まるで薄墨を流したような色だな、と思った。

 「…その、つ、つき合って欲しいとか、…そういうんじゃないの」
部活が終了した後の、閑散としたクラブハウスの裏庭に呼び出された日吉は、
微妙な色合いの空を仰いでいた視線を戻し、黙って正面に立つ女子の方を見つめる。
 「ただ…そう、あの、好きっていう気持ちだけ、それだけ知ってて欲しくて…」
自分を呼び出した女子は同じテニス部に所属する同級生だった。
副部長も務めている彼女とは、双方の部の事で何度か話をした事もある。
会う度いつも柔らかく笑っていたし、そんな顔しか知らなかったから、
今、笑顔の作り方なんて忘れてしまったかのような不安に満ちた顔を見て、何故だか分からないが自分もとても不安になった。
こちらが何か一言口にすれば、一気に泣き出しそうな、そんな表情。

 「突然変な事云ってごめんなさい」
着替える暇も無く呼び出しを受け、ユニフォームのままで裏庭に着いた時、
唐突に胸の中に押しつけられた小さな四角い箱を、僅かに持て余すように手の中で持ち直す。
 「別に、変な事じゃないと思うけど」
え、と彼女が顔を上げる。
けれどその期待に応えるつもりも無いので、視線を地面から生えている雑草に固定したまま、続けた。
 「好きになるのも、好きだって云うのも」
云ってから即座に後悔する。
自分は一体、何を口走っているんだ。
無理矢理好意を押しつけられるのを、あんなに嫌っていた筈なのに。
更に云えば自分の気持ちを知っていて欲しい、などという類は一番苦手だった筈だ。
一方的に想いを押しつけて、告げたというその達成感に自分で酔う。
結局は相手の事なんて何も考えていない自己満足的行為の最たるものではないか。

そう、思っていたのに。

日吉が口を噤んだ所為で、奇妙な沈黙が訪れてしまった場の雰囲気を、すっと消し去るように正面の彼女がくすりと笑った。
 「…ありがとう。優しいね、日吉君」
思わず眉を顰める。
まただ。
これで二人目だ。
自分の性質とは全くかけ離れた言葉を投げ掛けてきたのは。
別に優しくなんて無い。現につい先程告白をあっさり断ったばかりではないか。それなのに何故。
訳が分からない、という顔を自ずと浮かべてしまっていたのだろうか。
こちらをじっと見つめていた彼女が泣きそうな瞳のまま弱々しく笑い、そして再び念を押すように云った。
 「優しいよ」
手の中の箱がズシリと重く感じる。
薄墨を流したような空は、いつの間にかとっぷりと暮れていた。



