図書室の棚の、奥から2番目。
幾年もの時間を重ねた頁たちの、くすんだ匂いのするそこには、
柳生の好む種類の書籍がひっそりと並んでいる。という事を仁王が知ったのは、つい最近だった。
放課後の図書室はがらんとひとけが少なくて、それは先日ようやく定期考査が終了したという影響もあるのかもしれなかったが、
本日の利用者は、読書愛好家、課題を片付ける為に寄った者、時間潰しと称して密やかなお喋りに勤しむ女子達、勤勉な優等生、
そしてそんな優等生に気まぐれでついてきた自分のような物好き、で大方構成されているようだった。
柳生は既に入り組んだ奥の書棚へ次なる目当ての本を探しに行ってしまっている。
一人フロアに残された仁王は、今月のおすすめ本と銘打たれたコーナーを軽くひやかしながら彼の後を追うべくぶらぶらと進んだ。
部活が始まるまであと30分。その時間を有効に活用する為柳生は頻繁にここを訪れる。
対する仁王は別段深い理由も無く、ただそのまま部室に直行する気分でも無かったので今日はダブルスパートナーについて来ただけだった。

折角ですし、仁王くんも何か借りていってはいかがですか?
入室後、広い吹き抜けのフロアに立ち寄り、
図書カードを新しいものに更新しながら柳生は微笑みそう云ったが、
彼自身、自分がついてきた事に特に理由が無いのだと分かっているのだろう、
それ以上無理に勧める事無く、では私は奥の棚にいますから。と軽く手を挙げ行ってしまった。
おすすめコーナーにあった、一際目を惹く色彩で塗られた表紙の本をいたずらにぺらぺらと捲った後、
元の場所に置いて再び仁王は再び歩き出す。奥から2番目。そこは海外文学が収められている場所だった。
著名なものから少し専門的なものまで、学校図書の水準を軽く超える程、ここには数多くの海外作品が集まっているらしい。
県や市の図書館でもなかなか見つからない書物もこちらにあったりするので、とても重宝しています。と以前柳生が話していた事があった。
しかしその棚に立ち寄るのは柳生くらいのものらしく、仁王は一度としてあの奥の書棚に他の生徒が立っている姿を見かけた事が無かった。
絨毯敷きの柔らかな床をのんびり歩いていると、におーくん、と小さな声が斜め前方辺りで自分の名前を呼んだ。これは、柳生ではない。
声が聴こえた方向をぐるりと見回すと、自習机を利用している同じクラスの女子生徒二人組が、薄いベージュのブース越しに手を振っていた。
わりと仲の良い二人だったからブースに立ち寄り少しだけとりとめの無い会話に参加をしたら、
別れ際、そのうちの一人から白く四角いちいさな包みをふたつ貰った。
それを制服のポケットに忍ばせて、壁時計を見るともう15分を過ぎていて、気持ち足早に目的地まで進む。
さわさわとした人の気配が徐々に途切れ、書棚と書棚に挟まれたそこにはやはり柳生一人の姿しか見当たらず、
彼は手にした分厚く古めかしい本にじっくりと視線を落としており、こちらの気配には気づいていないようだった。
ごく微かに空気調節機の音がするだけで、夥しい本と静寂に四方を囲まれた薄暗い場所。ここは時間の流れが変な気がする。
仁王はどこか非現実的で不思議なその雰囲気を肌で感じながら、ようやく柳生の傍にたどり着いた。

 「まだ決まらんの?」
 「ええ、もう少し」

吐息だけでひそ、と応えながら、しかし柳生は手元の本から目を離さない。
ふうん。姿勢の良い柳生の背中が視界に入るように、彼の斜め後ろの書棚に軽く背を凭せかけ、
制服のポケットから先程女子から貰った包みをひとつ取り出し、仁王は表面をくるんでいた柔らかな紙を剥ぎ取ると、
そこから姿を現した琥珀色のちいさなキューブをぽいと口の中へ放り込んだ。途端、舌から口腔へ懐かしい甘さが拡がる。
すると、先程からずっと微動だにしなかった柳生のすっきりとした襟足が、視界の隅で微かに身じろぎをした。ように見えた。

