「もう、限界なんですよ」

色素の薄い茶色の前髪を指先です、と掬いながら、目の前の男は静かな声音でそう云った。

 「無かった事にして頂きたいんです。貴方とのこと、全て」

機械的に音を紡ぐ唇。彼の放つ言葉とそれらが含み持つ意味が上手く合致せず、
良く理解出来なかったからしばらく黙って考えて、そして出した返答は何故だ、という味気の無い質問だった。
直後、ごく僅かにぴく、と相手の瞳を縁取る睫毛が小さく振動するのが見えた。男はレンズの向こう側、
ひどく褪めた色を滲ませた両眸でこちらを眺めている。いつも向けられる時に存在を主張していた、
常軌を逸する熱がそこには欠片も無くて、まるで別人のような眼差しだった。

 「端的に云いますと、…ただ、そうですね。失望したのだと思います」

しかし実際目の前の男、柳生比呂士はいつものように変わり無く、
全くぶれの無い一定の喋り方と声のトーンを保ちながら淡々と言葉を紡いでいくのだった。

 「想い続けても何も変わらないこの状況に。何も返してくれない貴方に」

褪めた瞳がごく僅かに薄い弓を描く。柳生は笑っていた。
自嘲なのか、それともこちらを嘲っているのか、分からない、けれどとても倦み疲れた笑みだった。

 「そうしたらなんだか急に馬鹿馬鹿しくなって、結局私の貴方への想いなんて、そんな程度でしかなくて、そうやって考えていくと」

真剣に、貴方のことなど愛していなかったのかもしれませんね。

柳生は云った。何でもない事のようにあっさりと。そしてまた笑った。
今度は柔らかな微笑みをその瞳と口許に浮かべて。冷ややかな言葉とは裏腹に怖いくらい柔和なその笑顔は、
初めて目にする柳生の表情だと思った。ようやく笑った顔を見たかと思えば、もう終わってしまうのか。
闇の中に立ち尽くした仁王は黙ったまま、微笑みながら饒舌に自らの心の内を吐露する彼を見続けている。
何も云い返せないのは、心の何処かでこうなる事を予想していたからで、
引き留められないのは、出来ないだけの事を今までしてきたという罪悪感が、心の奥底にべったりと張り付いているからだ。
いつ、引導を渡されるかとずっとひやひやしていた。
いつ、柳生の目が覚めるのか、いつ、想いの底が尽きるのか、いつ、自分に関心を無くすのか。
だけど、これでいい。仁王は思う。もうこれで、自分も、柳生も、解放される。
この窮屈で息苦しく、迷ってばかりだった袋小路から、やっと。
真剣になれないのは、傷つくのが怖かったからだ。柳生を避けたのは、嫌ったのは自分に無い一途な真剣さを、
腹が立つ程真正面からぶつけてきたからだ。遠ざけたくて酷い事をした。その眼差しから逃がれたくて視界を奪い、
その声から逃がれたくて、言葉を奪った。それなのに柳生はいつも傷つきながら傍に居た。
犬のように従順に、ただひたすら、好きだと云って。そんな、どこまでも馬鹿な柳生がようやく気づいたのだ。
この関係の無意味さに。欺瞞で塗り固めた仁王雅治という人間に。
良かった、と仁王は思う。やっとこの男から逃げおおせたのだと、安堵する。
それなのに、立っていた脚からはずるずると力が失われていった。気がつけば心臓が握り潰されたように痛くて、ひどく苦しい。
思わず柳生を仰ぎ見れば、蔑んだような視線でこちらを見ている。

 「…何故、貴方がそんな顔をするんです」

怪訝そうにぽつりと呟くと、柳生は立ち竦んだまま動けない仁王の傍までゆっくりと歩み寄り、
そして白銀の髪に指を滑らせ、直後一気に強く、引っ張り上げた。突然襲った痛みに仁王はきつく眉を寄せたが、
何故かどうしても、声は出せなかった。

