あれから一体何本の電車が行き過ぎていったのだろう。
いつもと変わらない雑然とした夜のプラットホーム。喧騒から逃れるように一番端のベンチに座る仁王は、
時間通り次の目的地へと出発した緑と橙のラインで縁取られた電車の後部を見送った後、視線を隣の男にそっと戻した。
ベンチを分け合い隣に座る柳生は、端まで濡れたハンカチを片手でぎゅうと握りしめ、
俯いたままこみあげる嗚咽を押し殺すように、小さく密やかに肩を震わせていた。



仁王は、柳生が泣いている姿を一度として見たことが無かった。
中学に入り、テニス部に所属し、レギュラーになり、ダブルスを組んで。
柳生とは、他の部活仲間達と同様に一年の春から今までずっと多くの時間を共に過ごしてきたけれど、
試合で負けた時も、容赦無い制裁を受けた時も、早い時期からのレギュラー入りという快挙に、
上級生や他の部員達による理不尽な妬みで傷つけられた時も、けして涙を見せたことは無かった。
今日、全国大会が終わり、常勝無敗という掟を守りきれなかった自分達は、学校に戻った後部室で軽いミーティングを開いた。
試合の反省と、最後の制裁。青学の不二に負けた仁王も例外ではなく部員たちから平手を喰らった。
真田も赤也もジャッカルも馬鹿みたいに泣いた。窓から差し込む夕陽を背に、幸村と蓮二の小刻みに震える後ろ姿を、仁王は頬の痛みと共に見た。
柳生は、号泣組を慰めたり、部長と参謀を労ったりとその持ち前の紳士的精神を惜しみなく発揮していたと思う。
慰労会や部の諸雑事は後日ということになり、解散したのはもう太陽もとっぷりと暮れかけ微かに星がまたたき始めた頃だった。
柳生はいつも最寄りの駅の北口から出ているバスで 家路に着く。仁王も彼と同じ駅から藤沢方面へと抜ける電車に乗車する為、
二人は自然に学校から駅までの約15分程の道のりを歩くことになる。
性格も価値観も何もかもが自分と大幅に異なる柳生との会話は、練習後の疲労も相俟っていつも正直面白味に欠けるものだったけれど、
仁王のペースを理解し何を望んでいるのかを的確に読み取り自然に合わせてくれる柳生と居るのは、自分でも驚く程に楽だった。
もう、しばらくは使うことも無いのだろうテニスバッグを背負って歩く足取りは互いにいつもより重かったが、
ようやく駅の光が見え始めた頃、仁王くん。とぽつりと小さく名前を呼ばれ、緩慢な動きで声のした方を向く。

 「今日は、私も電車で帰ることにします」

柳生の自宅はどちらの交通機関を使っても所要時間にさほど変わりは無かった。
しかし乗車する時間帯によっては電車の方が早いのだと、以前聞いたことを思い出した。
顔を見る。同じようにこちらを見返してきた柳生の表情はいつもと変わらず穏やかだったけれど、眼鏡の奥にある瞳は若干疲労の色が滲んでいるようにも見えた。

 「わかった」

いつもは駅舎の前で別れるが、同じように改札口を抜けてホームへと向かう。
人工的な青白さを放つホームには、ラッシュの時間帯と少しずれたのが幸いして人の流れも比較的緩やかだった。
仁王はいつもの癖で人を避けるように端に備え付けられているベンチへと歩みを進める。テニスバッグと腰を降ろしてようやく柳生の存在に気がついたが、
見ると柳生も何も云わず、隣で同じように腰を掛け、鞄を両膝の上に乗せているところだった。

 「ここまで来ると人も大分減りますね」
 「あー……うん」

興味深そうに周囲を見回しそう口にする柳生に対し、仁王はどこか奇妙な居心地の悪さを感じる。
迂闊に自分の領域内に彼を入れてしまった、僅かな違和感。しかしそんな気持ちもすぐにやって来る電車の轟音にかき消されてしまう。

