永遠なんて怖い言葉はいらない。
だけど、寄り添うだけの赦しは欲しい。

要するに、ちいさなわがままは未だ健在なのだった。



 「いー匂いがする」

僅かに開けた窓の隙間から、ころころと秋の虫達が奏でる音にぼんやりと耳を傾けていた仁王は、
瞳を細めくん、と小さく鼻先を動かした。彼が今無造作にあぐらをかいて座っているベッドは、柳生のものだ。
淡いベージュのカバー。穏やかな色調でまとめられた、それなのに何処かよそよそしいベッド。
本来の持ち主である柳生は、斜め前方に備え付けられている大きな木製の机で一人熱心にペンを動かしていた。
彼は今、家庭教師から出された課題の残りを解いている。柳生に家庭教師がついている事を仁王は今日初めて知った。
今までも試験前などに集中して来てもらっていたが、部活を引退してからは本格的に頼んでいるのだそうだ。
家庭教師といっても自分の従兄弟にあたる医学生なので、厳しくもないし色々と融通が聞くんです。
と、ぶ厚いテキストに指を挟んだ柳生は云った。厳しくない家教がこんなにどっさり課題を出すかよ、と仁王は内心思ったのだが。
窓辺でぽつりと呟かれた彼の言葉に心当たりがあったのか、柳生は静かにペンを置き、ついと顔を上げて声の主を見た。

 「銀木犀ですね。ちょうどこの時期に花が開くんです」
 「銀?」

微かに眉を寄せ訊き返してくる仁王に、こくりと頷き肯定を示すと、彼は淡々と淀みない口調で続ける。

 「ええ。金でなく銀です。金木犀の方がポピュラーかもしれませんが、金は香りが強過ぎるので」

家の庭に植えてあるのは全て銀です。
そう云うと柳生は意識を切り替えるように眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、再び机上のノートに視線を落とした。
部屋の照明は既に落とされており、唯一の光源は柳生が向かう勉強机の淡いライトしか無い。銀木犀。
風に含まれ乗ってくる淡い香りの正体は、それでは眼下の大樹から発せられていたのか。
外の暗闇に目を凝らし良く見れば、たっぷりと生い茂る葉にはぼんやりと薄白い小さな花のようなものがついている気がする。
銀木犀は、柳生の生まれた頃に咲くのか。仁王は窓際に凭れていた上体を反転させ、
大きく伸びをした後でひとつ欠伸をかみ殺すと、そのまま視界に入った柳生の姿勢の良い後ろ姿を静かに見つめた。

ご迷惑でなければ、という前置きで仁王はこの日柳生の家に誘われた。
突然ですみません、母も紗世子も是非にと云うので、ご都合が悪ければ断って下さって構いませんから。
言葉を費やし幾重にも張った傷つかない為の予防線を、おそらく無意識なのだろう柳生は口にしながら、
放課後、隣の教室から出てきた仁王に声をかけた。柳生の家族とはかつて何度も豪勢な夕食を囲んでいる。
彼らにとって仁王は息子が連れてくる唯一の「友人」だからだ。
互いに都合のいいその関係と言葉を家族の前で偽り続けてきたけれど、あの時と今では状況はゆっくりと、しかし確実に変化を遂げていた。
泥沼からは這い出たが、出た先はそれにも増して難解な袋小路だった。柳生にとって初めて逢った時から仁王は「友人」ではないだろう。
それはきっと今でも変わらない。仁王にとって柳生の存在はといえば、やはり「友人」ではない。
だからといって、別のベクトルで動き始めた未だ不明瞭な感情を透かして見ても、
今の自分達はどういう名前の関係がふさわしいのか、理解らない。仁王は少し迷ったが、結局彼の家に行く事にした。
部活を引退して時間は余りあったし、自分でも信じ難い事なのだが最近は特定の女子とのつき合いも面倒になって絶えてしまっている。
そういう理由の他にも、最後に柳生の家に訪れたのは関東大会の頃だったから、その後の戦勝報告をしておきたいと思ったのだ。
以前彼の妹から聞いたのだが、柳生は、自分の家族に対して必要最低限の事を除き、余り部活や試合の事を話さないらしい。
さすがに全国大会まで勝ち進んだのだから、彼もある程度はかいつまんで口にしているのだろうが、なんとなく自分からも話をしておきたかった。
それに、なにより柳生の母親が作る料理は素晴らしく美味で大変彼好みだからだ。

