じられない、という表情。否、むしろ信じたくない。か。
扉を閉めた仁王はその場にテニスバッグを置くと、ゆっくりと柳生の方に歩み寄った。
「怪我。したって幸村から聞いた」
端的にそれだけを口にすると、柳生の視線は条件反射のようにするりと仁王から逃げ惑い、そのまま避けるように伏せられた。
「…あ、今朝、軽く挫いてしまって。幸村くんにもお話したのですが、たいした事は無いんです」
すみません、と力無く呟く柳生の足首には、白い包帯が巻かれていた。
平坦に告げられるこの男の謝罪の言葉程、自分の神経を引っ掻くものは無い。
先に謝れば、全てが許されるとでも思っているのだろうか。
仁王は俯いてしまった彼を冷ややかに眺め、一歩ずつ距離を縮めながら言葉を続ける。
「俺にはシングルスで出ろって」
「申し訳ありません…、私の所為で」
「ダブルスは赤也と柳が入る。お前は補欠だとさ」
「…そう、ですか」
俯いたまま、柳生は張り詰めた硬い声音で呟く。ショックをうけるくらいなら最初から怪我なんてするな。
仁王は苛つく気持ちを抑えられない。あの時、ダブルス解消を取り消してから日を待たずに、全国大会が始まった。
しかしコンビネーションを戻す時間も無く、ダブルスとしての練習不足も否めなかった自分達は、
結局対兜との試合でしかオーダーが下りなかった。その事実に、柳生は焦り、じりじりと追い詰められていった。
もう一度二人で組みたい。わがまま、と称された仁王からの希望を叶えられない自分が耐え難く、許せなかったのだろう。
決勝に駒を進めれば進める程、柳生は不調に陥り、練習量を増やし続けた。もう一度、彼とダブルスを組む為に。
「云ったよな」
ぴたりと、座る柳生の目の前で仁王が足を止める。何故練習を止めなかったのだろう。
無表情のその裏で、熱い想いを秘めている事なんて、身にしみて知っていた筈なのに。
自分なら止められたかもしれない。けれど、今になってどんな言葉を掛ければ良いのか、
どんな言葉なら柳生に伝わるのか真剣に理解らなかった。
「俺のいないとこで怪我したら、殴るって」
落ちてきた彼の声にのろのろと顔を上げた柳生は、
表情を失ったまま、そうでしたね。と抑揚のまるでない声で呟いた。
柳生の意識の片隅で、保健室に漂う消毒液の匂いと、今はもう完治した、擦りむいた膝の浅い痛みが蘇る。
あの時の言葉を、まだ覚えていてくれたのか。その事実にひっそりと嬉しくなった。
「殴られても仕方ありませんから。私は」
折角、決勝戦で再び彼と組めるチャンスを掴んだというのに、自らそれを手離してしまうなんて、余りにも愚かだ。
挙げ句自分の所為で人々に、そして誰よりも彼に迷惑を掛けて。おそらく仁王は罰を与える為にここに来たのだろう。
柳生は居住まいを正し、眼鏡の奥でそっと睫毛を伏せる。そんな従順な態度を示す柳生のすぐ正面に佇んだ仁王は、
左手を上げ勢い良く振り下ろす。
「………」
しかし、頬に走ったのは予想した鋭い痛みでは無く、乾いた掌の感触だった。
いつまで経っても訪れない衝撃に、そろそろと柳生が目を開ける。そこには間近になった仁王の顔があった。
不機嫌そうに眉を寄せ、前髪から覗く切れ長の瞳は鋭さを増している。
「気が変わった」
ひどく重たい声でそう告げて、更に顔を近づけた仁王は頬に触れていた手で顎を持ち上げそのまま柳生の唇を塞ぐ。
呼吸が止まる。突然の出来事についていけない柳生は、瞳を見開いたまま、ただそれを受けるしかない。
「……っ、」
酸素が足りず、息苦しくて、頭がくらつく。
首を捻って逃げようとする柳生の顔をしっかりと押さえ、
仁王は引き結ばれていた唇が喘ぐように息を継ぐ瞬間、舌を使って強引にそこを割り開いた。
生まれて初めて侵入する他人の身体、熱を感じ取った柳生がビク、と大袈裟に震える。
柳生の口内は温かく、舌でなぞれば柔らかかった。肩に食い込む爪を感じながら、
かろうじて残されていた仁王の理性の欠片は、一体何をやっているんだ、と冷静にこの行動を責める。
勝手に怪我をして、こちらの感情などまるで考えず一方的にさっさと謝る。
自分自身を過度に防衛する反面、そうかと思えばあっさりと擲つその態度も大嫌いだし許せなかった。それなのに。
「…に、…おう、くん…」
揺れ始めている。
吐息が混じり感情のこもったその声に、耳の奥が密かに震えた。
何度もなぞられる平坦な謝罪よりも、こちらの方がずっといい。
顎まで唾液に濡らされながら、何度も弱々しい抵抗を繰り返し、ようやく柳生は仁王から顔を離す事を許された。
腕を突っ張り懸命に距離を保って、微かに俯いた柳生は、乱れては小刻みに震える息を整えていた。
「何故、…こんな、…どうして、」
私を殴らないのです。
荒い呼吸と共に吐き出されたその言葉に、仁王が固まる。
酸素を求め、は、と大きく息を吸った柳生が、こちらを見た。
この状況にひどく戸惑い困じ果て、それでいて哀しげな顔をしていた。
「貴方は私に罰を与えに来たのでしょう…?それなのにどうして、」
そう云いながら力無くゆる、と首を振った柳生は再び視線を落としてしまい、けしてこちらを見ようとしない。
仁王は腕の中のそんな彼を見つめながら次第に背筋がじわじわと冷たくなっていくのを感じた。
この男は、自分に対して赦しでは無く罰を望んでいるのか。求めているのは、口づけでは無く冷徹な拳なのか。
どうして。訊きたいのはこちらの方だ。ここまで追い詰められるまで、どうして相談しなかった。どうして怪我なんかした。
どうしてこちらを見ない。受け入れようとしない。そこまで考え、しかし仁王はその答えに自ずから辿り着く。どうして?
それは自分が柳生に「それ」だけしか教えなかったからだ。希望の前に失望を。嘘と裏切りで塗り固めた、一方的な感情だけしか。
「…私は、結局貴方の願いを聞いてあげる事が出来なかった。挙げ句、貴方とダブルスを組む相手に醜い想いを抱いた」
突っ張っていた腕からずるずると力が抜け落ちていく。柳生が放心したように訥々と胸中に秘めていた感情を吐露していく。
「そんな愚かな自分が厭で仕方が無いんです。貴方に失望されこそすれ、優しくされるような人間ではないんです」
ですから、罰を与えて下さい。
最後の言葉は仁王の耳の傍で、ほとんど聴き取れない程の吐息となって溶け落ちた。
柳生はそうして自分から想いを手離し断ち切ろうとする。傷つかないように、けして期待は持たないように。
好きだと云うのに近づけない。けれど想いは捨てられない。奇妙な歪みが生じている。
柳生をこんな風にしてしまったのは自分だ。仁王は唇を噛み締めたまま左手を動かして、再びそろりと柳生の冷たい頬に触れた。
硬質な眼鏡の弦が指先にあたる。それをいとおしむように撫でると、緩慢に腕を振り上げた。
掌に灼けつく痛み。むしろ今この状況が、自分に用意された明確な罰だと、仁王は思わずにはいられなかった。
□END□