一年の始まりはとても大事なのだと、幼い頃からずっと聞かされてきた。
元旦に出逢う人も、起こる出来事も必ず自分にとって何らかの縁があるのだから、大切にしなさいと云うのは父や母の口癖だ。
しかし日吉は今この時、両親による有り難い言葉に疑問を持っている。
「良かったー!知ってる奴が居て!」
新年早々、冬の空気を突き破る勢いで元気に響く彼の声。
初詣の帰り際、日吉は混雑する人の中で呑まれながら歩く岳人とばったり出逢ってしまったのだ。
そこは都内でも比較的大きな神社なので、元旦ともなると参拝客がどっと押し寄せる。
家から近いという事もあって、毎年日吉の家族もそこで新年のお参りを済ませるのが恒例となっていた。
参道には数多くの屋台が賑やかに並び、お守りや絵馬を販売している社務処近辺には沢山の人が並んでいた。
参詣を済ませた後、破魔矢を買いたいから少し待っていて、とごったがえす人混みの中に消えていった両親を見送りながら、
さして信心深くも無い日吉はぶらりと周辺を廻る事にした。神社なのに、人と金が行き交うここは空気が余り良くない。
今年、大学の方の部活が忙しいからと初めて年末年始に帰って来なかった兄は、
先日電話口で初詣、行ってやってくれよ。と先に釘を打ってきた。
ここ数年自分が家族と一緒に行く事を内心渋っていたのを見越していたのだろう。喰えない兄だと思う。
確かにこの歳になって家族と共に行動する事に、何となく違和感めいたものを感じてきてはいたが、
この初詣は自分が生きてきた14年の人生の中に毎年家族の恒例行事として当たり前のように行われていた事なので、
まあこんなものなのだろうという気持ちもあった。断る理由も無かったし。
敷き詰められた玉砂利の感触を足で感じながら少し離れた本殿の方を見渡すと、相変わらずすごい人だった。
鈴をガランと鳴らしては、真面目な顔で恭しく柏手を打つ人々。
道場にも神棚はあるし、毎回必ず稽古の最初と最後に拝礼はするが、
それは物心ついた時から習慣づけられていた事なので、このように改めて神に祈る、という行為について、日吉は余りぴんと来ない。
無神論者という訳ではないが、結局のところ信心というものは一時の気休めのようなものなのではないかといつも思う。
神に祈る事で自分を安心させる。
別にそれは構わないと思う。ただ自分には今のところそんなものは必要ないというだけの話だ。
いかなる場面においても、結局最後は自分自身の力が決め手になる事を知っているから。
「……」
そんな事を考えながら白い息を吐いた日吉が、一度俯いた後、弾かれたように再び顔を上げる。
「……?」
見間違いかと、思った。
人混みの中、ちらちらと見えかくれする、ピンク色の小さな頭。
「……………?」
もしかしてあれは。
あの奇抜な髪の色とその髪型のあの人は。
目をこらしてその一点を見る。
「…向日先輩?」
というかあれ、埋もれかけているんじゃないだろうか。
無意識に出ていた溜息。
肩に引っ掛けていただけのマフラーを落ちないように首に廻し、
彼の両脚は、気がつけば彼を救出すべく人の溢れるそこに向かっていた。
熱気。人の体温。混じり合う耳障りな声。
正直人混みなんて大の苦手だった。
学園の食堂や売店でさえ避けて通るというのに、一体何をやっているんだろうと我ながら思う。
やや強引に肩を押し出し人混みをかき分けながら、目的の人物に近づいていく。
一歩進む度、ぼんやりと小さかったピンク色が視界にクリアになっていった。
「向日、先輩…!」
この辺までくれば届くだろうと日吉が名前を呼ぶと、ぴょこっと人の波から見知った顔が飛び出した。
懸命に爪先立ちしているのだろうか、ふらふらよろめきながら、熱気で赤い頬をした岳人が驚いた表情を浮かべたまま口を開く。
「日吉!?なんで!?」
「それはこっちの台詞です…何、やってんですか、あんた…!」
「あけましておめでとー!」
「いやそうじゃなくて…!」
誰とも知らない輩に背中を押され、肺が軽く圧迫される。本当に、人混みなんて大嫌いだ。
「侑士達とー!初詣に来たんだけどー!はぐれちゃってさー!…うわ!」
岳人は岳人で再び押し寄せた人の中に呑まれようとしていた。
そもそも彼は本殿からの帰りらしく、明らかに今から参りに本殿へ向かう人々と逆行になっている。
上手く迂回する道があっただろうに。おそらくそこで忍足達とはぐれてしまったのではないか。
いや、今はそんな事どうでもいい。
日吉は気を入れ直してぐいっと腕を伸ばす。
このまま目の前でこの人に転倒などされたら、困る。
理由は分からないけれど、そんな現場に立ち会うのは嫌だし、困るのだ。
「先輩、つかまって」
その言葉に大きく瞳を見開いた岳人は、
人の中で微かに身じろいだが、素直に日吉の方に向け腕を伸ばした。
あと少し。
ひやりとした指先が触れる。
もう一歩踏み込んで、日吉は細い腕を捕まえた。
そのまま自分の方に引き寄せて、元来た道の方を振り返る。