 「嫌ですよ止めて下さいよいくら先輩でもしていい事と悪い事があーっ日吉っ!」
重い足取りで階段を登り、レギュラー専用部室の扉を開けた途端、有り得ない程の喧噪がどうっと日吉の耳に襲いかかった。
更に漏れなく鳳の正面顔までついてきて、無表情で呆然としている日吉の背中に回り込んだかと思えば隠れるようにその長身を縮める。
何をやっているんだこいつは。
 「なんだよーちょっと見るくらいいーじゃねーかよー」
そしてこの声は。
自分の背中にへばりついている鳳から目を離し、顔を上げ視線に入ってきたのは予想通りの人物で。
 「嫌ですよ〜!そんな事云って俺が貰ったチョコ食べたじゃないですか〜」
 「だって腹減ってたんだもん」
けろりと非道な事をのたまい、予想通りの人物・向日岳人はソファからぴょんと跳ねるように降りてこちらに近づいてくる。
よく見るとそのソファには慈郎がのんべんだらりと横たわっており、気持ち良さそうに眠っていた。
 「よっ日吉」
 「今晩和。先輩、出来れば余り後輩虐めはしないで欲しいんですが」
 「愛だよ愛」
 「…そもそも何でここに居るんですか?3年生はもう来なくていいでしょう、学校」
氷帝学園は中高一貫校である為、大体は受験と無縁の生活を送るが、この時期になると少数ではあるが外部受験を試みる生徒も居る。
そういった事情を考慮してか、3年生は2月から自由登校という形になっていた。つまり来ても来なくてもいいと、そういう事だ。
そして自由登校という特別な状況下を一番楽しみ、喜んでいそうな二人が何故揃いも揃って来ているのか。
 「チョコ貰いに来た」
ずれてくるのが鬱陶しいのか、大きめのベストの袖を軽くたぐりながら、
ごく当たり前のようにそんな事を吐くこの人は、やはり密かに男前だと思う。
 「来て下さいって後輩に頼まれてたんだよ。下駄箱チョコで一杯になるのもやだし、ジローも云われたって云ってたから一緒に来たんだ」
引退したとはいえ、流石テニス部レギュラー。その実力をまざまざと見せられた気分である。
云われて来てあげるところがまた二人の人の好さ、そして人気の度合いを表しているような気がした。
ひとまず、そうですか。とだけ応えて、日吉は相変わらず無表情のまま半泣きの鳳を引き剥がし、自分のロッカーに足を進める。
 「日吉は貰った?チョコ」
 「いえ」
えーなんで!と背後で弾ける意外そうな声。
その後鳳の宥めるような声が聞こえた。あいつは1年の時からそうなんです、と。
 「なんで!」
 「その気も無いのに物を貰うのは何となく嫌なので」
口にした途端、ジャージのズボンのポケットへ無造作に突っ込んであった四角い箱が唐突に自己主張を始めた、気がした。
余りにも突然だったから、返せなかったイレギュラーな贈り物。
少しだけ逡巡した結果、ハンガーに掛けてあったコートのポケットへ、そっとそれを押し込めた。
何故か急激に湧き起こった罪悪感は、誰に対するものか、分からなかった。
 「そんなの女の子が可哀相じゃん!」
 「貰って断る方が相手に対し悪いと思いますけど」
 「そんなの貰う側の云い分だろ!?そういうの抜きにしてお前に渡したいんじゃねーのかよ、お前を好きな子は…」
 「…先輩」
シャツの釦を填め終わり、ネクタイを結び掛けたが集中出来ずに手を止めた。
ゆっくりと振り向くと、おそらく怒っているのだろう薄く紅潮した顔でこちらを睨んでいる岳人と目が合う。
その後ろには困った表情で、途方に暮れている鳳。もう帰る準備も出来ているのだろうが、完全にタイミングを失ってしまっている。
微かに張り詰めた部室内に、慈郎の平穏な寝息が満ちていて、何だか色々とちぐはぐだな。と日吉は冷めた頭で思った。
 「それは先輩の云い分かもしれませんけど、俺は今までずっとそうやってきたし、それでトラブルも起きた事は無いです」
淡々と告げる度に、ますます悪くなっていく機嫌。不穏な雰囲気。
 「ですから、この事に関しては放っておいて下さい」
ぐっ、と彼の細い喉元が上下に動く。何か云いかけてけれど無理して止めたのか。
釈然としない、納得出来ないという気持ちが、大きな瞳にありありと浮かんでいる。
自分もかなり耐性がついていたつもりだった。
しかし時として、こうしてずかずかと無遠慮に心の奥まで入り込んでくる彼に対し、畏れにも似た感情を抱く事があるのだ。
そして、そんな感情を持て余した挙げ句彼を全力で突き放す。その行為の果ては後味の悪い後悔と、最悪の結果しか待っていないのに。
それなのに。



