「ゲームカウント6-3!ウォンバイ向日・日吉ペア!」

     コートに向けて高らかに響きわたる、自分達への勝利宣告。
     青空の下、同時に二人顔を見合わせて、初めて互いに笑顔になった。

      「やったな!」
     ラケットを持っていない方の拳を日吉にうりゃ、と突き出し云ってやると、
     ま、こんなもんでしょ。とつれない返事と共に掌で牽制された。そのわりには口許が僅かに綻んでいる。
     本当は嬉しいくせに、日吉は普段そういう感情を顔にも口にも滅多に出さない。もったいない奴だとつくづく思う。
     こんな嬉しくて楽しくておめでたい時に喜ばないでどうするんだ。

     全国大会まで残すところあと二日。最終調整と銘打って行われた練習試合で、
     自分達ダブルス2は今まで見事なくらい負け続けていた宍戸・鳳ペア相手に、今回初めて白星を飾った。
     戦略はもちろん短期決戦。アクロバティックで試合展開の主導権を掴み、演武テニスでポイントを取る。
     あの時、偶然会った食堂で話を持ちかけてからというもの、上手い具合に乗り気になってくれた日吉と共に、
     部活中、そしてたまに部活が終わったその後も、居残って練習を繰り返し、互いのペースや動きを合わせていった。
     相変わらず練習しているのか喧嘩しているのか分からなくなる程口論して、ごくたまに互いの意見に同意し合って、
     それでも少しずつ、本当に少しずつだったけど、自分達なりのダブルスフォーメーションが整えられていった。
     そんな時間を通して分かった事がある。
     それは、ダブルス専門と自信満々に宣言していた自分が実は、パートナーのプレイを全く把握出来ていなかったという事だ。
     侑士と組んでいた時は自分の好き放題跳ねて、動いて、ボールを打って、それでも何も云われなかったからこれでいいんだと思っていたが、
     ここにきて日吉と組んで、今までやってきたそれは大きな間違いなのだという事をひしひしと思い知らされた。
     何も云われなかったのは、全て侑士が後ろでフォローをしてくれていたから。
     その反面日吉は違う。動きにくい。邪魔。もっと背後に意識を向けろ。
     と、フォローはおろか云いたい事を歯に衣着せずにずけずけ云うから、そのたび憤慨はしたが自分の反省点にも気がつけた。
     たまに無視して好き勝手やろうものなら、背後から自分めがけてボールが飛んでくるのだから嫌でも改善しなければならない、
      というのが正しい理由なのだけれど。何も云わずに全部引き受けてくれた侑士のやり方も優しさのひとつだと思う。
      だけど、日吉のようなやり方もあるんだな、と奴と組んで色々な事を考えさせられた。
      気遣いなんて欠片も無いし口だって相当悪いが、自分の為、そして自分達が勝利する為を思って云ってくれているのだと分かるから。

     コートからベンチに戻る途中、鬱陶しそうに前髪をかき上げ、
     額に浮いた汗を手の甲で拭いながら、日吉はこちらを見ずにぼそりと呟いた。
 
      「ま、あんたにしては上出来でしたよ」
     まったく、先輩に向かって何をか云わんや、である。
     しかしこの慇懃無礼さは今に始まったものでは無いし、
     これは一応この男なりの誉め言葉なんだと先輩らしく譲歩して、あっさりと受け流してやる事にした。
     これが負け試合だった場合は跳び蹴りのひとつやふたつ、この不遜な後輩に覚悟してもらわなければならないところだが、
     幸運な事に今日は最高潮に気分がいい。俺の度量の広さに感謝しろよ。そんな事を思いながら、軽やかな足取りと共に鼻歌まじりでベンチに戻った。


     □


      「ほんと、驚きましたよ」
     ロッカーからシャツを取り出しそれを羽織りながら、長太郎が感心したような声音でしみじみと告げる。
 
      「あの試合展開は反則だぞお前」
      その言葉を継ぐように、早々と着替えを済ませぐったりとテーブルに腰かけていた宍戸が頬杖をついたまま苦々しい面もちで云った。
 