しかし本日、見慣れた柳生邸のどっしりと大きな丸いテーブルには、普段余り目にしない特別なものが中央に鎮座していた。
卵色の柔らかなスポンジにたっぷりと乗せられた白いクリーム。その表面には華やかなフルーツが所狭しと盛られている。
リビングに脚を踏み入れた途端視界に飛び込んできたデコレーションケーキに、何事かとまじまじ見入っていると、
タイミング良く二階から降りてきた柳生の妹がいらっしゃいと口許を綻ばせ、弾むような声で彼を出迎えた後、笑顔で続けた。

 「今日は兄のお誕生日なんです」

仁王の思考は一瞬停止し掛けたが、彼女の言葉と、
その主役然と置かれているケーキの関連性にようやく納得をした後、隣に佇む男の耳許に向けてボソリと低く囁いた。

 「…聞いてねぇぞ」
 「云ってませんから」

すみません。と視線を合わせないまま一言そう呟くと、
柳生は自分が立っていた場所を妹へ譲るようにして離れ、母親の居るキッチンへと消えていった。
誕生日?だから自分を呼んだのか?けれどこの突然の宣告は、なんだか騙しうちに遭ったみたいだ。
仁王は妹に促され、椅子に腰をおろしながら苦々しい気持ちになる。思えば自分が散々やってきた事なのに、
いざこうして騙される立場になると実に釈然としない。しかし、理由はどうであれ騙すように自分を連れてきた柳生の方が、
おそらくもっと複雑な気持ちなのかもしれない。手伝い慣れているのだろう、前菜の盛られた皿をてきぱきと運ぶ柳生の涼しげな横顔を眺めながら、
仁王はひっそりと苦い唾を飲み下した。誕生日だから来て欲しいと、そんな簡単な一言を云えなくしたのはおそらく、きっと自分だからだ。

柳生の母親が作った夕食は、息子の誕生日という事でレストラン顔負けの本格的なコース料理になっており、
その味は相変わらず素晴らしく、食後の紅茶と共に出された件のケーキも、フルーツの酸味とクリームの甘さのバランスが絶妙で申し分無かった。
その旨を食べながら伝えると、仁王くんが来てくれると本当に作り甲斐があるわ、と彼女は切り分けたケーキの残り
(昨日から学会の為、京都へ出向いている柳生の父親の分なのだそうだ)を丁寧に包みながらにっこり微笑んだ。
妹の紗世子と交わしていた会話が途切れるタイミングを見計らって、
柳生は正面に座る仁王と彼の後ろに掛かっている壁時計を交互に見た後、静かに告げる。

 「仁王くん、時間の方はよろしいですか?」

自分がここにいると、柳生はいつも落ち着かない。
表面には出していないつもりなのだろうが、
和やかに食卓を囲みながら一人だけ笑顔を浮かべ損なっているのを仁王は何度か見た事がある。
そして本日も、誘ったのは他でもなく柳生の方なのに、まるで早く帰って欲しいような口ぶりだ。
空になったティーカップの柔らかな曲線を指先でなぞりながら、仁王は少しだけ思案した後、そんな柳生を笑って見返した。

 「柳生。今晩、泊まらせて欲しいんだけど」

次に思考が停止し掛けたのは柳生の方だった。
今まで一度も聞いた事の無い彼の要望に対応すべく、思考停止に陥り掛けた頭を叱咤し整理する。
しかし、混乱した頭でかろうじて言葉に出来た、客間を用意しますから、という案は、
柳生の部屋で寝たいという更に聞いた事の無い言葉となって返ってきた。
ひどく困惑しているのだろう、微かに眉を寄せる柳生に対して、既に彼の母親と妹はあっさりと仁王の味方についてしまっている。

 「比呂士の部屋、お布団もうひとつ敷けるでしょう?」
 「それは、敷けますけど…」
 「着替えも貸してあげたらいいわ」
 「母さん…」
 「明日は日曜日でお休みだし、ゆっくりしていって貰ったら?」

