嘘のような負けっぷりだった。それはもう、言葉すら無く見事なくらい。
荒い呼吸に混ざり、耳の奥ではどくどくと忙しないくらい血液の音が聴こえる。
審判役の部員から試合終了の声が掛かっても、固いコートの地面にしゃがみこんだ身体を立て直す事が出来なかった。
全国大会に向けての本格的な練習が始動して、一週間。
今日は各自の実践的なプレイとそこから導き出される問題点を確認して今後の対策を練る為、
正式にオーダー登録されているダブルス同士で練習試合を行ったのだ。つまり、ダブルス1の宍戸・鳳ペアとダブルス2の自分達。
正直、正直に云う。ここまであいつらに太刀打ち出来ないなんて思っていなかった。
以前ダブルスを組んでいた宍戸達だって、関東大会の試合が終わってから全国出場決定まで確かなブランクはあった筈なのに、
そんなものを微塵とも感じさせない、完全完璧なプレイをやってのけた。あの、以前は俺達に連敗ばかりだったペアが。
もっともあの頃は、自分も侑士と組んでいたんだし、今とは状況もパートナーも全然違っているのだけれど。
唐突に、足首に何かがぶつかった。その微かな衝撃に気づいてぼんやり顔を上げると、
微かに肩を上下させ、汗を纏わせた日吉が冷ややかにこちらを見おろしていた。
「…そんなとこに座ってないで下さい。邪魔です」
そして日吉は顎先でくい、と向こう側を示した。
どうやらさっさとコートからベンチへ引き上げろ、という事らしい。
云われなくても分かってるよっていうかなんでお前そんな偉そうなんだよ試合に負けたんだぞ。
そんなささくれだった文句が口から出そうになったが、試合に負けた、という言葉の重みを改めてひしひしと感じてしまい、
結局唇を噛みしめるだけに終わってしまう。しかし次に組まれている練習試合がこのコートで始まる為、
立ち上がりのろのろと重い足取りでベンチに向かうと、日吉はタオルで首筋に流れる汗を拭いながらスポーツドリンクを飲んでいた。
見ただけで分かる。超不機嫌。全身に漂うトゲトゲした気配と、いつもより3割増しの仏頂面がいい証拠だ。
そんな奴の態度につられてしまったのか、こっちも試合に負けた虚無感がムカムカとした怒りと悔しさに変わってくる。
力任せにどかっと横に座ると、飲みかけのスポーツドリンクを脇に置いた日吉が、視線を合わせずぼそりと低く呟いた。
「あんた、ほんと無駄な動き多過ぎ」
「なに?」
聞き捨てならない台詞に思わず振り仰いで日吉を見たが、
奴はやはりこちらを無視して、膝の上に頬杖をついたまま淡々と言葉を続ける。
「アクロバティックやるならペース配分きちんとして下さい。無闇やたらに連発しても無意味です」
「な……」
「あと、後衛にいると視界があんたにかぶって向こうが見えない時がある」
「そ、そんなのはお前が動いてずらせばいいだろ!」
余りの一方的な言い分にカチンときて喰って掛かると、
日吉は煩わしそうに少しだけチラリと視線を合わせて、その度に位置をずらしていたらフォームが取れません、と云った。
そうだった。こいつのプレイスタイルは演武テニス。独特の構え方でボールを打ち始める。
いくら身体に自然に身についている型だとしても、対面にいる相手プレイヤーの動きが見えなければ最良の形で迎え打つ事が出来ない。
敵の動きを確認したいのに目の前に自分がちょろちょろしていたら、確かに邪魔だろうなと思う。思うけど。
なんかなあ、と聞いているうちムカムカは更に大きくなった。こいつ、自分のテニスしか考えてない。
「あのさ、これはシングルスじゃないっての!お前は譲歩って言葉を知らねーのか?」
「自分の主張や意見を控え、他の意見に従うこと」
意味は腹立たしい程正解だ。多分。侑士が云っていたのもだいたいそんな感じだった。
だけどダブルスに置き換えると少しだけ意味合いが変化するらしい。つまりこれは侑士からの受け売りである。
「そういう譲歩する気持ちが大事なんだよ。お互いの欠点をお互いがフォローする、そんで二人分のいいトコを出す!それがダブルスの醍醐味!」
「あぁ、なるほど」
平坦な相槌には全く感情がこもっていない。こうして自分が熱く語れば語る程、日吉の瞳は冷めていくように思えた。
こっちにだってこいつに云いたい事がたくさんある。だけど今のこいつには分からないだろう。
どこまで動いていいのか、フォローしてくれるのか、このボールは取っていいのか。
