何となく厭な予感はしたのだ。



日吉 若は、扉の前で静かに固まる。
中から響いてくる激しい喧噪、この部では良くある事だ。

けれど。
ノックする事を躊躇ったのは、
扉の奥から聞こえてくる声の主が、
正レギュラーの、忍足侑士と向日岳人。
ダブルスを組んでいる、仲の良い、2人だったからで。

僅かに眉を寄せる。
その2人が、何故言い争いをしているのだ?
どんな内容を喋っているのかまでは分からないが、
その声のトーンや勢いで尋常では無い雰囲気、という事は理解出来る。

おかしい。

と、日吉は素直にそう思った。
岳人はともかく、忍足があんな大声を出すなんて。
普段、部活中に見かける忍足は岳人の良き保護者然として存在している。
腹の底では何を考えているか分からない人ではあるが、
岳人と忍足は、

とても、

良い、

パートナーで。


 「…もぉええわ、」


バン!と乱暴に扉が開けられると同時に発せられた言葉。
突然の出来事に身体がビクリと反応する。そしてそんな自分が何故か酷く滑稽だった。
しかし向こうもこちらと同じくらい驚いたようで、勢い良く肩がぶつかった瞬間、
長めの前髪から見え隠れする、眼鏡の奥の瞳が、少しだけ…痛そうに歪められる。

それはほんの一瞬の事で。
けれど日吉はその一瞬を、見逃せなかった。
忍足はすぐに日吉の脇を通り過ぎ、早足でクラブハウスの階段を駆け下りていく。
開け放たれた扉。
正レギュラーの部室へと続く入り口。
日吉は左手に持った準レギュラー用の部誌をきつく握りしめたまま、瞳だけをゆっくりと、部室内へ這わせる。


そこに独りきりで。


ロッカーに背をつけて小さく蹲る、向日岳人の姿が、視界に焼きついた。



元を質せば、本日の部誌当番は自分では無い。
それが急遽自分に変わってしまったのは、当番が風邪で部活を欠席したからである。
故に、翌日の部誌当番だった日吉が代わりとして本日分の部誌を認める結果となった。
とにかく、部員数が多い氷帝テニス部である。
正レギュラー、準レギュラー、その他部員を合わせると錚々たる人数になる。
それを部長1人で統治する事など不可能だ。例え稀に見るカリスマ性を持つ跡部景吾を以てしても。
結局、準レギュラーは準レギュラーで、その以下部員達は部員達で一団体とし、
監督と部長が決定した厳しい規律…即ち部内マニュアルで各自動いている。
そして、現在の準レギュラートップである日吉が、準レギュラー達を纏める責任者でもあった。

(下らない年功序列に左右されない)
(実力でのし上がるには最適なのだ)

この氷帝学園テニス部という場所は。

常々そう考えている日吉だが、苦手な人物くらいは居る。

そして今、あろう事かその人物と対峙している。


部屋の隅に膝を抱え座っている、その小さな先輩の髪の毛はくしゃくしゃだった。
顔は、膝の上に回した両腕に突っ伏しているので、見えない。表情を読む事は出来ない。
泣いているのか。
怒っているのか。
それとも。

 「…」

余り、広くはない部室で。
こんな状況下に放り出されて。
自分はただ、跡部部長に本日分の部誌を提出しに来ただけなのに。

何故、こんな事になってしまっているのだろう。

 「…向日、先輩」

声を掛ける。
返事は無い。

 「…跡部部長、何処に居るか知りませんか」

「跡部」の言葉に、ピクリと小さな身体が反応する。そしてその15秒程後に、
 「…帰った」
くぐもった鼻声で、返事が来た。
 「帰った?」
日吉が怪訝そうに復唱する。
あの跡部が?
こんなに早く(といっても既に6時を回っているのだが)帰るだろうか。
部内の責任者である部長は何か特別な理由が無い限り、部員が全員帰るまでここに残る。
それなのに。

何か、変だ。何処か、不自然だ。

 「ゆーしと一緒に!帰った!」

突然、吐き捨てるような大きい声が室内に響く。
驚いて彼の方を振り向く、けれど矢張り顔を見る事は出来なかった。

 「…向日先輩?」

再び、声を掛ける。
自分は一体何をしている?

何故、扉を閉めて。
何故、彼の近くに歩み寄って、そして。


その横に、座っているんだ。


訳が、分からない。
けれど。
この先輩は今、今のままで、放っておいてはいけない。



理由もなくただ漠然と、そう思ったのだ。



時計の秒針が厭に響く。
カチコチと時を刻む音は、こんなにも耳につくものだっただろうか。
日吉は、呆然と正面の壁に貼り付けられている時計に目を遣る。

あれから30分以上経った。

現状は何も変わらなかった。

岳人は俯いたままで、何も語ろうとはしない。
その、かろうじて隣、と云えるような距離に座った日吉も、無言のままそこに居る。
ロッカーの表面に押しつけた背がチリチリと、同じ姿勢で佇む事に反抗し出すが、無視した。