戸惑う息子に反し笑顔の母親はさくさくと事を進めていく。
物腰はあくまでも柔らかなのに拒否は出来ない雰囲気。仁王は彼女の手腕に感心しながら、
テーブルを挟んだ場所でしばらくなりゆきを見守っていた。その隣で紗世子が小さな声でくすりと笑う。

 「兄さん、困った顔してるけど嬉しそう」
 「そうかな〜。迷惑だ!ってオーラ、遠回しに俺に向けてる気がするんだけど」

泊まると云った先程から、明らかにこちらに向けて放たれる眼差しが険しい気がする。
兄と良く似た茶に近い黒髪をまとわせながら、紗世子は肩を竦めそう返す仁王の方を見て再び笑った。

 「ほんとは嬉しいの。嬉しいけどどうすればいいか分からなくて、困った顔になっちゃうの」

そうしてそれから、リビングでしばらく談笑した後風呂と寝間着を借りた仁王は、柳生の部屋のベッドにぼんやり座っている。
彼の後で同じように入浴を済ませた柳生は、課題を済ませたいので仁王くんは先に眠って下さい。とやたら決然とした口調で云い放つと、
そのまま机にかじりついてしまった。どうやらベッドは客人に譲り、自分は床に敷かれた布団で寝るつもりらしい。別に、構わねーけど。
部屋で二人きりになった途端、相手にしてもらえなくなった仁王は、借り物の寝間着に頼りなく身を包んだまま、改めてぐるりと室内を眺める。
壁一面に備え付けられた棚には、作家別に整然と本が並べられている。
片仮名の作家がやけに目につくのは、柳生が海外のミステリ作家の愛読者だからだろう。
更に文庫、新書、変形と、それぞれのサイズにまとめられた本棚は、初めて目にした仁王に何処か云いしれない圧迫感を与えた。
本と机と鞄、そしてクローゼットの前に掛けられた制服の上着以外、何もない。
面白い程に「柳生比呂士」という男の人格を裏切らない、面白味のない部屋だった。
窓際に身体を凭せかけ携帯をいじったり、それに飽きてはぼんやりと部屋の中を物色していたが、
さすがにそろそろ一人で時間を潰すのも苦しくなってきたので、諦めて床につく決心をした。
柳生がいつも眠っている場所で自分が寝るというのは、実はなかなか勇気が要る事のような気が、する。

 「柳生」
 「なんですか」

真っ直ぐな背中越し、一定のトーンに保たれた声だけが返ってくる。
先程銀木犀の話をした時のように、今度は振り向いてはくれないらしい。

 「もう寝るぞ」
 「お先にどうぞ。私もあと少しで終わりますから」
 「…柳生」
 「なんですか」
 「怒ってる?」

仁王が唐突に投げかけたその言葉に、僅かな明かりの中で柳生の両肩がぴくりと動いた。

 「いきなり泊まるとか云って、いきなり部屋入って」

こんな事、今まで一度も無かったから。
彼は自分の予想以上に驚き、きっと今でも酷く混乱しているのだと思う。前例が無いと、柳生はいつも立ち竦んでしまうのだ。
そして模索をする。どうしたら自分が傷つかないか。どうしたら仁王を満足させられるか。そして結局、「命令」という名の言葉を待つ。
仁王は彼のそういう思考回路を知っていて、あえて今回柳生の内側に踏み込んでいった。
「命令」する事を止めた仁王が引き起こしたこの異例な事態に、柳生がどんな反応を返すのか興味があったからだ。
自分のこの身勝手な振る舞いを、柳生ははねつけるだろうか。拒絶するだろうか。それとも呆れるだろうか。
否…怒っている。仁王から見ると、柳生が先程からとっている態度はそれが一番近いと思った。
背中を向けたまま、必要最低限の事しか喋ろうとしない。しかし、彼は少しだけ考えた後、小さく息を吐きながらこう云った。

 「…怒っていませんよ。多分、嬉しいです」

多分、て何だ。
あくまでも後ろ向きのままこちらを見ず語られる柳生からの解答に軽く脱力しつつ、
仁王は枕の方へと移動し、上布団を持ち上げる。秋の風に触れていた所為で、布団の温もりがはっきりと冷えた指先に伝わってくる。

