疎まれる事には、慣れている。
自分は唯、自分の為に強くなろうとしているだけなのに、
それが気に入らない人物が大勢居る事に、初めは少し戸惑った。
年下なのに、一年なのに自分よりも強い。だから気に入らない。生意気だ。と。
入部当初に受けた賞賛が妬みから敵意へと変わっていくのに、さして時間はかからなかった。
強くなりたいと努力する事に、誰にも迷惑はかけていないと思っていたのだが、実際そう簡単にはいかないらしい。
先輩とはいえ彼等が自分よりも実力的に劣っているであろう事は事実だし、
だからといって試合で手を抜き負けたとしても、それは相手にも失礼だ。根本的に間違っていると思うからやらなかった。
その姿勢を崩さずにいたら、また生意気だと非難される。
結局自分が何を云っても、何をやっても彼等が満足する事はないのだろう。
いつしかそう悟って、そして全てを諦めた。
聞こえるように悪口をぶつけられても、薄暗がりで殴られても、それは今の自分には仕方の無い事だと。
不当な扱いを受けても、青学でテニスが出来るならそれでいいと、そう思っていた。
けれど、
そんな毎日に、
少しだけ、疲れている。
「手塚君、ちょっといいですか?」
コート内の揉め事は問答無用で部員達の連帯責任という判断を下し、
グラウンド100周を云い渡した後、部長の大和が、手の甲で汗を拭い再び走り出そうとしている手塚を引き留めた。
「…?」
「少し僕につき合って下さい」
迷う暇も無く右腕を軽く捕まれ、さあ行きましょうと歩き出す。
物腰の柔らかい飄々とした人物だったが、こういう時は有無を云わせない強さがある。
顔を上げた手塚は少しだけ躊躇したものの、部長命令に背く事は出来ず、黙って後について行った。
しっかりと握られた手首が、暖かい。
連れられた先は保健室。入学してから一度も足を踏み入れた事の無かったそこを、
物珍しさも手伝って見回していると、先に部屋に入った大和がさっさと保健医の座る椅子に腰掛ける。
どうやら教師は不在らしい。
「さ、キミも座って下さい」
ちょいちょい、と手招きして笑う。
穏やかな笑顔は、その不思議な丸眼鏡で良く見えないけれど、
手塚の身体に蔓延っている緊張感を消し去るには充分な効力を持っていた。
おずおずと、大和が座っている正面の、丸椅子に腰を落とす。
「ちょっと失礼しますね」
穏やかにそう云って、大和は前に座る手塚の左肘にそっと覆うように手をかけた。
「…っ、」
瞬間、痛そうな表情で顔をしかめたが、唇を噛んでなんとか耐える。その反応を、大和は見逃さない。
体操服の袖を軽くめくると、先程武居にラケットを振り降ろされた部分が紫に変色し、腫れ上がっている。
「…これは酷い」
独りごちるように呟いて、大和は傍に備え付けてある戸棚を開けると、
湿布が入っている箱から一枚取り出し、手慣れた様子で患部にそれを貼りつけていった。
「…、っ…ぃ」
唐突に襲うひやりとした冷たさに、思わず身体が竦んでしまう。
あの後ランニングをして熱を持った所為で、左肘がじんじんと鈍い痛みを訴え始めていたのだ。
「すみません。こんな怪我をしていたのに、すぐに気づく事が出来なかった。僕の責任です」
ずり落ちないようサージカルテープで湿布を留めながら、ゆっくりと頭を下げた。
そんな部長の様子に驚いて、手塚が慌てて首を横に振る。
「部長の所為じゃありません。俺の責任です」
「キミは悪くありませんよ」
そっと、処置の済んだ左肘に手を置いて、大和は狼狽している小さな一年生を眼鏡の奥から見つめた。
コートの中ではあんなにも堂々と、そして不遜ともいえる態度でラケットを握っている彼が、今はこんなにも頼りなく小さい。
そのギャップに、少しだけ微笑ましさを覚える。そして大和は目の前の少年を視線に捉えたまま、しばらくの間思案した後。
それを行動に移した。
「…ちょっと失礼」
「え?」
手塚が聞き返すよりも早く、大和の腕が彼の体操服をぐいっとたくし上げる。
「!」
胸の上まで露わになる白い肌。