 「…仁王くん、図書室は飲食禁止です」

その咎めるような囁きを聴きながら、口の中で柔らかくなったそれに、仁王はそっと弱く歯を立てる。
さすが風紀委員。目敏い。ではなくこの場合、鼻が利く、という方が正確か。

 「どうせバレやせん」

カチャ、と繊細な金属音が耳に触れた。柳生が眼鏡を押し上げる音だ。

 「バレるかバレないかの問題ではありません。モラルの問題です」

柳生の襟足は彼らしく至極真っ当な言葉を吐息だけで紡いでいくが、
そんな事などまったく気にしない仁王は背をゆっくりと書棚から離すと、歩みを進めて柳生の真横に立った。
手の中にはもうひとつ、ポケットから取り出した、開封していないちいさな包みが軽く握られている。

 「ほい、キャラメル。うちのクラスの女子から」

柳生くんにもあげてね、と先程別れ際に貰った残りを伝言通り差し出すと、
手元の本から視線を外した柳生がようやく仁王の顔を見た。お、と仁王が僅かに眉を跳ね上げる。なんかめちゃめちゃ怒っとる。

 「お気持ちだけ頂いておきます。が、もう少し声のトーンは落とした方がいい。ここまで…」

ここまで、聴こえていましたよ。
云い終わると、すう、と再び柳生の視線は手元の本へ戻っていく。
しかし仁王は知っている。一瞬だけこちらの目を見た時、レンズの奥から覗いた険しい表情。
上手く感情をオブラートで包んでいたが、「それ」を見破れない程仁王は彼と短いつき合いでは無い。

 「柳生」

名を呼ぶ。もう一度、その顔が見たくて。

 「怒っとる?」

肩に手を置く。制服越し、柳生が僅かに身構える、そんな気配が掌から伝わる。

 「怒っていません」

嘘つき。
手を置いたままもう一歩だけ彼の方へ遠慮なく踏み込んで、至近距離を作った。
周りを本で囲まれた空間。ここまで近づいてしまえば、柳生はもう、逃げられない。
対する柳生は頑なに仁王と顔を合わせないよう顔を僅かに背けていたが、しばらくして、
ようやく観念したのか手にした本をパタンと静かに閉じると、彼はゆっくり書棚に背を預けた。

 「じゃあ妬いとる」

彼女たちと交わした会話は、自分の声は、ここまで聴こえていたという。
不快だった?嫌だった?俺のことしか考えられなかった?
その言葉に、仁王の方へと眼差しを向けた柳生は、かたい表情のまま即座に否定する。

 「妬いてません」

嘘つき。仁王が喉奥でちいさく笑う。
品行方正で清廉潔白。善良さを好み、それを遵守する彼は、己の内から湧き出る醜く汚い感情をどうしても認められない。
善と悪。そのどちらか一方しか持っていない人間なんて、存在しないというのに。この優等生は、そんな事すら理解らない。
理解らないから自分の感情を持て余し、葛藤し、そして苦しむ。それは彼にとって深刻で、なのに仁王の云う事には耳を貸さない。
けれど仁王は、そんな厄介で複雑なこの男の事が好きでたまらなかった。
もっと、醜い感情を引き出したくなる。もっと、汚い言葉を吐かせてやりたくなる。
その綺麗な顔から、唇から。

 「…仁王くん、いい加減離して下さい。ここは図書室です」

その不都合な会話から逃れるように、形の良い眉をひそめ、柳生が静かに訴える。
端正な貌が神経質そうに歪む、その表情を見ると、嬉しくて背中がぞくぞくした。
室内には疎らながらにも未だ生徒が残っているから、気が気では無いのだろう。
しかし仁王は更に距離を縮めて、引き結ばれた彼の薄い唇に口づける。

 「……ッ」

いつ誰が来るか知れない公共の場で、こんな非常識な事。
絶対に嫌だと本当は知っている。拒絶するように胸の辺りで突っ張る掌の強さがそれを物語っている。
けれど仁王は構わず口づけを深くする。同時にビク、と抱き締めた身体がちいさく強張る気配を触れ合った身体で感じる。
二人分の唾液と、吐息。舌先で転がしていたキャラメルは熱で蕩け、既に形は失われていたけれど、残った甘さは消えなかった。
柳生もこの快い甘さを味わっているのだろうか。仁王はそんな事を考えながら、邪魔な彼の眼鏡を外した。

 

 

□END□