岳人に背中を向けたまま、ごく小さな声で云った。
「手、離さないで下さい」
とは云え、人混みの中から引っ張りだしてからも、日吉が一方的に岳人の腕を掴み続けているのだが。
「うん!」
後方から元気のいい応答が返ってくる。
歩く度にぶつかる肩、腕。
けれどその腕を離さない事にだけ集中していると、不思議にも人混みがさほど気にならなくなっていった。
コート越し、掴んだ腕の体温は、少しだけ熱い。
「やー、ほんと、助かったあ」
ぜえはあと息を切らしながら、岳人がハ〜…と少しだけ折り曲げた両膝に手を置く。
ようやく人の多いエリアを抜け、手水舎の傍で一息ついた二人は、
上がった息を整える為、往来を流れる参拝客を眺めながらしばし無言になっていた。
先に復活した岳人は興奮したように言葉を続ける。
「もうすっげー人なんだもん。埋もれるかと思ったぜ」
「いえ…俺が見た時には既に埋もれてましたよ」
「…あ、あくまでも、埋もれかけそーになってたんだ」
そんな後輩の力無い言葉をあっさりと無視する方向で、
岳人はくしゃくしゃになってしまった髪の毛を気にするように掌で撫でつける。
ピンク色のそれは冬の陽差しを受け、ちらちらと反射して日吉の瞳を細めさせた。
「…まぁ、先輩のその髪、すごく目印になりましたけど…」
「だっろ?やっぱいいんだよこれー!」
彼のコメントを誉め言葉と取ったのか、
えへへと得意気に笑いながら、さらさらのおかっぱの髪を指で差す。
「新年早々日吉に逢えたし!」
その満面の笑顔は、日吉が次に用意していた言葉を、完全に消失させてしまった。
「…いえ、あの………」
変なタイミングでなんとか口から出た声は、
「そういや日吉は誰と来たんだ?初詣」
ものの見事に遮られてしまう。
彼が人の話を聞かないのはいつもの事だ。
なので、はあ…と俯きながら家族と来ました。とだけ告げた。
「へえ〜すごいな!仲いいんだなーお前んちの家族」
いいな〜と純粋に羨ましがるその反応に、日吉は内心面食らう。
彼の事だから、絶対バカにされると思っていたのに。
「俺んとこさ、家族多いし正月から店開けてるからこうして一緒に行く事なんて滅多に無くってさー」
そういえば、彼の家は電気屋を営んでいると以前聞いた事があった。
どれくらいの店の規模かは知らないが、年始も休まず営業するという事は繁盛しているのだろう。
「だから……あ。」
途中、軽快な着信メロディが岳人のコートのポケットから鳴り出したが、
彼はがさごそとそこから携帯を取り出し「あ、ゆーしだ」と呟いてそのまま再びポケットにしまう。
「…?取らないんですか?」
「うん。掛け直したら逢えるから。それよりちょっと…待ってろよー」
なんだか訳の分からない事を呟きながら、岳人は今度は反対側のポケットに左手を突っ込み、
財布を取り出しそこから何かを漁っているようだった。
その様子を眺めている日吉の顔は、控えめではあるが怪訝な表情になっている。
一体何なのだろう。相変わらず、年が明けても彼の行動は自分にとって計り知れない。
「あったー!」
大きな声がして、はっと意識を引き戻されると、
正面には財布から取り出したのだろう薄い紙切れを持った岳人が、笑っていた。
「これな、さっき引いたおみくじ。大吉だったんだぜ!」
「はぁ」
「本当は今年一年ずっと持っとくつもりだったけど、お前にやるよ」
「はぁ…え?」
訊き返す前にほい、と彼の掌にそれを乗せてきゅっと握り込ませると、岳人はにししと笑みを深くさせる。
「助けてくれたお礼。日吉が今年いい一年になるよーに、俺が神様に祈っといてやるから」
日吉は再び言葉に詰まった。
その時、一度は止んだ携帯が再び騒がしく鳴り始め、
慌てて携帯のディスプレイを開いた岳人が、内容に目を通し、呆れた声で呟いた。
「林檎アメの屋台のとこ。…って、ジローだな」
ぱちんと携帯を閉じて、じゃー俺行くからな、と声を掛ける。
対する日吉は金縛りから解けたように一瞬無防備な顔になり、そしていつもの表情に戻った。
いけない。これじゃあまるで、この人のペースにうっかりはまってしまったみたいじゃないか。
人知れずそんな、なんだか愕然とするような恥ずかしいような気持ちになったが、ひとまず無視した。
「気をつけて下さい。今度は埋もれないように」
「一言多いっつの!いーよ今度もお前に助けてもらうから」
そんな事を、何故かふんぞり返って云う小さな先輩が、どうにも微笑ましく可笑しい。
コートを翻し元気良く走っていく小さな背中を見送りながら、掌でカサリと音を立てる紙に目を落とした。
おみくじなんて自分は引かないから、現物を目にするのも久しぶりだった。
開いてみると、さすが大吉だけあって縁起の良い言葉のオンパレードだ。
おみくじと共に渡された言葉を思い出して、日吉は無意識に苦笑を浮かべる。
(…確かに、あの人の祈りは神様まで届きそうだ)
□END□
日吉とお兄さんは歳が離れているの希望です。