実際、これが初めての練習試合だから互いの連携が上手くいかないのは仕方無いとして、
こんなにもプレイ中動きにくくて窮屈だったのは、実はこれが初めてだった。
そう考えると、侑士はすごかったんだな、と今更ながらに痛感する。
ダブルスという制約の中で、自分を自由にのびのびプレイさせてくれた侑士。
「だけど、それで忍足先輩に頼り過ぎて自滅したんでしょう。今日だってあの時と変わってないじゃないですか」
「…ッ」
「せめて自分の体力くらい自分で推し量れるようになってから、そういう説教して下さい」
ああ。
もう。
お世辞にも気の長い方とは云えない、我慢強さなんてカケラも持ち合わせていないそんな自分が、
準レギュコートでやらかした事件の二の舞はゴメンだ、試合に負けてしまったとはいえやっぱ一応先輩としての余裕を見せねば、
とここまで必死に耐えてきたというのに。もう駄目だ、無理だ。
準レギュコートの二の舞、上等じゃないか。
「…っとにさっきから好き勝手云いやがって!」
気づけばベンチから勢い良く立ち上がっていた。その動きにつられ、
顔を上げる日吉。突然の怒声に何事かと周囲に居た部員達がちらほらと視線を寄越す。
「悪かったな体力無くて!すぐへばって!だけど侑士とはそれ込みで一緒に戦術考えて試合してたんだよ!侑士は視野が広かったからな!お前と違って!」
「…俺と?」
ぴくり、とその言葉に日吉が反応する。前髪に隠れがちな眉が、少しだけ曇っていた。
来るなら来い。喧嘩なら受けて立ってやる。というより、今絶賛売っているのは自分なんだから四の五の云わずさっさと買いやがれ。
「そーだよ、自分の事ばっか考えてる視野の狭いお前と違って!」
「…前のパートナーとあれこれ比べてぎゃあぎゃあ騒ぐのは、視野が狭いとは云わないんですか」
「なんだと!?」
「そこまでだ」
瞬間、凛とした声と共にパン、パンと硬い物体が頭上に直撃する。
突然襲った痛みに頭を押さえながら声のした方を見ると、ぶ厚いファイルを持った跡部が目の前に立っていた。
隣で日吉も同じように項垂れ頭を抱えている、という事はどうやら二人揃ってあのファイルではたかれたらしい。
「いい加減にしろ。みっともねぇ喧嘩しやがって。お前らレギュラー降ろされてぇのか?」
その有無を云わせない圧力を秘めた冷酷な言葉に、全身がピシッと緊張に包まれる。
無意識に日吉を見ると、奴もまた硬く強張った表情でこちらを見ていた。
切羽詰まった状態に立たされ、ようやく互いの気持ちが一致する。
答えは勿論、NOだ。
「やる!」
「やります」
「ならさっさとミーティングルーム行ってこい。宍戸と長太郎が待ちくたびれてたぞ」
そうだった、試合が終わったら各自ミーティングルーム直行で反省会だと監督に云い渡されていたのだ。
跡部にはたかれたおかげで熱の抜けた頭は、次第に正常な状態に戻っていく。
そろそろと日吉を盗み見れば、なんとなくバツの悪そうな顔で荷物をまとめていた。
奴の性格なら反省会を忘れるなんてミスはしないと思うので(ちなみに自分は負けたショックですっかり忘れ去っていたが)、
白熱した議論の方に気を取られて時間を忘れてしまった事が、少なからず不本意なのだろう。なんとなくそう思った。
今まで二人の間にあった険悪なオーラは跡部の登場でかき消されてしまい、なんだか腹立たしい気持ちもまるごと殺がれてしまったので、
オラ、行くぞ!と良く分からない言葉を掛けて日吉を促した。日吉もそうなのか、はいとやたら素直に頷くと、まとめた荷物を手に持った。
慌ただしく走っていく二人を眺めながら、跡部はやれやれとため息を吐く。
そんな様子を見ていた忍足が、試合待ちなのかラケットのガットでボールを弄びながら後方から近づいてきた。
「いやいや、気持ちええ程衝突するなあ。あの二人」
「感心してる場合か。ったく、あんなんでやってけんのか?」
先が思いやられる、と額にかかる前髪を面倒そうにかき上げる跡部とは対象的に、
忍足は持っているラケットを揺らして楽観的な声で云う。
「今後の事を見据えて、シングルスプレイヤーの日吉にダブルスの経験もさせときたい云うんが監督の狙いやろ?」
しかし、あくまでもシングルスの頂点にこだわる我の強い日吉が素直にペアを組むとは思えない。
そこでダブルス専門と自ら銘打つ岳人だ。
彼の特性はアクロバティックのような技術的な面と、パートナーに対する順応性の高さにある。
簡単に云うと、誰にでもとっつきやすい印象を与え、人好きするのが彼なのだ。