 「仁王くん」
 「んー」

隣に座る柳生を見ずに、仁王は俯き携帯電話を開いた。

 「今日は本当に、お疲れさまでした」

数件来ていたメールを確認だけして返信はせず、そのままメニューボタンに移動し、ネットに接続する。
電車の到着を知らせるアナウンスがやけに大きく響き渡っている。

 「あなたは嫌がるかもしれませんが、あの試合、私はとても素晴らしかったと思います」

嫌がると分かっているなら云うな、と返したかったが、何故か口は動かない。身体のどこもかしこも、なにもかもが全て、泥のように重い。
各々の試合については先程のミーティングで散々話し合った筈だし、そもそも自分の試合についてはあの時コートに立った自分が一番良く理解っているのだ。
しかし、構わず柳生は自身の見解をやや熱い口調で語り始めている。決勝戦の余韻が残っているのだろうか。
いつもより饒舌に喋る柳生は、まるでお互いの間に再び沈黙が訪れるのを恐れているかのような、そんな必死さがあった。

 「…そこでポーチに出たのは流石でしたね。手塚くんや白石くんの技術だけでなく、仁王くん自身の動きを取り入れることによって…」
 「柳生」

耐えられず、厭うように視線を携帯から柳生へと移した。
話を途中で遮られた柳生は微かに驚いた表情をしている。自分の力を認めてくれていることは分かるし、
チームメイトとして純粋に嬉しくもあるが、今はそれを受け入れる気持ちの余裕が自分の中に全く無かった。

 「もうええ」
 「仁王くん…」

この男はきっと混じりけの無い善意で作られている。
今回の決勝戦、ずっとベンチで皆の試合を見てきた柳生は、
ミーティングでも一際冷静に意見を述べていたが必ず最後に温かなフォローを用意していた。
いつだって、誰にだって優しい。彼のそれは、人としてまぎれもない美徳のひとつなのだろう。
けれど、その善意が全ての人にとってプラスに働くのかといえば、それは違うと思う。特に、今の自分にとっては。

 「もう、終わったことじゃ」

引き結ばれた唇。眼鏡の奥で瞬きもせずじっとこちらに向けられた瞳と視線を合わせたくなくて、逃げるように顔を背けた。
直後、アナウンスと同時にちょうど藤沢行きの電車のライトがホームを眩しく照らす。携帯をジャージのポケットに仕舞い、仁王はベンチからゆっくりと腰を上げた。
電車が停止し、重たげな音をたてながら扉が左右に開く。脇に置いてあったテニスバッグを右肩に担ぎ上げると、ほんじゃあ、おつかれさん。と背中越しに声を掛けた。
瞬間。ぐ、と左手首が何かに掴まれた。その余りの強さに仁王の身体の重心が後方へと崩れかけ、咄嗟に首を捻って背後を振り返る。
自分の手首を掴む、強くて、氷のように冷たい何かは、柳生の右手だった。

 「…?」

未だベンチに座っている柳生は、右腕だけを伸ばして自分を引き留めていた。
俯いた顔は表情が全く分からないし、いつも綺麗な直線を描く背中が、今はひどく丸まっている。

 「柳生?」

さすがに様子がおかしいので名前を呼ぶ。
それに対する返事は無かったが、代わりに手首を掴む力が更に強くなった。
痛みに思わず目を眇めたが、よく見ると、彼の手も、腕も、身体も小さく震えている。

 「………」

柳生の、両膝に置かれた鞄の上に、ぽたぽたと滴が落ちては吸い込まれ、布地の色を濃く変えていく。
それが目に入った瞬間、心臓が強く打った。柳生は、泣いていた。吐息を乱し、嗚咽を押し殺しながら。
様々な音が反響し混ざり合うホーム内で、けれど掠れた柳生の言葉は仁王の耳に驚く程鮮明に入ってきた。

すみません。
もうすこしだけ。

手首から伝わるのは、悔しさ、痛み、試合に出られなかった歯がゆさ、そして苦しみ。様々な感情。
これはただの予想でしかなかったけれど、決勝戦で試合をした自分達にしか理解らない想いがあるように、
誰よりも試合を間近で見てきた柳生にも、自分達には理解らない想いを、きっと内に秘めていたのだろう。
扉が閉まり、電車はゆるゆると速度を上げ駅を出ていく。仁王はホームに立ち尽くしたまま、震える柳生のつむじを眺めていた。



柳生が普通に喋れるようになるまで、20分は要したと思う。
その間に、彼は自身のハンカチ2枚を端まで濡らしていた。

 「…すみません」

ずれた眼鏡を押し上げながら、ようやく落ち着いた彼が涙声で口にしたのは、謝罪の言葉だった。
何に対しての謝罪なのか分からなかった仁王は、鞄に突っ込んであった飲みかけの水を探しながら、ぞんざいに答える。