 「仁王くんは私のことなど、塵程も思っていない筈ですよね。それなのに、」

じりじりと髪を掴む力は次第に強くなる。
柳生は眼鏡越しの奥に凍りつく程冷ややかな瞳を宿しながら、唇に酷薄な笑みを宿す。

 「これではまるで、貴方が私のことを■■みたいじゃないですか」

可笑しそうに、柳生は揶揄するような口調で云った。
ノイズの混ざったその言葉を聴いた瞬間、仁王はぐらり、と自分の脳髄が内奥から強烈に揺り動かされるような錯覚に陥った。
今、柳生は何を云った?何故全てを聴き取れなかった?途端、一気に視界が眩み、自分を取り巻く世界がぐにゃりと歪んだ。
身体が大きく揺れて崩れそうになったのは、柳生が髪を掴んでいたその手をあっさり離したからだと、
仁王は足許にまとわりつく闇の泥濘に自分の顔がゆっくりと近づいてからようやく気づいた。



こういう、生々しい夢を見ると一日中テンションは最悪な上、ひどく心身が疲弊する。
仁王はぐったりと丸椅子に腰を下ろしながら、遮蔽された白いカーテン越し、
ガラス棚から応急処置の用具を準備している、カチャカチャと響く音にぼんやりと耳を傾けていた。
今朝見た夢はかつてない程最低最悪で、余りの不快さになかなかベッドから這い出せなかったくらいだ。
しかし二日前から定期試験期間が始まっているので遅刻する訳にもいかず、だらだらと登校し、
試験を受けて帰ろうとしたところで、付き合っていた女と廊下で出くわした。というより待ち伏せをされていたのだろう。
部活を引退した頃からほとんど連絡も途絶えていたから、既に適当に消滅していたものだと仁王は勝手に思っていたが、
その考えはさすがに甘かった。そのまま屋上に連れて行かれ、今まで溜まっていたのだろう恨みつらみを爆弾のように聞かされて、
挙げ句に「最低男!」の捨て台詞と共に強烈な平手打ちを喰らった。
しかし仁王はそのまま走って校舎に続く階段を駆け下りていった女子生徒を追いかける事もせず、
片目を眇めて腫れた左頬に触れる。やけに鉄の味がすると思って指の腹で拭うと、赤黒いものが付着していた。
あー、最悪だ。多分、今のが最後の一人。
それなのに、何の感慨も湧いてこないなんて。こんなにも簡単に、全て清算出来てしまうなんて。
のろのろと屋上から教室へと続く薄暗い階段を降りながら、ひんやりとした廊下に出る。
最悪だ。仁王は再び同じ言葉を呟いた。そこには、自分の傍に残った本当に最後の一人である柳生が、帰り支度を済ませ立っていたからだ。

 「口の中、切れていますから、食べる時には気をつけて下さい」

応急処置の用具を載せた銀のトレイを机の横に片付けながら、柳生は静かに云う。
あの後、仁王の腫れて血のついた顔を見た途端、柳生は有無を云わさず保健室へと彼を連れていったのだ。
しかし生憎保健医は今から用事があるそうで、柳生が事情を話すと鍵を預けるから使ったら職員室に戻しておいて、
とさっさと出ていってしまった。医者の息子は保健医の信頼も篤いらしい。実際柳生の処置は完璧だった。
淀みの無い動きで湿布や消毒綿、サージカルテープを自在に操っていく。

 「しゃべるといたい」

時間が経ち頬も腫れ始めてきているから、口を動かすと、変な風に引きつって唇の周囲に鈍痛が走る。

 「でしょうね」

柳生は事も無げに返して、指先で眼鏡を押し上げるとそのまま黙り込んでしまった。
相変わらず表情はかたく、何を考えているのか予測するのは難しい。
けれど本当に注意深く、浮かべた表情と纏う雰囲気を窺えば、
どういう方向に感情が傾いているか、というぐらいまではとても曖昧ではあるが判別出来るようになった。
そして多分柳生は今、怒っている。