      「反則ってなんだよ。お前らが俺らのスピードについてけなかっただけだろ」
      ふふんと得意気に云ってやると、対する宍戸は反撃する気力も無いらしく、
      まあそーだけどよ、と珍しく殊勝な言葉だけが返ってくる。本日、部活内で行われた練習試合が終わってからも、
      ダブルス組は自主的に残って別コートで練習をしていたから、皆全身くたくたに疲れている。
      現に自分もシャワーを浴びている最中、半分睡魔に意識を奪われていたのか、
      立ったまま船を漕いでいたらしくそのまま正面のタイルに額をぶつけ目が覚めたという有り様だ。
 
      「こっちが試合展開を把握するより早く、決められちゃうんだもんなぁ」
      その時の状況を思い出しているのか苦笑を浮かべそう云いながら、
      ユニフォームから制服へと手早く着替えを済ませた長太郎が奥から鞄を引っ張り出し、ロッカーを丁寧に閉める。
      対戦相手から期待していた通りの反応が返ってきて、知らず口の端がにこにこと疼いてしまう。
      自分達のダブルスがちゃんと通用している。なによりその事が一番嬉しかった。
      濡れた髪をタオルで乾かしながら、緩む口許を引き締め彼らの方に視線を向けると、
      ロッカー前からいつの間にか移動した後輩は机上に置かれた正レギュラー用の部誌をめくりつつ、
     vすぐ傍で睡魔に敗れ半分程上体が机に沈みかけている宍戸に声を掛けている。
      「練習、つき合ってくれてありがとな」
      本来ならもう少し早く上がれる筈だったのに、自分達がずるずると対戦形式の練習を引っ張った所為で結局最後まで、
      けれど嫌な顔ひとつせず居残ってくれたダブルス1の二人に礼を述べた。
      こういう心の余裕が自分の中に生まれているのも、今日の勝利のおかげだと思う。
      宍戸は半睡状態ながらもその言葉はきっちりと聴いていたらしく、崩れていた体勢を改めて直し頬杖をついて勝ち気に笑う。
 
      「そりゃあな」
 
      「やっぱり、勝ちたいですからね」
     明後日の青学戦。
      宍戸の言葉を受け、部誌から顔を上げた長太郎もにこやかに微笑んだ。
      一度勝利をおさめていても、驕りなど何処にも無い。今の自分や日吉と同じように、あの頃初めてペアを組み、
      関東大会の前日までひたすら地道に練習を続けていたそんな二人の姿を思い出し、自然こちらも笑みが浮かぶ。
 
      「そーだな!勝ちたいもんな」
      きっと、絶対、その為に今ここに居るのだから。


     □


      部室から出ると、暮れた太陽の余韻を引きずるような熱気と、むっとした草の匂いに全身を包まれた。
      どこにも逃げ場の無い暑さ。けれど自分はこの季節が好きだ。
      試合がたくさん出来る時期だし、夏休みもあるし。(その半分以上は部活に消えるけど)
      夜といわれる時間帯なのに未だ闇の色はほんのりと薄くて、なんだか意味も無くわくわくしてしまう。
      コートの横、ぽつぽつと等間隔で灯されているライトの下を歩きながら、右手でちゃりちゃりと部室の鍵を鳴らした。
      あの後、帰り際に部誌の確認をしていた長太郎が、今日の当番は日吉だという事を自分に告げていったのだ。
      まだ書いてないみたいなんで、先輩あいつ見かけたら云っておいて下さい。そして長太郎と宍戸は帰っていった。
      一人部室に取り残されたまましばらくぼんやりとして、身体も疲れていたし書き置きだけしておいて自分も帰ろうかとも思ったが、
      少しだけ、日吉の存在が胸のどこかに引っかかった。そういえば、練習が終わってから奴の姿をぱったりと見ていない。
      シャワールーム?にしても時間が経ち過ぎている。まさかハードな練習の余りどこかでぶっ倒れているんじゃないだろうな、
      と、ほんの少し心配してしまったが最後、落ち着かなくなってしまい、結局一旦部室の戸締まりをして、部誌を片手に外へ出た。