 「……ならいい。おやすみ」

ごそりと身体を布団の中に忍ばせて、くぐもった声でそう呟いた。
しかし、そのままいつもの癖で頭まで上布団を被った途端、仁王は思わず両目を開く。うわ。
柔らかなスプリング、穏やかな暗闇。自分を取り巻く全てから、柳生の匂いがする。
急に、仁王は足先まで体温が満ちていく、そんな奇妙な錯覚に陥った。

控えめに動かされるペンと、時折紙面をめくる乾いた音。
ぐるぐるとまとまらない考えを持て余したまま聴いていたそれらがいつしか遠ざかり、頭の中は暗闇と静寂に占有されていく。
一体、自分は何をやっているんだろう。自問したところで納得するような答えは出てこない。
直面した袋小路は複雑過ぎて、けれどここまで複雑にしたのはきっと自分だから、諦めて先を進まなくてはいけない。
道を変えては行き詰まり、その都度進路を変更し、そして何度目かの行き止まりに落胆したところで、仁王は浅い微睡みからゆるゆると目を覚ました。
何度か寝返りをうち、ひとつため息を吐いた後、見るともなくすぐ傍の布団が敷かれた床を見る。
暗闇に慣れていない彼の両目が捉えたのは、きっちりともぬけの空になった布団だった。

 「…?」

横になったままの格好で、仁王はぐぐ、と敷かれた布団に顔を寄せる。
一時的に場を離れた、にしては気配も無く、まるで使われた痕跡が無い。柳生が消えた。
もしかして、別室にでも移ったか?そう思い、改めて寝直そうと決めた仁王だったが、それから数分後、がばりと上布団をはねのけた。
なんなんだ、これは。頭の中の冷静な自分がこの感情を懸命に判断しようとしているが、身体はそれを無視して手にした携帯をカチリと開いた。
瞬間ぼんやりと光を放つ画面を懐中電灯代わりにベッドを降りると、部屋の扉を僅かに開け音もなく滑り出る。
自分を突き動かすこの衝動の正体は、一体なんだ。

慎重に階段を一段ずつ降り、ひたひたと階下を歩く。
何度か来た事のある家だし、宿泊させてもらっているとはいえ、
なんだか不法進入を働いているような罪悪感が仁王の背後につきまとう。本当に、何をやってるんだ俺は。
自分に呆れつつ、しかし気になるのだから仕方が無い。ここは彼の家だというのに。彼が傍に居ないという、それだけで。
リビングへ続く扉に手を掛け、そっとノブを捻る。
無意識に息を殺し、細心の注意を払って中に入るが、ついているのは足元灯のみで、ここも人の気配が無い。
ため息を吐いてキッチンの方に回ると、磨かれたシンクにグラスがひとつ、ぽつんと置かれていた。
中には飲み掛けの水が入っている。それを目にした仁王は思案するように少しだけ首を傾け、
そしてそのまま視線をすぐ横にある勝手口へと向けた。誘われるようにノブを掴み、扉を開ける。
途端に視界は闇に溶け、ひんやりとした夜気と共に甘い香りが仁王の鼻を掠めていく。
下に置かれていた庭用のスリッパを借りて外に出ると、銀木犀の木々が寄り添うように並んで植えられている。
甘やかな芳香に似合わず刺のように強靱な葉は、腕に触れると微かな痛みを残していく。音を立てず更に進んでいた仁王の足が、不意に止んだ。
規則正しく並んだ大樹が途切れた場所、夜の庭に焦げ茶のカーディガンを羽織った柳生が、寄る辺なくそこに立っていた。

 「見つけた」

一言ぽつりと呟いて、あ、逆だ。と仁王は思った。
部活の度に姿を眩ます自分を、毎日飽きずに探していた柳生。立場がひっくり返っているのだ。
あの時と、今と。不思議な気持ちだったが、姿を見た時の安堵感の方が強かったので深く考えない事にした。
柳生も、いつもこんな気持ちだったのだろうか。
仁王の呟きにゆっくりと振り返った柳生は、
突然現れた男に別段驚いた様子も無く、起きていたんですか。と小さな声で返した。

