普段なら絶対会わないであろう場所で、


 「せんせ?…って……日吉じゃん」


 「………今日和、先輩」


出遭ってしまった。





シュンシュン、と。
時代外れにも程がある古臭いストーブの上で、錆びた薬蒡が湯気を吐き出している。

すぐ傍には真新しい加湿器が備わっているのに、少し変わった保健医は、
 「こういうのは雰囲気が大事なのよ」
と静かに笑って、切らしたらしい薬を取りに職員室に戻って行った。



朝から少し、調子が悪いとは思っていたのだ。何となく。
しかし時間が経つにつれ、眩暈と頭痛が酷くなってきたので、休み時間に保健室へ寄ると。

体温計に38度、と告げられた。

保健医は、よくここまで歩いて来られたわねえ。と軽く驚いたが、
これぐらい当然でしょう。と無表情のまま返した。
熱を出すなんて、自己管理がなっていない証拠ではないか。
むしろ恥もいいところだ。

しかし38度、と。
数字を見てしまうと、いけない。
それまで気を張っていた心身ともに、力が抜ける。
身体中に倦怠感が一気に押し寄せ、保健医が出ていった途端、ズルズルとソファにだらしなく凭れた。

 「…怠…」
言葉に出すと、益々怠さが全身を支配して、嫌になった。
それにしても熱を出すなんて、本当に久しぶりだ。
実家が古武術の道場を営んでいる事もあり、嫌が応でも鍛えられ、子供の頃から風邪一つひかなかったのに。

弛んでいる…。

ハア、と溜息を吐くと、それさえも腫れたような熱をもつ。
自分の身体が思うように動かない煩わしさに、心中で舌打ちした。

鉛のような脚を引き摺るように組み替えようとした、その時。



 「失礼しまーす!!」



聴き慣れた声が、耳の奥でぼわぼわと響く。

この声。

 「アレ?先生?居ねーの?」

歩き方。

予感は確信へと徐々に。

 「せんせ?…って……日吉じゃん」

 「………今日和、先輩」

変わった。



ソファの外側に立ち、上からこちらをくるんと見下ろす格好で、
「オッス」と返し、向日岳人は不思議そうな表情を浮かべて再び口を開いた。

 「こんなトコで会うなんて珍しーなー。元気?」
 「…まあ、それなりに」

元気も何も今朝、早朝練習で会ったばかりだ。
更に言えば保健室で遭遇しているのだから元気な訳無いに決まっている。

そんな事を瞬時に考えたが、口に出すのも億劫だったので、言葉を濁した。

 「先輩こそどうしたんですか?もう4時間目始まってますよ」

尋ねると、彼は「それがよー聞いてくれよー」と嬉しそうな困ったような妙な顔になり、
そのまま回り込んで自分の隣にポスンと腰を掛けた。ごく軽くスプリングが軋んで、頭痛が誘発される。

 「さっきの休み時間さ、2階へ行こーと思ってさ」

 「はい」

 「跳んだんだよな」

 「…階段をですか?」

 「うん。一段抜かしとかの要領でな。そしたら落っこちた」

 「先輩」

 「膝すりむいて、痛ぇーのなんのって。宍戸には馬鹿笑いされるしよー」

 「…先輩」

 「ん?」

仔リスのような大きな瞳がこちらを向く。
小動物系だとは思っていたが、こうして見ると益々リスっぽい。

 「階段は跳ぶものではありません。足をつかって降りるものです」

至極真っ当な意見を述べる…いや、注意してやると、ひとつ年上の相手は、眉毛を八の字に歪めた。

 「そんなの、面白くねーじゃん」

 「………そういうものですか」

 「そーゆーもんだよ。ところで先生ドコ行った?」

怒られるのが嫌なのか、はたまた説教から逃げる為か、
さっさと会話を逸らしつつ、ソファの正面にある平机にとん、と右脚を置く。

 「…あぁ、薬を取りに行きました」

スルスルと制服のズボンをたくし上げながら「薬?何の?」と問い返されたが、
何故か視線はその白い脚を追ってしまって、少し遅れて「俺の薬です」とようやく答えた。
露わになった膝小僧には、すりむいたと言っていた通り、派手な擦り傷が出来ている。

 「お前の?どーしたんだよ、カゼ?」

脚をそのままに、上体を屈めて平机の上に置いてある消毒綿の入った薬瓶を引き寄せ、
手慣れた仕種でパチンとそれを開け、ピンセットで丸い綿を挟みチョイチョイ、と傷口に塗布していく。

 「えぇ、恥ずかしながら」
彼の一連の動作に目を奪われてしまっていた。
今思い返せば、この返事も半分程無意識で成したものだと思う。

ひとしきり治療を終えた彼はズボンのポケットからカラフルなバンドエイドを1枚取り出して、終了。とばかりにそこへ貼り付けた。
頻繁にここに通っているのだろう。跳んで、転んで、怪我をして。
そんな気がする。
多分自分が危ないから。と注意をしても、きっとまた、無茶をしてはここに通うのだろう。
そんな気がした。

 「ふーん…」

ズボンを元に戻して、くる、と顔をこちらに向けて。
彼は右手で綺麗に切り揃えられた前髪を掻き上げた。

何をするのかと、少しだけ警戒した、その隙をついて。



ゴツ。



額に冷たいものが、あたった。







 「あつ。お前コレそーとー熱あるなぁ、38…9度は固い!」

 「…38度です」

息を呑むほどの、至近距離。
気がつけば、彼の小柄な左手が自分の前髪を掻き分けていた。

肌と肌が触れ合う感触に。

チリ…、と背筋に何かが走った。

 「…先輩」

 「ん?」

 「何時までそうしているつもりですか」

理解不能のその感じは、何よりも恐れとなって言葉に変わる。

少しだけ棘を含んだそれは、すぐにその効力を発揮して、

 「あ、悪い悪い」


ヒョイ、と額を離す。かといって気を悪くした訳では無さそうだ。
単なる彼の好奇心だったのだろう。突拍子な行動はいつもの事だ。

 「じゃ、俺先行くな。先生に言っといて」

 「分かりました」

じゃーな!といつものように無邪気に笑って、保健室のドアに手を掛ける。

ガチャリ。ドアノブを回す音が室内に響いて。

 「あ!日吉!」

名を呼ばれた。

 「…はい?」

少しだけ驚いて、振り返ると。

 「おだいじに!」

悪戯っ子のような笑顔でそう言って、パタリと扉は閉められた。





急にシン、と静まり返る部屋。
シュンシュン、と薬蒡が忙しなく湯気を吐き出す音が、耳の奥に残存する。





 「…なんだかなァ」





無意識に一人ごちた声は予想外に大きく、それがまた何とも言えない気分にさせられる。

おそらくこれは熱のせいだ。

心拍数が高いのも、妙に優しかった先輩も、そんな先輩の行動も。





そして。
不確かな気持ちを持て余して、保健医を待つ時間は



思いの外、とても長く感じた。

 

□END□

おでこごつん萌えです。