      正レギュラー専用コートは跡部によって既にライトが落とされている。
      人が居ない事を確認して裏手に廻り、心持ち足早に砂利の混ざった道を進んだ。
      どんどん歩いていくと、折れ曲がった向こうで夏の闇にぼんやりと淡い明かりが浮かんでいる。
      この明かりの先にあるのは、準レギュラー達の使用するコートだった。道を折れ、視界が拓けた瞬間、ぬるい風が頬に触れる。
      乾いた打球の音、眩しさに思わず目を細めて音のする方を見れば、コートを照らすライトの下で日吉が一人、そこに立っていた。
      ここからだと後ろ姿しか見えなくて、だけどそのフォームや動きで奴だと分かった。
      部活が終わって、ダブルスの自主練も終わって、それなのに。その後で。
      キシ、と金網を掴む。胸の中がなんだか良く分からない感情でいっぱいになる。
      もしかして、こいつは、今までもダブルスの練習が終わった後に一人きりで、このコートに立っていたのだろうか。
      なんだか良く分からない感情は、推測の域を出ないその考えに結びついた途端、自分の中で更に絡まり訳が分からなくなった。
      白く大きなライトが、日吉の孤高な後ろ姿に目映い光を降り注ぐ。ここまではセーフ、ここからはアウト。日吉が自分に引いた線。
      今まで二人で積み重ねてきた練習量と時間、そして今日の勝利で無意識に薄れていたそれが、この時急に目の前に突きつけられたような気がした。

       「ひよし!!」
      胸を占める理解不明の感情は焦燥となって、自分に奴の名を呼ばせる。
      背後からぶつけられた突然の声に驚いたのか、後輩は弾かれたようにこちらを振り返った。
 
      「……向日さん」
      自分の姿を視認出来たのか、奴らしくない呆然とした表情でそう呟いた後、
      けれど日吉はいつも浮かべる嫌そうな顔では無く、微かに俯ききまり悪そうな顔になった。
      金網を掴む指の力がじわりと強くなる。二人の間を隔てる開閉式のそれを、何故か自分は開ける事が出来ない。
      日吉が佇むコート、その場所に足を一歩踏み出す事が。
 
      「ぶ、部誌さ、今日お前当番だから、ちゃんと書いとけよ!」
      当初の目的を思い出し、重く垂れ下がった沈黙を打ち破るように叫ぶと、
      しばらくじっと俯いていた日吉が、何かを吹っ切るように顔を上げ、すたすたとこちらに向かって歩き出した。
      そしてそのまま真正面に立つと、ちらりと左手に視線を落とす。
 
      「わざわざ持ってきてくれたんですか?」
      金網を掴む右手には鍵、左手にはしっかりと握られた部誌。良く考えるとすごく変ないでたちだ。
 
      「じゃなくて、いやそうなんだけど、お前がどっかで行き倒れてんじゃないかと思って」
      探しにきた、と慌てて訂正したものの、ますます変な気持ちになってしまった。
      そんな自分をよそに、俺はどこかの野武士ですか、と日吉は微かに眉を寄せる。
      額から頬にかけて伝う汗は、顎までくると透明な滴になり首筋やユニフォームの襟に落ちて滲んだ。
      その様子を眺めながら何度か逡巡し、だけど息を吸って思いきって金網の扉を開け放ち、乱暴に部誌を突き出す。
 