ただ、隣に居るだけ。
何をする訳でも無く。
自分が岳人の立場だったら、気味が悪いと思う。
出て行って欲しいと、思う。それなのに、それが出来ない。

跡部部長は、忍足先輩と一緒に帰った。

と、岳人は言った。

忍足先輩は、自分とすれ違いにここを出て行った。

岳人との口論の末。

(何があったか…)
知りたくないし、聞きたくもない。
どうせ聞いても、自分に益はもたらさないだろう。
けれど。
気持ちが悪いのだ。

日吉が、静かに息を吐く。

いつも、いつも。
馬鹿みたいに元気で、笑って、明るくて。
自分を見つける度に手を振って走ってくる。
そして演武テニスを教えてくれとしつこくねだる。
鬱陶しくて無下にしても、懲りずにまた、声を掛けてくる。

いつも、笑って。

けれど。
今の岳人は、自分の知っている岳人では無い。
それが。
気持ち悪い。

…その表現は適切では無いのかもしれないが、
今の日吉にはそう表現するしか、方法は無かった。

時計の横に位置する窓から見える空は、闇だけが支配している。



 「…ホタルイカ」

ボソリと、日吉が口を開いた。
 「………の身投げ、って知ってますか」
岳人からの返事は無い。
構わず日吉は、その明らかに場違いな話を続ける。
 「富山県の、海の風物詩なんですけど。
 4月から6月にかけて、ホタルイカが深海の谷間から渚近くまで、産卵の為浮上するんです。
 それが、砂浜に打ち上げられる。集団のホタルイカが、蒼い光を放って。その光景はとても奇麗だそうです」
言葉を切って、窓に映る闇だらけの空を見つめた。
 「それをホタルイカの身投げって言うんですけど、身投げが行われる日というのは、新月の夜が多いそうなんです」
月の無い夜。
漆黒の空に。
 「何故、新月の夜なのかは、分かっていないんですが」
不思議ですよね…、と言い掛けて日吉は突然口を噤んだ。

幾ら間が持たないからと言って何故に自分はホタルイカの話なんかしているんだ。

我に返った瞬間、全身から血の気が引くのが分かった。
人間は恥辱を感じると赤くなる人間と蒼くなる人間が居る。日吉は後者の方だった。
そして、手に持った部誌が急に存在感を主張し始める。

 「…すみません、この部誌ここに置いて帰り…」

早口でそう言い、腰を浮かせたその時だった。



 「…そのイカって食えんの?」



岳人が泣き笑いのような妙な表情を浮かべ、こちらを見上げていた。



 「なあ日吉、そのイカって食えんの?」
再び問われて、漸くその質問が脳へと伝達され、理解するに至る。
 「食えます」
馬鹿みたいな返事だと、我ながら思う。

岳人は泣いていなかった。
否、泣き顔を見せなかった。
自分に見せてくれたのは、一生懸命浮かべた下手糞な笑顔だった。

全身から力が抜ける。
…と言うか、こんなにも緊張していたのか?
パサリと部誌が手からすり抜けて床に落下した。
その部誌を、岳人が手を伸ばして拾い上げる。パンパンと軽く埃を払う。

 「日吉」

今度は呼び掛けられて。

 「はい」

返事をする。

 「お前、天才だな」
 「は?」

唐突にそんな事を言われて、日吉は再び怪訝な顔をした。
けれど岳人はそんな彼を見てまた可笑しそうに笑って。
 「うん、やっぱ天才」
そのままズリズリと移動し、隣に座る彼との距離を縮め、腕を取った。
岳人の両手は右腕を伝って、掌に落ち着く。
何をされるのか全然予測がつかない日吉は、固まったまま、岳人を見つめている。
 「あのな。俺が凹んだ時、これからもこーやって、」
自分より一回り大きい掌から小指を伝い、そこに触れて、自分の右小指を絡ませる。
 「ヘンテコな話、しろ」

互いの小指が絡み合って、ゆびきりの形が出来上がった。

 「先輩命令だ」

瞼とその周辺がまだ赤い、先輩はそう言って笑うと1人で勝手に歌い始める。

 「ゆーびきーりげんまん嘘ついたら針千本呑ーます」
 「…ちょ、え…っ?」

どうにか言葉を発しようとしたがその上に「ゆーびきった!」と元気な声が重なった。
満足そうに笑う岳人の小指を振り払いつつ、日吉が精一杯ジロリと睨みつける。
 「先輩、ゆびきりは命令では無いです。約束」
そう、ゆびきりは、互いに約束を忘れないよう、裏切らないよう確認する行為。
自分の答えも待たずに勝手にそんな事を言われても困る。すごく困る。日吉は厭そうに目を細めた。
 「うん。じゃあ命令と約束。どっちも」
余計悪いではないか。
クラリと眩暈に見舞われる、そんな日吉は岳人は勝ち誇った顔で見つめる。
結局、先輩命令と約束という二重拘束はこの時点から施行を開始したのだ。





日吉は、改めて決意する。
今後、この先輩には一切関わらないようにしよう。

この時は本当に、本気でそう、思ったのだった。

 

□END□

そして深みに。