 「勝手に居なくなるなよ」

憮然とした仁王の口ぶりに、それを聞いた柳生は内心思わず苦笑してしまった。
居なくなるなも何も、ここは自分の家なのだが。本当にわがままで、自分勝手な人だと思う反面、無茶を云われて嬉しい自分が居る。

 「すみません。…なかなか、寝付けなかったので」

風にあたっていたんです。
そう云って視線を仁王から外し、正面に植えられている手入れの行き届いた木々へと向けた。
ふうん。と頷きながら仁王はそんな彼の傍まで歩みを進めていく。

 「俺がいたから?」

率直に投げかけられた質問に、柳生はそうですね。と率直に答えた。
隣から覗く前髪のおりた紳士は、なんだか普段より幼く見える。

 「お得意の冗談にしては、念入り過ぎて心臓に悪いです」

一緒に誕生日を祝った上に宿泊なんて。
柳生はこの過剰な幸福の上乗せをまるで恐ろしい事のように、そんな口調で淡々と話す。
別に冗談で泊まった訳では無いのだが、彼はまるっきり信じていないらしい。
黙って云い分を聞いていた仁王だったが、後ろ髪を弄りつつゆるゆると口を開いた。

 「けど俺、お前の誕生日はここに来るまで知らなかったぞ」
 「…それは……」
 「云って断られるくらいなら、云わずに連れてきた方がいい。そっちの方が、傷つかない?」

全てを見透かしたように呟かれる彼の言葉に、柳生はこくりと息を呑む。
否定は出来ない。まさにその思考で行動してきたからだ。不意に、見ないふりをしてきた後ろめたさが蘇ってきてしまった。
最近、否、ダブルスの解消話で一時期身辺が落ち着かなくなって以降、柳生は仁王に傷つけられる事を酷く恐れ、怯え始めていた。
一度優しくされてしまうと戻れなくなる。手を放されてしまうんじゃないかと怖くなる。
常に持っていた警戒心はあの口づけで粉々に崩れてしまった。だから過剰に防衛する。
しかしすればする程、対する相手は刃を向けなくなった。理解らない。柳生はあの一件から日々困惑していた。
どれが嘘でどれが真実なのか。理解らなくてもいいと、思っていたのに。
貧欲な自分は仁王の全てを信じてみたくなる。それがどれだけリスキーな事なのか、自分が一番身をもって知っているというのに。

 「……騙すような形になってしまった事は、謝ります」

指先でカーディガンの裾を強く握り、柳生はうつむいたまま小さく詫びる。
そんな彼を横目に、仁王は髪を弄る手を降ろし、自身を抱き締めるように腕を組む。十月の風は思った以上に冷たい。

 「別にいーさ。たまには騙されんのも悪くない」

柳生は思わず、じっと仁王の横顔を見つめてしまう。
この言葉は、信じてもいいのだろうか。それとも、また騙されて泣きを見るのだろうか。

 「…仁王くん」
 「なんだよ。寒ぃから戻るぞ」

云いながら既に方向を変え、仁王の身体は早くも勝手口に向け歩き出そうとしている。
しかし、なんとか思いとどまって、その場に立ち竦んだまま次の言葉を探している柳生の顔をしばらく見ていたが、
待ち切れなかったらしく、ぐい、と乱暴に彼の手首を掴んで歩きだした。

 「限界。戻ってから訊く」

いつも跳ねている銀髪は勢いを失い、ひとつに束ねたしっぽのような後ろ髪も今夜は拘束を解かれ自由に背中で揺れている。
そんな仁王の後ろ姿を眺め、彼に手を引かれながら、柳生は酷く戸惑った。この、嘘みたいな優しさを全て信じる事が出来たら。
それは強く願うには余りに脆くて、掴んだ瞬間するりと逃げてしまうような気がする。
けれど。手首に触れる、確かな熱。彼がここに居るという、真実。
銀木犀の甘い香りに包まれた月の無い夜の闇を二人で歩きながら、柳生はこの日をきっと忘れないだろうと思った。

 

 

□END□