 「いや、別に謝らんでええし、…つうか、謝らんといかんのはふつー俺の方じゃろ」

勝てなくて。掛けた王手をみすみす逃して。挙げ句柳生を盛大に泣かせて。
一番重要な場面で勝利出来なければ、自分がオーダーに組み込まれた意味など無いというのに。
探しあてたペットボトルを鞄から取り出すと、ほい、と隣の男に手渡した。ちゃぽん、と振動で音が鳴る。
まだ半分以上残っているから涙で流した水分量を補うには充分だろう。

 「そんなことはありません!仁王くんは…」
 「もうええて。お前さんのそれは逆に落ち込む」

風でほつれた前髪もそのままに、きつく眉根を寄せ、涙で赤くなった瞳で柳生がこちらを見ている。
潤んで、揺れて、何か不用意なことを云えばまたすぐ泣き出してしまいそうで、仁王は慎重に言葉を選ぶ。

 「単純に、負けた俺が悪いんじゃ」
 「違います」
 「…柳生ー」

この男は話を聞いてなかったのか。否、聞く気がないのか。
脱力しながら、けれど彼の頑固さは身に染みて良く知っていたので、
何を云っても無駄かと思い、仁王は半ば諦めの境地で彼の名を呼ぶだけに留める。

 「それは絶対に、違います」

きっぱりとそう断言した後、鼻を啜り、頂きます。と柳生はペットボトルの水を口に含んだ。
喉が渇いていたのだろう。半分程あった水はすぐに彼の体内へ入っていった。一息ついて、居住まいを正しこちらに向き直る。

 「仁王くんは悪くありません」
 「S2で負けたのに?」
 「はい」
 「そのわりにはお前さんの平手はかなり効いたが」

左頬を撫でながらふざけてそう云ってやると、柳生は途端にひどく申し訳なさそうな顔になってしまったので、
冗談。と付け加えた。とはいえ、結構な痛みだったことに間違いはないのだが。

 「まぁ、悪く悪くないは別として、負けたんは事実じゃき、俺の力不足。それは反省する」

珍しく殊勝なことを口にしてしまうのは、積み重なっていた身体の疲労と、
今まで背負ってきた常勝という重圧からようやく解放されたという安堵感と、
そしてなにより、隣に座る男が零した涙のせいかもしれなかった。
一度として目にしたことのなかったそれは、思った以上に自分の気持ちを大きくぐらつかせたようだ。
その言葉を聞いた柳生は再び何かを云いかけようとしたが、先程云われたことを思い出したのだろうか、
結局、開きかけた口を閉じて沈黙してしまう。
温い風と共に鼻をくすぐる夏の匂い。むせかえるようなそれは、駅という人工建造物の中にいても変わらない。

 「仁王くん。それでは、これだけ云わせて下さい」

鼻にこもった涙声。
今までの沈黙は、自分の考えをまとめていたのだろうか。
どこか頼りなく聴き慣れないそれは、けれど何故だか耳に優しかった。

 「私は、立海大附属中で皆さんとテニスを通じ出会えたことを、とても誇りに思います」

掌で大事そうに包み込んだ空のペットボトルに視線を落とし、柳生は、静かに呟いた。
横顔からでも、レンズから覗く瞼の縁の赤みが分かる。

 「そして、あなたと目標を同じくしたこと、一緒に試合が出来たことを、とても嬉しく思います」

目の前のホームに、電車が滑り込んでくる。舞いあがる温い風。空気を揺るがす轟音。
それすらもう聴こえない。仁王は無意識に自身の掌を握る。かたく冷たい拳を作る。

 「今まで、本当にどうもありがとうございました」

何故、バスではなく電車を利用すると云ったのか。
何故、乗車しようとした自分を強く引き留めたのか。
何故、今まで見せたことのない涙をあらわにしたのか。
仁王はその理由が、今になってようやく理解った気がした。

喉の奥が熱くなる。せり上がってくる感情を必死で飲み込む。これは、反則だ。
隣に座る柳生は、それ以上はもう何も云わなかったけれど、先に電車に乗る気配もなかった。
おそらく自分が帰ると云うまで、傍にいるつもりなのだろう。先ほど自分がそうしたように。
次第に乗客が増え始めたプラットホームで、二人並んで電車を見送る。
未だけだるい暑さの残る夜の中で、自分たちの夏が終わったことを感じながら。

 

 

□END□