 「…なんで怒ってんの」

だから仁王は訊ねる。単刀直入に間髪入れず。回りくどく訊くのは嫌いだった。
その質問を受けた柳生は相変わらず黙っていたが、しばらくして微かに俯くと、指先を顎に持っていき緩やかに滑らせた。
思考を巡らせている時の癖だ。最近柳生は仁王の言葉を受けて返す際、良く考えるようになった。
以前ならば模範回答のように返ってきた無味乾燥とした言葉達が、少しずつ彼の持つ僅かな色を帯び変化してきているのだ。

 「…それならば私も訊きたいのですが、何故貴方は最近怪我が絶えないのでしょうか」

しかし質問は質問で返されてしまった。何故怪我が絶えないか。
仁王は首を傾けながら天井を仰ぐ。それはこの秋から冬にかけての短期間で、関係のあった異性を気がつけば全て清算してしまったからだ。
そうなってしまった理由は自分でも良く分からない。今まではテニスと上手く両立出来ていたのに、全国大会を終えて引退した途端、
使える時間も増えた筈がなんだかどんどん面倒臭くなって、彼女達の事がどうでも良くなってしまった。
自分のルーズさを知った上で続けていた関係が多かったから、切れる時には余り後腐れが無くほとんど自然消滅だった。
けれど今日みたいに逆襲に遭う事だってある。柳生はそんな自分を目にする度眉を曇らせ、
まるで自分が傷ついたように静かに怒り、そして落ち込むのだ。

 「許せなかったんだろ。俺の我儘が」
 「仁王くんの…?」

柳生が訝しげに問い返す。

 「つき合ってても興味無くなるとすぐ別れるから。そういうのが今回すげえ重なった」

だからこれはその代償、と銀色の尻尾を指で弄りながら、悪びれず仁王は云う。
自分の最低さを一番良く知っている男に話すのだから建前を用意する必要も無い。
それに今朝見た夢の後遺症も引きずっていたから、心の何処かで自分の本性を見せつけてやりたかったのかもしれなかった。
臆病で、嘘ばかりついて、興味を失われる前に自分から冷める。夢の中の柳生は見事にそんな自分の弱点を突いて抉った。

 「だからもう、誰もいない」

狼少年の末路はとても陰惨で、自分にふさわしいと仁王は思う。
保健医用の椅子に姿勢良く座って話を聞いていた柳生が、心持ち俯いていた顔をそっと上げて仁王を見つめる。

 「だからもう、お前だけだ」

レンズの奥の瞳はいつものように静かな闇を湛えていたけれど、仁王を捉えた瞬間生じる熱は変わらなかった。
それを見て、安堵する。その視線に縛られる事で、息が出来る。何かが壊れかけているのは自覚出来た。出来たけれど元には戻れなかった。
満足か?
そう続けて、それは自分自身にも跳ね返ってくる言葉なのだと仁王は気づく。
満足か。
自分の手で周りの全てを断ち切って、柳生の本心をまだ探ろうとして、変わらない態度に安堵して。
取り巻く世界が狭くなっても、それすら省みずに。

 「……余り、喋ると傷に障ります」

しかし明確な答えを避けた柳生は、ぽつりと静かにそう呟いて、
手当てをしたばかりの仁王の口許にゆっくりと指を這わせた。もうこれ以上、何も云わないで欲しい、と願うように。
これ以上、そんな言葉を聞いてしまえば翻された時の痛みが酷くなる。柳生にとって、仁王の言葉は毒だった。
目眩がする程甘いけれど、致死性のある強烈な。効き過ぎて動けなくなる前に、彼から少し遠ざかり、わざと距離を置く。
近づきたいけれど、近づけない。そんな葛藤を抱きながら、柳生は仁王の傍にいる。
二人しかいない放課後の保健室はとても静かで冷ややかで、しかしそれ以上に口許に触れる同級生の指は冷たくて、
仁王は言葉を止めたままじっと動けずにいた。不意に、夢の中で聴いたあのノイズ混じりの言葉を思い出す。
二文字のそれは、この手を伸ばせばすぐに掴めそうなのに、何故か今では最も遠く感じた。

 

 

□END□