1時間目に見掛けた向日先輩は、とても勇ましく、溌剌としていた。
放課後部室で出会った向日先輩は、別人かと見紛う程憔悴していた。
何が彼をここまで一喜一憂させたのか?原因は何と無く、漠然と思い当たる。気がする。
本日は氷帝学園中等部3学年全員の健康診断が行われたからだ。
学校の規模も生徒数も半端ではない氷帝学園は、4月の初めに3日間に渡って学年別に健康診断を行う。
一昨日は1年生、昨日は2年生で、自分も例外無く受けてきた。
体操服を着てゾロゾロと指定された教室へ赴く姿はまるで囚人のようだなどと冷めた事を考えながら、
それでもやはり昨年よりも身長が伸びていれば嬉しいし、体格も良くなっていれば、悪い気はしない。
ただでさえこの時期の自分達は成長期真っ只中であるから、その発達が顕著に数字になって表れる。中学男子ならば当たり前の事だ。
…目の前でどす黒い暗雲を背負っている小さな先輩を除いては。
「…先輩、もう部活始まってますよ」
委員会の顔合わせがある為遅れると事前に新部長の跡部に伝えておいた自分はともかく、この人はここで一体何をしているのだろうか。
ふと、微弱な気配を感じて視線を脇に流せば長ベンチに芥川が生き倒れの如く爆睡している。
「日吉ぃ…」
地を這うような、その上湿っぽい声で名を呼ばれ、無表情ではあるが心中恐る恐る振り返った。
不穏な雰囲気を漂わせる岳人は身体を自分の名前が貼り付けてあるロッカーに向けたまま、
細い首を僅かに捻って顔だけをこちらに向けている。
思い切り顰められた眉。心持ち吊り上がった大きな瞳。険しい表情を浮かべたまま、彼は重たそうに口を開く。
「お前身長どんくらい伸びた」
きた。
一番避けたかった話題が、当の本人からぶつけられてしまった。
「…昨日の測定で172センチでしたから、去年からだと10センチ程伸びましたが」
とはいえ訊かれたので答えたのだが、それを聴いた岳人の表情が焦燥から愕然へとみるみる変化していった。
「172!」
「はい」
「10センチ!!」
「そうですが」
いちいち数字を復唱するところに何か執念のようなものを感じる。
「10センチ〜!」
もう一度そう叫んだ岳人は部室の天井を仰いだ格好でズルズルと力無くその場にしゃがみ込んだ。
「ちょ…先輩?」
この1年で彼の奇行に大分耐性がついた筈なのだが、更にあっさりと自分の理解の範疇を軽く飛び越えてくる為、
どう対応すれば良いか分からない。というか正直非常に迷惑極まりない。部活に遅れて叱責を食らうのは御免である。
しかし床と同化してしまいそうな程落ち込んでいる先輩を放ってもおけない。
そう、彼はこう見えても「先輩」なのだ。目上の者なのだ。無下には出来ない。
さてどうすべきかと今後の対策を猛スピードで練っていると、地の底が見えそうな程項垂れたおかっぱ頭から弱々しい声が聴こえてきた。
「……俺、絶対伸びてると思ったんだ」
「…はぁ」
「マジ、10センチは軽いと思ってたんだ。なのに今日測ったら…」
トツトツと喋る岳人の瞳は床の一点を睨みつけたまま固定されている。結構怖い。
「158センチ、て云われてな」
158センチ。
衝撃の事実に二の句が告げられなかった。小さい人だと常々(心の中で)思ってはいたが実際数字で聞かされると印象が違ってくる。
「何がスゲーって去年から1センチしか伸びてなくてな」
「い…、っセンチ、ですか」
「絶対何かの間違いだっつって、もう一回測らせてもらっても…やっぱ158センチなんだ」
「…」
適当な相槌も適切なフォローも入れられずただその場に阿呆のように立ち尽くしている自分の正面、
座り込んでいる先輩は、床にぺたりと置いていた掌にぎゅう、と力を込めていく。徐々に白くなる指先。
「侑士はまだまだこれから伸びるって云ってくれたけど…けど、1センチだぜ?!」
もうダメだ!俺お婿に行けねー!!
