その日は朝から雨が降っていた。
季節は初夏にさしかかろうとしているのに、衣替えを終えた夏服の、
袖から覗く腕に触れる空気は低温でひやひやと肌寒い。机上にだらしなく腰をかけた仁王は、
生成り色のくすんだカーテンの端にちらつく銀色の窓枠をぼんやりと眺め、そしてそのまま緩慢な動作で自分の足許に目を遣る。
新たに視界に入ってきた濃い茶色は、柳生の髪の毛だ。悪戯に指で引っ張ったりかき混ぜたりしたせいで、
艶のあるそれはいつもの型が失われぐしゃぐしゃに乱れている。脚の間に身体を捩じ込むように跪いた柳生は、
筋だった指で、熱く濡れた舌で、柔らかな唇で、熱心に仁王を愛撫している。
部活が休みで、する事も無いから空き教室へ柳生を連れ込んだ。
ここに来ると柳生は無表情で、しかし心得たように両膝を折る。
その従順な態度は仁王の支配欲を満たすと同時に、酷く神経を逆撫でした。
相反する感情は、彼と接すれば接する程大きくなった。
下肢にじわりと滲んでは拡がる、馴染みのある快さの混ざった浮遊感。
生真面目で勉強熱心なその性格を表すように、回数を重ねるたび、柳生の奉仕は上手くなっていった。
教えられればその通りの事を忠実にこなす。気まぐれに、どんな酷い事を命じても拒んだ事は一度も無かった。
否、拒むという考え自体この男の頭の中には無いのだろう。仁王が口の端を微かに歪め、疲れたように力無く笑う。
「…やぎゅう」
「……、っふ…」
名を呼ばれ、目線だけをこちらに寄越した柳生の顔は、熱で頬がほのかに上気している。
いつものレンズ越しでは無い、直接ぶつけてくる視線。眼鏡は仁王のシャツのポケットに無造作に差し込まれている。
外させたのは気まぐれで、特に意味は無かったけれど、いつもと違う表情があらわれて面白いな、と仁王は思った。
髪を乱した裸眼の柳生は別人のようで、なんだか露骨に獣じみている。
「…そろそろいきそう」
吐息だけで、囁くようにそう伝えると、柳生は視線をそっと伏せ、
躊躇いも無く舌の動きをより深くした。巧みだがどこかぎこちなくて、それなのに的確に刺激する。
ぞく、と一際強い快感が背筋をすり抜けたその瞬間、仁王は満足げに喉を反らし、は、と掠れた息を吐き出した。
空気が張り詰め、時が停止するような奇妙な錯覚。しかし今日は微かに耳をうつ雨音ですぐに現実へと戻される。
彼から顔を離し、白い顎に伝う唾液と体液を手の甲で拭い取った柳生は、仁王くん、と小さく名前を呼んだ。
「眼鏡、返して頂けますか」
けしてぶれない一定の声音。
どうすればそれを崩し、壊すことが出来るのだろう。
どれだけ汚せば、傷つければ。嫌気がさして離れていくのだろう。
熱の余韻を引き摺る仁王は彼を見下ろしながら、漠然とそんな事を思う。
教室を出ると、窓を打つ雨はこちらに来た時よりも格段に勢いが増していた。
うんざりする。仁王は傘が嫌いだ。余程の雨では無い限り、面倒なので傘を差さない。
単純に、傘を開いて差してまた閉じて、という一連の動作が面倒くさいというのもあったが、雨に濡れる事を特に苦に思わない質なのだ。
登校時は小降りだった為もちろん傘は持参などしていない。一方、晴れでも雨でも必ず折り畳み傘を携帯している男が、傍らに立つ柳生だった。
仁王にしてみればその徹底ぶりは病的ですらある。眼鏡を取り返し、乱れた前髪を指先で丁寧に整えながら、降ってきましたね、とそんな病的な男は呟く。
「仁王くん、傘は」
「持ってきてると思うか?」
「いえ」
愚問でした。柳生は淡々とそう返しながら廊下の端に立て掛けてあった自分の傘を手にする。
「使って下さい」
そうして、校舎の中に隠してあった靴をのろのろ引き出し片足立ちで器用に履いていた仁王に、それを差し出した。
「……」
じっとこちらを見つめる柳生はいつもの柳生で、
