それから後の事は、余り覚えていない。
何時の間にか家路に着いて、何時の間にか普段通りの生活を過ごして。
ただ少し違ったのは、鬱陶しい程頻繁に送られてきたメールが、ぱったりと無くなった事と、
その何の意味もないどうでもいい内容のそれに、思いのほか自分が救われていたという事。



仰げば尊しは何時からこんなにも焦燥感を駆り立てられる曲になったのだろう。
全校生徒が収容可能な広い講堂、その在校生の席に埋もれるように座りながら、
日吉は自分の膝に握った拳を乗せ、そこに視線を固定したままそんな事を思っていた。
あの日から、岳人とは連絡を取っていない。
何度も携帯を片手に逡巡しては、ボタンを押し掛けて思い留まるという一連の動作を何回も繰り返し、
次に逢った時(おそらく式が終わった後のテニス部送別会別名追い出し会)に告げるべき言葉を考えていた。
弁解、弁明。
そんなものが使える程自分は口が達者でも器用でもない。
思った事をただ口にするしか。
云いそびれた言葉を。伝えそびれた気持ちを。
それしか出来る事は無いと、本当は痛い程理解っていた。

元テニス部部長で生徒会長でもある跡部が壇上で答辞を述べている。
りゅうとした口調、堂々とした態度を目の端に捉えながら、けれど無意識に、
遙か前方に用意された卒業生達の席に座っている筈の、赤い髪の人物を探している自分がいた。

もう、時間が無いのだ。自分達には。
日吉はそっと、薄い唇を噛みしめる。
自分が愚かな遠回りを、沢山したから。

割れるような暖かい拍手、品の良い管弦楽の退場曲に乗って、
卒業生達が講堂の中央に真っ直ぐ敷かれた毛脚の長い絨毯を踏みしめて出口へと進んでいく。
何人も何人も通り過ぎる制服の中から、あの小さな先輩を見つけ出すのはかなりの運と確率に左右される。
良く考えれば日吉は岳人のクラスさえ正確に知らない。
3年の春、部室で着替えながら嬉しそうに自分に向け確かに告げていた、クラスと教室の位置。
そこからだと2年校舎にも近いんだぜお前んトコにもすぐ行けるぜ、とまるで悪戯でも企むかのように笑っていた。
馬鹿みたいだ。
どうしてきちんと聞いてやれなかったんだろう。
どうして今まで忘れていたのだろう。

あの人はいつも近くに居たのに。

けれどもどうしようかと迷ってしまったのは、これから自分が向かうべき場所についてで。
選択肢は二つあった。
現部長として、送別会を滞り無く始める為にいち早く卒業生達を迎える準備をしなければならない部室と、もう一つの場所。
逢えるかどうかも分からないし、もしかしたらまだ友達や部活のメンバー達と一緒に居るかもしれない。
なにしろこういうイベントは力一杯精一杯楽しむのが、あの先輩のモットーなのだ。
誰も居なくなった教室で、所在なく立ち竦んだまま袖から覗く腕時計にちらりと目を遣る。
在校生達にとって卒業式は、ガラス一枚隔てて行われる行事を漠然と見ているようなもので、
本やテレビなどで見られるような特有の大袈裟な感動などは無い。あっさりと見送って、あっさりと帰る。
自分達にはまだここで過ごす時間と猶予が残されているからだ。そう、思っていたのだけれど。
針を確認すると、卒業式が終わってから既に数時間が過ぎている。
この頃になると各自めいめいが自分の所属していた部に流れる時間だ。
日吉は相変わらず無表情のまま、机の上に置いてある必要最低限の持ち物が入ったカバンを肩に担ぎ上げると、
今度は制服のポケットから携帯電話を取り出して、手の中に収まったそれを眺めた。
マナーモードを解除する為ぱちりと開いて、もう一度眺める。
出来るだけシンプルなものを、と購入した自分の携帯電話の端に繋がれユラユラと揺れている、恐ろしいくらい似合わない携帯ストラップ。

悩んだ5秒は、永遠かと思われる程長かった。

 『日吉』
第一声は、少しだけ意外そうで、気をつけて聴けば分かる程度の緊張感をはらんでいて。
 「先輩、少し話をしたいんですが」
挨拶も何も無しですぐに本題に突入したのは、自分も知らずに緊張していたのだろう。
間。
 「…今から逢えませんか」
静かな、間。
 『…追い出しん時に逢えるじゃん。そん時じゃダメなのか』
 「今じゃないと駄目なんです」
焦燥感がぐっと増す。
いても立ってもいられなくなり、気がつけば扉を勢い良く開いて教室を出ていた。
歩きながら校内で電話だなんてマナーの悪い事、している人間をずっと嫌悪していたのに。
 「今何処にいますか、」
いつもの放課後よりずっと人気の無い、暖かな日差しを落としている廊下。
しんと静まりかえったそこに自分の落ち着かない足音だけが場違いに響き渡る。
 『……教室?』
何故か語尾上がりで頼り無い小さな返事を、
分かりました。としっかり捕まえ、もう一度、腕時計を見下ろした。
 「すぐ行きますから、そこに居て下さい」