触れるか触れないかの距離で指を這わされて、呼吸する事を忘れてしまった。
そこには色褪せた痣や最近つけられたのだろう青い痣が、胸や腹の四方に散らばっている。
確認するようにじっとその痣をなぞりながら、大和は沈痛な面もちでゆっくりと口を開いた。
「…うちの部員ですね」
「……」
「手塚君」
名を呼ばれると、何故か身体が震えてしまう。
怒られるのだろうか。怒られるかもしれない。
「先程も云いましたが、僕は部長としてたいした事も出来ません」
「………」
「けれどキミにこんな思いをさせない事くらいは、出来ます」
何故この人は。
こんな哀しい表情をするのだろう。
眼鏡越しに大和の顔をそっと窺いながら、手塚は再び、困惑した。
これは、この傷は確かに一部の先輩達によるものだが、こうなったのは自分にも責任があるからだ。
理不尽な暴力と怒る時間があるのなら、その分テニスがしたい。
自分はテニスが出来ればいいから。他には何もいらないから。
だから、純粋に不思議だった。
『キミには青学の柱になってもらいます』
突然あんな事を云われて。
そして困った。
「…、」
こんな事を云われるのは生まれて初めてで。どうすればいいか、本当に理解らなくて。
「だからもっと頼って下さい。甘えて下さい」
するりと体操服を直して、大和は手塚を見つめている。
穏やかな低い声。聴いているととても安心する声だと思う。自然に耳が傾いてしまう。
「僕には、青学にはキミが必要なんです」
真っ直ぐな声。
胸の奥がじわりと。
熱くなるのを感じた。
どう返したらいいか理解らなくて、黙ったままで俯いている手塚に、
大和は肩からかけていた自分のジャージをそっとその小さな身体にかけてやる。
サイズの大きなレギュラージャージは、すっぽりと彼の未だ成長課程の身体を覆ってしまった。
「一緒に全国行きましょう、手塚君」
今はまだこうしてユニフォームに着られているけれど、いつか似合う日が来るのだろう。
そしてそれは、そう遠くない未来だと。
大和はそう確信して、目の前で俯いたままの手塚を、優しく見つめる。
けれど少年の、膝の上に乗っている両の拳は、強く握り過ぎて白くなっていくばかりだった。
「…俺、は」
ずっと独りだと思っていて。
クラスメイトやチームメイトからも、少しだけ距離を置かれていて。
それは自分の性格に問題があるからだろうと、
変なところで冷めている頭でそう結論づけて日々を過ごしていた。勿論改善する努力を怠る事無く。
けれどそんな毎日に、本当は疲れていて。
誰かに必要とされる事を、本当は望んでいて。
切実に、望んで。
「泣いてるんですか、手塚君?」
「…泣いていません」
気づけば長い指が頬に触れていた。無精髭のある、中学生にしては老成している顔がぐんと近くなった。
「良ければ胸を貸しますよ」
「これは水です。涙じゃない」
「おや、そうですか。それは失礼しました」
俯いたまま、大和の首に腕を廻す。
曲げる時に左肘が僅かに痛んだが、無視してかじりついた。
まるで縋るような自分の行為。それに応えるように薄い背中に触れる、大きな掌。
何度も、何度も撫でられると何故だか堪らなくて、自分でも理解不明の感情が喉の奥からせり上がってくる。
自分は泣く程弱くない。テニスが出来れば、独りでも平気だと、そう思っていたのに。
大和の広い肩口に、手塚の眼鏡があたって小さな音を立てる。冷たいフレームが頬に触れ、瞳を閉じた。
全てが崩れていく。
今まで自分が必死に築き上げてきた表面武装の仮面が、彼の手を取った事によって。
彼の言葉に搦め取られて。こんなにも簡単に。
全てが。
変わる。
「僕は本当に、何も出来ない部長ですけど」
耳朶に髭があたってくすぐったかった。
けれど大和も、自分の嗚咽混じりの吐息があたっているからお互い様なのだろう。
青学の柱に。
青学を全国に。
それが彼の望みなら。
「キミをこうして、抱き締めてあげる事は出来ますから」
その望みを叶える為に、自分はここに居てもいいのかもしれない。
独りではないのかも、しれない。
□END□