眼鏡の奥から覗くその両眸は先程の余韻などまるで存在しなかったかのように静かで、
生々しい熱は消え失せている。それが、なんとなく不快だった。
「私は教室にもう一本折り畳み式の予備がありますので。取りに戻ってから帰ります。仁王くんはこちらを使ってお帰り下さい」
「……はあ」
気の抜けた返事を聞いた柳生は、自分の行為が押しつけがましいとでも思ったのだろうか、
微かに逡巡した後、ご迷惑で、なければ。更にぽつりとそう付け加えた。
「別に、迷惑じゃねえけど。多分忘れて借りっぱになるかも」
仁王は、物の貸し借りが余り得意ではない。
身辺整理が致命的に上手く出来ない性質のせいなのか、物事に対する執着が希薄過ぎるのか、
誰に何を貸したか、そして自分が誰に何を借りたのか、すぐに分からなくなってしまう。
その為最近では、何かを貸すことはあっても、余程のことが無い限り他人に物を借りたりはしていなかった。
「構いませんよ。予備は沢山ありますから」
どうぞ使って下さい。と、柳生は仁王に傘を手渡す。
通用口に続く扉を開けた途端、ザアッ、と耳を激しくうつ雨音と、息苦しい程の湿気を含んだぬるい外気が一気に二人の身体に纏わる。
外はいつしか薄暗く、雨はかなり大降りになっていた。
手にした傘の結び紐を解き、押しボタンを探したが目当ての物は見つからなかった。
「…ああ、コレ一気に開かないやつか」
云いながら、仁王は柄の傍にある銀色の細い突起に親指を掛けて、そっと傘を開いた。
濃紺色のチェックのそれは、金属の擦れる音を微かにたてながら、花が咲くようにゆっくりとまるくなる。
「今時こーゆーのって、珍しいな」
仁王は最近ボタン式の傘しか見たことがないし、それ以外使ったこともない。だから単純に手動式の傘が物珍しくその目に映った。
「ジャンピング傘は持たない主義なんです。なんだか慎みがない気がして」
上体を軽く屈め、揃えた靴を履きながらさらりと答える柳生の言葉に、前を行く仁王は思わず固まり振り返る。
「つつしみ」
平坦な復唱に顔を上げると、不可思議な表情を浮かべた仁王がこちらを見ていた。
はい、と頷いた後、俯いていたせいでずれてしまった眼鏡を指先でそっと押し上げ元の定位置に戻しながら、柳生は静かな声で続けた。
「単なる主観です。好きではないんですよね、あのすぐに開く勢いのある動きが」
慎みがなくて嫌なのか。
柳生の奇妙な云い分を聞いた後、通用口を靴底を引き摺り渡りながら、前に向き直った仁王は傘の柄をくるりと回す。
つうか、獣みたいな目つきで云われるまましゃぶってくわえて奉仕する方が、慎みねえんじゃねえの?
そう思ったが、結局口には出さなかった。
云ったところでどうせぞっとするような返答しか戻ってこないような気がしたからだ。
本当に、柳生という男は意味が分からない。理解し難過ぎる。別に、理解しようとも思ってはいないのだけれど。
「それでは仁王くん、さようなら。お気をつけて」
背後で柳生の声がする。このまま校舎に戻って傘を取りに行くのだろう。
闇の色が濃く、既に鍵が掛けられているかもしれない人気の無い校舎に。早く行け。
そう思って止まないのに、この理解出来ない男から離れたくて仕方がないのに。踵を引き摺る鈍い歩みはそのまま停止した。
雨音。
「仁王くん…?」
ずっと止まない。
再び背中に声があたる。今度は少し、弱々しかった。
振り返れば柳生がいる。慎みなんて欠片も無い、自分の為なら獣にでもなる柳生。
またあの瞳で見つめられるに決まっている。それなのに。
「入ってけば」
どういう訳か、後ろを向いてしまった。
薄暗い通用口。そこに柳生は何故だか頼りなげに立っていて、眼鏡には細やかな水滴が所々に散らばって、
なんだか間が抜けて見えたけれど、そんな男を誘う自分も相当間抜けだな、と仁王は思った。
□END□