3年校舎に足を踏み入れるのは、これまでの経験上滅多に無くて、
けれど必死で記憶の中から掘り起こした岳人の教室を目指し早足で進んだ。
もう皆校内から出ていってしまった後なのだろうか。
同じように閑散としていても二年校舎と異なっているのは、そこかしこに甘やかな花の残り香がしている事だ。
カタンと小さな物音に、顔を上げて辺りを見回す。
侵入者をはねつけるように締め切られている教室の扉に手を掛けて、日吉は静かに息を吸い込んだ。
 「遅え」
ガラリと扉を開けた瞬間視界に入ってきた岳人は、自分の席なのだろうか、
両足の爪先をぶらぶらさせながらそこに頬杖をついてぽつんと座り、少しだけ不機嫌そうに呟いた。
制服の胸ポケットには小さなピンク色の花を差している。卒業生の、この学校を出て行くという証。
こちらを向く大きな瞳にたっぷりと険が含まれているのは、おそらく気の所為では無い。
 「すみません」
 「話ってなんだ?」
訊ねたクセに自分はさっさと立ち上がり、机の上に乗せてあるカバンに荷物を詰め始める。
 「あの時の事を謝りたくて来ました」
ピク、と止まる指先。
けれどそれは一瞬の事で、先程より幾分か乱暴な手つきでカバンにいろいろと突っ込み続ける。
筆記用具、お菓子の袋、雑誌、MDプレイヤー。
 「もういーよ」
別に気にしてないし、と、そんな堅い表情で云われても。
彼の方に歩みを進めた途端、物凄いタイミングの良さでガタン!と椅子から立たれる。
話を聞く猶予すら与えてくれないつもりだろうか。
 「良くないです」
そのままぎゅうぎゅうに膨らんだカバンを重そうに手にした岳人は、くるりと振り返って扉付近に佇んでいる日吉の方を仰ぎ見る。
 「別に俺は男だし、キスなんて減るもんじゃないって思うけど、でも、からかってやったんならすげえ失礼だ。俺にも、その子にも」
予測していた通り、物事は絶望的な展開へ転がりかけている。
じゃあまた後でな、と脇をすり抜けていくその小さな背中を、
すぐ隣で揺れる真っ直ぐなその髪の毛を、

失うのは嫌だと。

そう思ったのと、身体が動いたのはほぼ同時だった。
腕を掴み、驚いて振り返った細い肩に指が食い込む。そのまま、教室の扉に薄い背中を押しつけた。
がしゃん、とぶつかった鈍い音がまるで非現実的で。
 「なにす…っ」
 「違うんです!」
教室内に響く大きな声にびく、と身体が揺れたのは岳人だけでなく日吉も例外ではなかった。
自分で自分の出した声に驚くなんて、どうかしている。
この人と居ると、知らなかった自分がどんどん引きずり出される。
どうかしている。それは恐怖でしかなかった筈なのに、今では確かに楽しくもあるなんて。
 「あれは、部活が終わって本当にいきなり渡されて、返せなかっただけです」
次の言葉を続ける為に息を継ぐ。舌は干上がり、まるで呼吸が上手くできない。
日吉の両腕によって扉へ背中を縫いつけられた岳人は、眉を寄せたまま呆然としている。
 「…俺は余り言葉を口にするのは得意な方じゃない、でも、からかったつもりは一度も無いです」
 「じゃあ、なんで」
怒りにつり上がっていた筈の両眉が、日吉の言葉が続くにつれ毒気を抜かれ、困惑でみるみる下がっていく。
 「なんで、キスなんか、」
大きな瞳は、強い不安と理解不能の感情で痛い程張りつめていた。
必要以上に両足に入れていた力が、自分の意志に反しておかしなくらい抜けていく。
いつもと違う雰囲気に怖くなって下を向くが、岳人は我慢出来ずにそうっと窺うように日吉を見上げた。
微かに息を吸う音。一瞬の、間。
 「………俺のこと、す…好き、なのか?」
無意識に口から零れた言葉を瞬間全速力で無かった事にしたくて、
けれど真正面でこちらを見ている後輩は、怖いくらい整った真顔で口を開いた。
 「はい」
この時、生まれて初めて耳が熱くなる音というのを聴いた。
岳人はそう思いながら、まばたきを繰り返す。顔がくしゃくしゃに歪んでいくのを止められない。
どうしよう、分からないけど、泣ける。卒業式の最中でさえ、びくともしなかった涙腺なのに。どうしよう。
 「…バカじゃねーの、お前、バカ、…す、好きって…」
 「自分でも信じられないんですが」
力が抜ける。その場にずるずるとみっともなく崩れ落ちて、
床にぺたんと尻餅をついてしまった岳人の後を追うように、日吉も自分の膝を曲げてしゃがみ込む。
 「わ、分かりにくいにも程があんだよ…っなんだ、それ…お前、バカだろ…!」
 「貴方にこんな事を云っている時点で底が知れてますよ」

でも好きなんです。と。

生真面目な顔で、生真面目な声で真っ直ぐに告げるから。
お前どれだけ俺がテンパったか分かってんのかどれだけ悩んだと思ってるんだとかでも云えなかったんだとか、
更に思いつく限りの悪態をぶつけながら、しゃくり上げながらそれでも続けようとする岳人に、
鼻水出てますよ、と日吉は制服のポケットから折りたたんだハンカチを差し出す。
ロマンチストで根が単純、感情的で涙もろい。
男前でいつも元気なこの人に隠された、そんな様々な表情。
彼も自分と出逢った事で、様々な自分が引き出されていったのだろうか。
 「先輩」
あの時云えなかった言葉は、驚く程スムーズに舌を滑り落ちていった。
 「訊いてもいいですか」
一拍遅れて、ほつれた髪のまま小さな頭が頷く。
 「うん」
ひったくって握りしめたハンカチから覗く、
涙と鼻水でぐしょぐしょの顔は、お世辞にも可愛らしいとは云えなかったけれど。

 「俺の事、好きですか」

自分の言葉ひとつでこんな風になってくれる、その事実だけでたまらなくなった。



 「うん。」

 

□END□

遠回りした分だけ、たくさんの色々な。