びっくりした。
こんな事になるなんて、全然思ってもみなかった。



誰も居なくなった部室で岳人は呆然と立ち竦む。
無意識に握った拳は力の加減すら出来ず、みるみる白くなっていった。

 「…もぉええわ」

吐き捨てるように投げられた彼の台詞が、厭な耳鳴りのようにこびりついて離れない。
一体どこに地雷が設置されていたのか。
一体いつ自分がそれを踏んでしまったのか。分からない。
感情が高ぶり煮えた頭では、その答えを探す事も出来ない。

 「………違う」

分からないんじゃない。分かりたくないだけだ。
あの時、明らかに彼はある人物の名前だけに反応した。
それが厭だった。
だから後先無しのひどい言葉を投げつけた。
立ち竦んだままの身体はなんだかとても寒くて、そういえば自分がまだユニフォーム姿だった事に気づく。
汗を吸ったユニフォームは身体に不快な重さと悪寒をもたらしていく。
もう初夏に近い季節なのに、気持ちが悪い。早く着替えたい。
のろのろと自分のロッカーまで足を運んで、取っ手に指先を引っ掛ける。
皮膚の先端に冷たい金属の感触があたった瞬間、ずるりと膝から下の力が抜けた。
そのまま岳人はその場に膝をついてしまう。

どうしよう。
鼓動がどんどん大きくなった。
どうしよう。
比例するように不安が胸に押し寄せた。

侑士を、怒らせてしまった。

 「ゆうし…」

名前を呼んだら涙腺が一気に壊れた。
膝を抱えて顔を埋める。背中に冷たいロッカーの、硬い感触。

どうしよう。胸が痛い。






発端は、今日行われた試合だった。
突発的に組まれたその試合の相手は、元レギュラーの宍戸と、鳳のダブルス。
理由を聞いても跡部は何も云わなかった。
その態度も気に喰わなかったけど、それに素直に応じる忍足もなんだか厭だった。
別に、いいけど。
宍戸なんて所詮レギュラー落ちするような選手だし、もともとシングルスプレイヤーだ。
そんな奴に何年もペアを組んでいる自分達が負ける筈無い。
自信に満ちたその気持ちが、まさかあっけなく自分を裏切るなんて、この時には全く予想もつかなかったのだけれど。

 「…嘘だろ」

最終的なゲームカウントは6-4。
早い試合展開を好む岳人は、いつものようにさっさと勝負を決めようと試合前半に力を入れた。
それが悪い癖だと忍足に、そして跡部に再三注意を促されている事も忘れて。
対する宍戸達は岳人のそんな揺さぶりにも動じる事無く、冷静にゲームの主導権を引き寄せていく。
鳳のサーブも憎らしい程決まった事も、勝因のひとつかもしれない。
結局、前半に力を使いきってしまいスタミナ切れを起こした岳人は動きが鈍り、
忍足による追い上げも虚しく、半ば即席の宍戸・鳳ペアに破れた。
そして部長跡部による、冷酷な宣告。

 「関東大会一回戦、対青学戦はダブルス1宍戸・鳳、ダブルス2忍足・向日でいく」

どれだけ練習を積んだって、どれ程の功績があったって。
たった一度の試合はそんなものを無視していく。そして勝負の結果は変わらない。
勝者と敗者はの間には深い深い隔たりがあるし、相応の処遇が待ち受けている。
敗者切り捨て、実力主義のこの学園で3年、そしてその中からレギュラーを勝ち取ってきた岳人は痛い程それが良く分かっている。
だから今、跡部から云い渡されたその処遇に文句を云える立場では無い事も、十分承知していた。

 「くそくそ!何で俺らがダブルス2で即席のあいつらがダブルス1なんだよ!」

しかし頭では分かっていても感情はついていかない。
とぼとぼと部室に戻ってきた岳人は乱暴にイスに腰掛け開口一番、
自分の胸の中で持て余した不満を、少し遅れて入ってきたパートナーにぶつけた。

 「しゃあないやん岳人。今更そんな事云うても」

ロッカーを開き、さっさと着替え始めていた忍足の背中が答える。

 「今更だけど云ってんの!あんな奴等に負けるなんて…くっそー!」
 「あんな奴等、て云うけど宍戸、そうとう練習積んでるで。アレ」

試合したらすぐ分かったわ。と独りごちるように低く呟く忍足。
まるで相手を賞賛するようなそれに、岳人のささくれた神経は逆撫でされていく。
もっとも今の精神状態だと、どんな言葉だって神経を逆撫でする手伝いにしかならなかったが。

 「まぐれだよあんなの。ダブルスの実力は俺らの方が上じゃん」

口の端が僅かに歪んだ。笑おうとして失敗したのだ。本当は、悔しくて悔しくて仕方無かった。
突然云い渡された宍戸達との試合は、通常の練習メニューを終えた後という異例の時間に行われた為、
忍足と二人帰ってきた時部室には誰も居なかった。
負けた者への僅かなりの配慮かもしれない。
そう考えると無性に腹立たしくなり、同時にみじめにもなった。