岳人とペアを組む事で、ダブルスの魅力や可能性を見せようと、監督は考えたのではないか。
忍足は全国大会のオーダーを見た時、そう考えた。そうしてそれは、以前の自分にもあてはまる事だったのだ。
彼と初めて組んで、互いに補い力を合わせながらゲームをメイキングする、ダブルスの魅力にはまったのだから。
「なら、岳人に任せといたら絶対大丈夫や」
そう云った直後、コートからどんどん遠ざかる岳人の小さな後ろ姿が、隣を走る日吉に跳び蹴りを入れる光景が目に入った。
「……多分」
「…先が思いやられるぜ」
その衝撃映像を目の当たりにし、思わず語尾を濁した忍足の横で、
跡部はとん、と自分の肩にファイルを乗せながら再び深いため息を吐いた。
□
あれから日吉とは、喧嘩したり喧嘩したりアドバイスをし合っては喧嘩したりそれでもなんとか二人で練習したり、している。
少ない経験から、気が長い方では無い事をお互い身にしみて分かっているので、
部活中何度も一触即発の危機に見舞われながらも、孤高を愛する日吉とうまくやるにはどうすればいいのか、
次第に掴めてきたような気がした。ここまでならセーフ、だけどここから踏み越えたらアウト。
というような、向こうの引いた境界線が自分の本能にも似た動物的勘?を通して分かってきた、といった方が正しいけれど。
日吉の境界線は鉄壁だ。誰も寄せ付けず、寄ってきたものは容赦無くはねつける。
そうして常に隙を見せず周りを窺い、入部当時から虎視眈々とレギュラーの座を狙ってきたのだろう。
下剋上。それが奴のスタイルなのだし、その事に対して自分が口を出す気もさらさら無いけれど、
こうしてダブルスを組んでみて、日吉という人物を少しずつ知っていく程に、けして崩れない鉄壁の境界線の前に立ちながら思った。
こいつはいつも一人で、誰にも心を許さないまま自分の野心と実力だけを信じ、疾走している。
だけどもし、疲れたり立ち止まってしまった時、こいつは一体どうするんだろう。
昼休み。弁当を忘れるというありえないような致命的ミスを犯し、
そんな自分の馬鹿さ加減に空腹も手伝って、しばらく机に顎を乗せたままぐったりと落ち込んでいたが、
それよりも部活の為に食糧確保!と復活する。教室を出てすぐの階段を一気に飛び降り、
運悪くそれを目撃した担任の怒声を背中で聴きながら、ダッシュでテラスのある交友棟へ赴いた。
相変わらず熱気と人混みでごったがえす購買フロアを早足で横切り、ランチルームまでたどり着くと、
ほとんどのメニューが売り切れの中、まだ残量に余裕があったらしいCランチの食券をなんとかゲットする。
ようやく一息つきながら、トレイを片手に並んでいると、やや左前方に見た事のある薄茶の頭がひょこ、と出ていた。
あれ、と思い首を伸ばす。あれはもしかして。
けれど、疑惑が確信に変わる前に配膳のおばちゃんに声を掛けられ慌ててトレイを差し出した。
並んでいる間にピークから少し時間帯がずれたからだろうか、いつもは困難を極める空席探しもいらないくらい、
ランチルームの人は少なくなっていた。大盛り指定で更に重たくなった食器をトレイに乗せてから、
先程からずっと気になっていた左前方に再び目をやると、後ろががらんと空いた為、今度は頭だけでなくブレザーの背中まで見えた。
まっすぐな、姿勢のいい後ろ姿。
近づきながらどんどん確信は強くなった。
そこに座っている奴の正面へトン、とトレイを置くと、薄茶の髪を微かに揺らし、日吉はふ、と顔を上げてこっちを見た。
「やっぱりお前か」
よっ、と挨拶しながらガタガタ椅子を鳴らし正面に座ると、日吉は怪訝そうな表情で何かようスか、と短く訊いてくる。
最近自分に対し出るようになった少しだけ砕けた口調は、それだけ慣れた証拠か?と思いつつやっぱり生意気でむかつく。
「べっつに〜。…あ、でも監督経由のビッグな情報はあるぜ」
お前知ってる?と訊ねれば、それだけで分かる訳無いでしょう。と無愛想に返された。
その間にも日吉はさくさくと湯呑みに残っていた茶を飲み干すと、箸を置いて空になった皿を重ねトレイを片づけ始めている。
この食器の種類、さてはお前Aランチだったな、リッチじゃねえかと思考が脱線するのをなんとか元へと引き戻し、
貴重な情報をあっさりと開示した。普段ならもっと勿体ぶって日吉を焦らしてやりたいところだが、
どっちにしろこれは一人で持っていても意味の無いものなのだ。