 「おー日吉見て見てオリオン座ー」
何故この先輩は、隣で白い息を吐きながら夜空を見上げ、笑っていられるのだろうか。
日吉は理解不能の連続で軽く痛み出してきた頭を押さえつつ、はあ、と気の抜けた相槌ちを打っていた。
あの後、分かった。と短く頷いた岳人は、それから何事も無かったかのように鳳を虐め(彼曰く愛だそうだが)倒していた。
着替え終わり、そろそろ戸締まりしますからと彼らを部室から追い出して、
駅の方向が同じである鳳は、起き抜けで未だぐだぐだしている慈郎を半ば担ぐようにして帰っていった。
そして残された日吉と岳人も帰り道が途中まで同じ方向故、ぎこちなく共に歩き出したのだが。
 「お前冬の大三角云える?」
 「…シリウス、ペテルギウス、プロキオン」
 「すげ天才!」
 「いや習いますから」
先輩も習った筈ですから。
三歩先行く岳人はそうだったっけ?など呟きながら、既に興味は別のところへ行っているらしく、
ぶ厚く、見るからに暖かそうな手袋をした指先で、コートのポケットからたどたどしく携帯を取り出し始めていた。
 「星ってケータイで撮れるのかなあ」
顔を上げ、空を仰いでウリャ。と云うかけ声と共にピロリンと間の抜けたシャッター音が外気に響く。
更に一瞬携帯カメラの焚いたフラッシュで周囲が明るくなり、何だか心持ち恥ずかしくなった。
 「うわ、駄目。全然」
 「雲も掛かってますから」
三歩分の距離を縮め、日吉が立ち止まって携帯電話を操作している岳人の隣に立つ。
上から少し覗けば、画面にはフラッシュの効果など始めから無かったかのような、嘆かわしい夜の空が写し出されていた。
 「俺の機種も古いからなー…日吉、」
声と共に、小動物のような両眸がピン、とこちらを見上げた。
何だか厭な予感がする。
そして、この人絡みのその予感は大体にして的中するのだ。
 「携帯貸して!」
 「え…、ちょ…っ」
拒む暇も無かった。
小さな先輩はその小さな身体をここぞとばかりに駆使して、
するっと脇の辺りに入り込んだかと思うと、コートのポケットに手を突っ込む。
15年間も生きてきて、プライバシーとかデリカシーとか、そういう言葉を学ばなかったのか。
けれど怒るよりまず先に生じた感情は、罪悪感だった。あの時、四角い箱をコートのポケットへ入れた時と同じ種類の。
 「…あれ」
罪悪感は徐々に焦燥感へと変わる。
その気持ちの根元は、そろりと身体を離し、不思議そうな顔で彼が手にしている物が原因なのだと、頭では理解出来る。
それなのに落ち着かない。感情が、ついていかない。
 「チョコ」
自分の左手で掴み上げてしまった、目当ての携帯電話では無く、
可愛らしくラッピングの施されたそれをじっと見つめた後、岳人は日吉の方に視線を戻した。
 「貰わないって、」
 「…断る暇も無く渡されたんです」
 「もしかして本命?」
思わず、自分の耳を疑う。
補欠だったとはいえ、少なからず正レギュラーの彼等と過ごしてきた時間の中で、
彼がどれだけこういう話が好きか、鬱陶しい程熟知している筈だった。嬉々として訊きまくり、冷やかしからかい大騒ぎするのが常だと。
そして今、そうされてもおかしくはないという状況に(間違いであれ)自分は立たされているのだと。そう、覚悟していたのだが。
聴こえてきたのは小さく、頼りなく、沈んだ声だった。
 「つき合ってる子だったり…して?」
茶化すような、しかし完全に失敗した声が見事に上滑りながら夜の闇にぽつんと響く。

何故。

大きな瞳はふわふわと、心ここに在らず、といった様子で視線をこちらに合わせようとはしない。

何故そんな顔を。

脇を過ぎる車の騒音と、後に取り残される排気ガスの匂い。
再び暗闇と静けさが戻ってくる歩道に立ちすくんだまま、とくりと胸が鳴った。
後もう少しで、この難解な感情の正体が理解る。そんな根拠の無い確信につき動かされ、無意識に手が動いた。
華奢な右肩にそうっと落ち着いた時、視線を彷徨わせていた岳人がフ、とようやく顔を上げる。鼻先がほんのりと赤い。
それが合図のように、日吉が僅かに身体を屈める。

もう少しで、この感情が。

間近に見えた岳人の瞳が、怯えるように閉じられた。
瞬間。
声も無く、音も無く、ただ互いの唇が触れ合っていた。



あの時は、ソーダバーの味がしたけれど、今日はチョコレートの味がふわりと唇を掠める。意図せず食べ物関連ばっかりだ。
そっと唇を離し、未だ固く両目を瞑っている岳人を見おろしながら、日吉は口を開いた。
裾に隠れた両手が無意識に拳を作る。あの試合の時でさえ、こんなにも緊張はしなかったと思う。
 「だとしたら、どうしますか」

正体を知りたい。
この人と出遭ってからずっと胸に存在した、この想いの正体。
そしてそれを、目の前にいる彼も持て余しているのかを。

けれど、
 「だったらキスとかすんな!!」
ガツッ、と鈍い音が右耳の辺りを襲った。
突然右頬へ走った衝撃によろけそうになった足に力を入れ、身体を立て直すと、
次に日吉の視界に飛び込んできたのは、力一杯唇を噛みしめ何かを堪えている岳人の顔だった。
あの時裏庭で見た彼女と、浮かべている表情は全然違うのに、何か一言口にすれば泣き出しそうな、そんな。



 「ばかひよし!!!」



しまった。
と思ったのは、内側が切れ、うっすらと血の味が口の中に拡がり始めた頃だった。
大声で云い放った直後、勢い良く踵を返し物凄い速さで走り去っていった岳人を追う事も出来ず、
日吉は妙に冴えている頭を心の中で抱えた。胸の辺りにじわじわと溢れ出す感情の中身とは裏腹に、頭の中は奇妙な程に。
そう、雲が晴れたように冴えわたっていた。
頭の中も、心の内も。
自分の気持ちも。



そして自分の愚かさも。

 

□END□

nextイエス。