負けるのは、嫌だ。

 「せやけど負けたんやで、岳人」

弾かれたように顔を上げる。
いつの間にか制服に着替え終わった忍足が眼鏡の奥、落ち着いた瞳でこちらを見ていた。

 「俺らは負けたんや」
 「……っ」

かあっと顔が火照るのを感じた。

 「ダブルスやったら楽勝。なめてかかっとったんやな、俺もお前も」
 「そんな事…!」

帰り支度を整えながら、忍足は岳人の言葉を遮るように淡々と続ける。

 「俺はゲーム展開を見極められへんかったし、お前は相変わらず無茶苦茶なペースで突っ込んだ。
 対策考えるから待て、て云うたのに聞かへんかった」

岳人が言葉に詰まる。云い返せない、一言も。

 「勝てると思たから俺の云う事聞かへんかったんやろ?」

無造作に机上に置いてあった鞄に荷物を突っ込みながら、忍足が岳人を見ずに問いかける。

 「それが驕りや」

ざわりと首の後ろが粟立つ。
気がつけばイスを蹴倒し立ち上がっている自分が、居た。

 「…んだよ…確かに侑士の指示聞かなかった…けど、でもそんな云い方、俺ばっか悪いみたいじゃん」
 「そんな事云うてない。悪いのは俺も同じや」
 「嘘つけ!本気で悪いと思ってたらそんな云い方しねーだろ!」
 「岳人?」

忍足の眉が微かに曇る。

 「あれだけペース配分気をつけろって云われてたのに、馬鹿だって思ってんだろ!侑士も跡部も」

視界が変な風にぼやけた。
涙ではない。悔しさと、怒りと、いたたまれなさの所為だ。

 「…そんな事思てへんよ、俺も跡部も」

穏やかな声音すらも、今は拷問に等しい。いっそ声を荒げて罵ってくれた方がずっと楽なのに。
自分が、あの時ペースを落としていれば。
忍足の云う事を落ち着いて聞いていれば。
心の奥ではちゃんと反省する自分が存在しているのに、走り出した感情は止まらなかった。止められなかった。
薄暗くて狡いもう一人の自分が、心の淵からゆっくりと鎌首をもたげる。

 「…そもそも跡部も跡部だよ、練習終わった後に突然呼びつけてさ、こっちは疲れてるのに試合なんて」
 「岳人」

少しだけ諫めるような声。
分かってる、これは理不尽な怒りだって。跡部は関係無いって。

 「これは俺らの問題やろ?跡部に怒るんは筋違いやで」

だけど。
こうして自然に、当たり前のように彼を庇うから。
それがたまらなかった。

 「…侑士はいっつもそうだ」
 「…?」
 「跡部の事悪く云われんのやなんだろ」

眉を顰めたままで、忍足は口を開きかけたが結局言葉は紡がれなかった。
岳人の、その余りの話題の飛躍ぶりについていけないのか、
それとも思い当たる節があるのか、黙った彼の表情だけでは推し量る事は出来ない。

 「俺より跡部のがいいんだろ!」

これは嫉妬とは少し違う。岳人はそう思う。
別に忍足の事を、そんな風に好きではなかった。

けれど。
いつもずっと傍にいて、いつだって一緒で。
それなのに。否、だからこそ。
跡部の所為で変わっていく忍足を感じた。
跡部の事をそんな風に好きな忍足に気づいた。
自分が知らない「恋」というやつを、相棒は隣をすり抜け一足先に知っていたのだ。
云うなれば、慕っていた大好きな兄を目の前で盗られた感じ。
その消失感と羨望の混じった寂しさを、岳人は忍足と跡部の2人に向けていた。

 「…あんなぁ、岳人は岳人、跡部は跡部やろ?」

比べる方がおかしいわ。と、忍足が半ばうんざりした顔で答える。
どういう場面であれ、この手の類の質問が彼は一番嫌いなのだ。

 「いーよ、もう。…さっさと跡部んとこでも何処でも行けばいーだろ」

けれど自棄になった岳人はそんな忍足の様子に気がつかない。
彼の眉間がひくりと攣るように動いたのも。

ダン…!

細い身体が震える。
反射的に音のした方へ顔を上げれば、ロッカーに拳を押しつけた忍足の姿が視界に飛び込んできた。

 「……侑士」

無意識に声になって出た呼びかけに、しかし彼は応えなかった。
どうしよう。
身体が竦む。足が震える。
怒らせて、しまった?

 「……ゆ、」
 「もぉええわ」

表情は、長めの髪の所為で見る事は叶わない。
聴いた事の無い低い声でそう呟いた忍足は、ロッカーから手を剥がし、
鞄を持ってきびすを返すと、彼らしくない乱暴な仕種で部室の扉を開けた。
岳人に背を向けたままで。






しゃがみ込んだ身体は云う事をきかない。
膝を折って体育座りで、顔を埋め止まらない涙や鼻水と格闘した。
あんな事、云うつもりじゃなかったのに。
後悔ばかりが頭の中を渦巻いて、自分の馬鹿さに悲しくなる。
これからの事を考えると目の前が真っ暗になった。まるでこの世に一人だけ置いていかれたような、錯覚。

だから、
知らなかった。

いつの間に扉が開けられていた事も。
日吉が黙って、隣に座っていた事も。

 

□END□

nextゆびきりげんまん。