頭を抱えた岳人が叫ぶ。そんな彼を見て自分の方が真剣に頭を抱えたくなった。
別に。
身長なんて、気にするものでは無い、と思うのだが。
(…違うのだろうか)
「…あの」
というか部活に出てもいいですか。
しかし言葉は最後まで吐き出される事無く、ガバリと勢い良く顔を上げた岳人に取って代わられる。
「日吉はズルい」
「…は」
ジロリ。大きな瞳で力一杯睨まれると、結構威圧感があるのだな、と頭の隅で不謹慎な事を思った。
「二年のクセに170とか越してて、ズルい!」
「…はぁ」
今度は理不尽な怒りの的にされてしまったらしい。それを云えば樺地や鳳などはどうするのだ。やはりズルいという事になるのか。
淡々とそんな事を考えてみるがしかし、現時点でこの状況をどう切り抜ければいいのか全く解らず、結局次の言葉を待った。
「女子に見下ろされる気持ちなんてお前には分かんねーだろ!『岳人くん可愛い〜』って、俺はマスコットかなんかかよ!」
余程腹に据えかねているらしく、彼の攻撃は他の人々にも飛び火していく。
云ってる事は熾烈極まりないが、しかしこうして床に座り込んできゃんきゃんと吠える光景は…まあ「可愛い」とも云えなくもない…のか?
(無論、小動物を愛でる類の可愛らしさではあるが)
そう思っている自分に数秒遅れで気が付いて、愕然と我に返った。
いけない。
掌中にはまっている。
「…向日先輩」
「んだよ」
ギロリ。更に鋭い眼孔が上方めがけて突き刺さった。
「云いたい事はそれだけですか?」
「…」
臆する事無く視線を下に向ければ、その大きな瞳は少しだけバツの悪そうな表情を宿していく。
「なら俺、部活行くんで失礼します」
テニスバッグを左肩に抱え直して、簡潔にそれだけ告げた。事前にジャージに着替えておいて良かったと心底思う。
無言で座り込んでいる岳人の横を通り過ぎて、自分のロッカーにバッグを押し入れ、中からラケットを取り出す。
手に馴染むそれを握った後、振り返り、小さく丸まった背中に声を掛けた。
「先輩」
「…んだよ」
こちらを見ないままのふてくされた返事に溜め息をひとつ吐き、スタスタと彼の正面に移動した。
背後からはすうすうと芥川の平和な寝息が聴こえてくる。
僅かに驚いた顔をした向日だが、すぐに機嫌の悪そうな表情に変化し、そのまま無言でそっぽを向いてしまう。
まるで拗ねた子どものように体育座りで床に佇む、そんな彼の目の前に、自分も同じようにして座った。
「こうすりゃ同じ目線」
じ、とその瞳を見据えて。
半開きになっている小さな口許がちょっとお馬鹿っぽいな、などと思ったりして。
「身長なんて関係無くなります」
ぽかん。という言葉が似つかわしいその顔を眺めながら、云ってやった。
「違いますか?」
自分なりの、この人への対処法。
考えた結果がこれだった。安易過ぎるかもしれないが、これしか浮かばなかった。
そもそも、自分は誰かを慰めたり励ましたりするなんて芸当は到底不可能な人間なのだ。
だから。
「…うん」
止まった時間。言葉の意味を一生懸命噛み砕いて飲み込んだ岳人がようやくゆっくりと、頷いた。
「うん」
狐に抓まれたような、不可思議な表情を浮かべながら、もう一度こくり。と細い首を縦に下ろす。
どうにか納得してもらったようなので、立ち上がり、一礼して部室を後にした。
直後、扉を背にして無意識に口を覆う。
よくよく考えると実は結構恥ずかしい事を云った気がしないでもないので、時間が経つにつれ無性にいたたまれなくなってきたのだ。
自分が人を慰めるなんて。励ますなんて。しかも相手は年上の人だなんて。オカシイ。明らかにこの状況はオカシイ。
(芥川先輩が眠っていて良かった…)
それだけが救いだった。あんな場面見られていたら憤死ものだ。
思いながら、大幅に遅れてしまった部活動に参加するべく、階段を早足で駆け降りていく。
その頃部室では、
「今のは6-0でがっくんの完敗だね〜」
「な…何だと?!」
途中から狸寝入りを決め込んでいた芥川が、欠伸混じりで呑気に采配を下していた事を、日吉は勿論知らない。
□END□
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がっくん完敗。