「じゃー教えてやるよ。青学のダブルスオーダー、大石と菊丸は決定として」
青学、と聴いた瞬間俯いていた日吉がピク、と反応し、微かに顔を上げた。
瞳には先程まで無かった、すうっと冷ややかな闘志が静かにともっている。
まるで自分を睨みつけてくるようなそのきつい両眸に、背中がぞくりとした。刀の切っ先のような日吉の瞳には力がある。
どんなものでもねじ伏せる、屈服させてみせるという意志の力強さがにじみ出ているのかもしれない。
「監督は乾と海堂を予想してる。あたるなら多分俺達」
「乾…と、海堂」
「関東で宍戸と長太郎が試合してるから、大体どんなテニスやるかはお前も分かってるだろ」
相手のあらゆるデータを収集し、理論的に試合を予測する乾。そして粘り強くがむしゃらに、好機の波を引き寄せる海堂。
執念ともいえるようなそれで、かつて宍戸や長太郎をぎりぎりまで追いつめた。
「…長期戦に持ち込まれるとやっかいな相手ですね」
関東大会の試合を思い出していたのか、しばらく黙り込んでいた日吉が、微かに眉を寄せ指で顎をなぞりながらぽつりとそう告げる。
その正確な判断に頷いて、続けるように口を開いた。
「多分乾は俺らの事を調べまくってある。だから、絶対長期戦で勝負してくると思うんだ」
「向日さん、体力無いですもんね」
「うっせーよ。で、俺は考えた」
ピ、と人差し指を日吉の目の前で立て、大きく息を吸ってからきっぱりと云った。
「長期戦に持ち込まれる前に、奴らを倒しゃーいいんだ」
人差し指にとどまっていた日吉の視線が、ゆっくりと自分の方に向けられる。
その静かに燃えた瞳の持つ迫力に臆しかけたが、ぐっとこらえ自分の考えた作戦の続きを話す。
「俺のアクロバティックで攪乱。んでお前の演武で叩きのめす。反撃与えられねーくらい、一気にいく」
「…短期決戦、ですか」
日吉が呟く。この青学ダブルス相手に一度でも守りに入ったら、多分勝つのは難しくなる。
緩急をつけられ、ゲームの支配権を奪われる前に、自分達が全力で攻撃を仕掛ければいい。
幸い日吉も自分もやられる前にやる、というような好戦的なタイプだから、守備よりも攻撃の方に長けている。
「この作戦は、お前がいなきゃ成り立たねえ」
悔しいけれど、自分一人だけではそんなに多くポイントが取れない。
フォローがあって初めて力を発揮するアクロバティックだからだ。多分その事は、同じコートにいる奴が一番分かっている事だと思う。
未だぎこちなくばらつくダブルスの練習時でも、やはり主要な点を取っていくのは日吉だからだ。
「……」
「もちろん、他にいい案があるんならそっちでもいいけどな。お前も何か…」
「いいですよ」
考えとけよ、と自分が云い終わるのを待たず、日吉の声が重なった。
その為一瞬何を云われたのか分からずぽかんとしていると、奴は再び、それでいいです、と云う。
口の端に、挑戦的な笑みを浮かべながら。
「面白いじゃないですか。試合開始から一気に、全力で叩く。まさに俺達向きの作戦ですね」
そう云いながら、片づけたトレイを手に持ち日吉は立ち上がった。
「今日からそれでフォーメーション、組んでみましょう」
「…って、あ、おい!」
ガタン、とイスが床に擦れ、大きな音が響く。奴につられて自分も立ち上がったからだ。
トレイを片手に日吉がこっちを見た。身長差の所為で見おろした、といった方が本当は正しいが。
「いーか、あくまでもこれはダブルスなんだからな。好き勝手すんじゃねーぞ!」
きっちりクギを刺すと日吉は一拍置いて、あんた、ほんとにダブルス好きなんですね。と呆れたような声を出した。
けれど、いつものように人を小馬鹿にするような云い方では無く、本当になんというか、しみじみと云われてしまったので、
あったりまえだろ!と胸を張って云い返してやった。当然だ。だって自分はダブルス専門なのだから。
「…まぁ何でもいいっスけど。俺、先失礼します」
あと5分で本鈴鳴るし。
とんでもない事を平然と云い捨て、きびすを返しさっさと食器を返しに行く日吉の背中をにらみつけながら、馬鹿野郎!と叫ぶ。
「食いっぱぐれたらおまえの所為だぞ!」
慌てて席につき、勢い良く箸と茶碗を持った。
日吉は一度も振り返らなかったが、知りませんよそんなの。と実につれなく腹立たしい返事だけは、律儀に寄越したのだった。
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