      「いいから!持ってけ!書くの忘れんなよ」
      しょっちゅう忘れて翌日跡部に怒られる自分が云える筋合いでは無いのだが、とにかく無理矢理日吉に渡す。
      まるでこれしか用は無かったんだと云わんばかりに。奴の背中を見て、胸の奥にしっかりとこびりついてしまった動揺を、隠すように。
      日吉は胸のあたりにぐいぐいと押しつけられるそれを片手で受け取りながら、分かってますよ。と簡潔且つ迷惑そうに応える。
      けれど応えた後、またすぐにたっぷりと沈黙されてしまい、内心おおいに狼狽えた。
      帰る。帰ろう。気まずさに耐えきれず、意を決してきびすを返しかけた途端、正面に立っていた日吉がす、と僅かに息を吸う気配がした。
 
      「また、殴られるかと思いました」
      その言葉にぎょっとして、返しかけたきびすを元に戻す。
      見上げると、奴はやはり少しだけきまり悪そうな表情で視線を地面に向けていた。
      あの日、今と同じように準レギュコートで淡々と練習をしていた日吉。
      無愛想に憎まれ口を叩いて、挙げ句の果てには殴り合いの喧嘩になった。
 
      「一人で、練習してたからか?」
 
      「はい」
      まるであの時の出来事が遠い昔みたいに感じる。
      ダブルスを組む自分を無視して、頑なに一人練習を続けていた日吉に腹が立って、むかむかして。
      それなのに、状況は似ている筈なのに、どうしてだか今は別の感情が胸を占有していた。怒りや腹立ちでは無く、もっと別の。
 
      「…シングルスを、諦めらんないからか?」
      云ってやると、微かに瞠目した日吉がこちらを見た。視線が合う。
      目の前の男の、濡れた喉仏がこくりと上下に隆起した。だから、殴られると思ったのだろうか。
      そんな後ろめたさを引きずって、けれどずっと今まで、一人この場所で練習をしていたのだろうか。
      黙ったきりの日吉を見つめたまま、小さくため息を吐いた。
 
      「別に殴んねーよ。むしろすごいって思う。お前の気持ちと、その練習量」
      どこまでも頂点を見据え、どこまでも貪欲に勝利を求める。
      だけどそれはまるで自分自身の身体を痛めつけているみたいで、
      目が眩む程のライトに照らされ練習するその背中は、必死で関東大会の償いをしているように見えて、なんだかひどく。
      そうだ。胸の奥で絡まっていた複雑な感情は、ようやくひとつの答えにたどり着く。そうだ、ひどく、自分はかなしくなったのだ。
 
      「だけど、やり過ぎはあんま良くない。明後日が本番なんだからな」
      お前ひとりがこんなに頑張らなくても、いろいろなものを背負わなくても、試合になれば隣に俺が居る。
      侑士も、跡部も、宍戸も長太郎もジローも樺地もいる。だから。この静けさに満ちた雰囲気をかき消すように、にっと笑った。
 
      「そんで、明後日は俺と一緒に絶対勝つぞ、日吉」
      重荷が少しでも軽くなるように。楽になれるように。
      あの時の結果を新たに払拭する、そのチャンスを最大限に発揮する為、自分は、自分達はダブルスを組んだのだ。
      奴にとって自分の反応や言葉は予想外だったのだろうか、まるで面食らったように日吉は無言でこちらを見おろしていた。
      その瞳にはいつもの小生意気な冷淡さではなく、微かな驚きが滲んでいる。奴が本当は、どんな気持ちで練習をしていたかは分からない。
      見つかった時一体何を思ったのかも。自分の印象だけで決めつけてしまうのは良くない事だとも知っている。だけど。
 
      「…そうですね」
      日吉が頷く。しっかりと、確かな意志を持って。
 
      「勝ちましょう」
      だけど、その短い言葉と、今こちらに向けられている力強い眼差しはきっと嘘じゃないと思う。
      シングルスもダブルスも正レギュラーも準レギュラーも関係ない。ただ勝ちたいという同じ気持ちを共有している。
      今はもうそれだけで、十分だった。
     

 




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