夏の暑い日薄茶の髪の毛。
憎まれ口と人を小馬鹿にした視線。
天地神明、神に誓って、こんな男は好きにならない。
Reset
最初聞いた時、自分の耳を疑った。
「…へ?」
侑士がシングルスへ転向するという。
確かに関東大会で青学相手に敗北をきしてしまったし、
敗者は即切り捨て主義のこのテニス部に、もう3年も所属しているのだから、
負けた自分達がどんな処遇を受けるのかなんて過去の思い出から痛いくらい分かっていた。
だから最初、理解出来なかった。
特別枠で全国大会に出られる事も、
自分たちの引退が延びた事も、
そしてオーダーが盛大に変わっているという事も。
「すまんな、岳人」
本気で済まなさそうに詫びる侑士。
「ダブルス専門て云うたのに」
大好きな大好きなパートナーの侑士。
「気にすんなよ!それよりまた、試合できてすっげー嬉しいよな!」
ほんとはなんでって馬鹿野郎って俺達最強ダブルスじゃんって云いたくて悔しくて泣きたくて仕方なかったけど、耐えた。ひたすら耐えた。
だって知ってる。
侑士はほんとはシングルス向きの選手だって、だけど自分のフォローも完璧にこなすからってダブルスを組んでいたのも。
だから、試合で一人占めしたいけど、侑士以上に侑士の力を知っている自分は、一番に彼のシングルスを見たいとも思っていた。
「くそくそ、俺も試合に出てーなー」
けれど、どうしたって重苦しくなってしまう場の空気を紛らわそうと、
なんの気なしに口からポツリと出したのがもろに本音だったので、一瞬背中がうすら寒くなってしまった。
侑士の門出を祝うつもりだったというのに。
「…あぁ、岳人はまだ聞いてへんのか」
やっぱり余程コタえてるんだろうか。コタえてるんだろうなあ。
「日吉とダブルス」
その時、ひっそりと落ち込んでいる自分の耳に突然降ってきた言葉の意味がさっぱり分からなくて、
微かなタイムラグを経てゆっくりと顔を上げる。
「へ?」
「オーダー出てるで、それで」
「…へ?」
□
日吉若はひとつ下の後輩だ。
「そういう訳なんで、よろしくお願いします…あぁ、」
コートでラケットを握ったまま短くそう告げた後、尊大そうに顎をすっと上げながら、正面の男は言葉を続ける。
「足を引っ張らないで下さいよ。俺は忍足先輩じゃないんで」
「…!」
日吉若はひとつ下の、クソ生意気で可愛げの無い性格の悪い、後輩だ。
「云われなくても!それよりお前こそ足ひっぱんなよな!俺の!」
「先輩よりはましだと思います」
無表情でさらりと切り返す日吉に、ぎりぎりと自分の歯の鳴る音が聴こえる。
侑士から今回のオーダーを聞いた直後、ダッシュで監督のところへ向かった。
実は侑士がシングルスとして試合に組まれているというのも未だ正式な発表はされていなくて(おそらく来週の頭だろう)、
跡部から侑士に伝わったものを自分が彼に聞き出したのだ。だけど監督は出張で留守だった。
途方に暮れてとぼとぼと部室に戻る途中、コート脇を通り過ぎた時に、自主練をしている日吉を見つけた。
黙々と一人、準レギュラー用のコートでボールを打っている。
それは少し鬼気迫る雰囲気で、声を掛けるのを一瞬ためらったものの、勇気を出してコートに一歩足を踏み入れた。
奴は監督の信頼も厚いし、次期部長と噂されているような男だ。もしかしたらもうオーダーの中身を知っているかもしれない。
そう思って声を掛けてみたのだが、予想通り日吉は自分と組む事を知っていて、なおかつさっきのような憎まれ口を叩いたという訳だ。
「用はそれだけですか、なら出てってくれません?気が散るんで」
ボールを握ったまま、手の甲でぐい、と額の汗をぬぐう。全然こっちを見ない。
まるで存在を無視するようなそれに、なんだか無性にカチンときた。
「お前なあ!それがダブルスを組む相手に対する態度か?そうやって、今は一人で練習してるけど、試合は二人でするんだぞ!?」
思わず怒鳴ると、日吉がうるさそうにこっちを見る。瞬間ヒヤリとしたものが背筋を伝った。
「すいませんね、俺はあんたみたいになれ合いが好きじゃないんで」
きつい視線。
明らかな敵意を含んだ両眸と声と言葉に、頭の芯がジリ、と焦げつく。
「試合を完璧にこなせばいいだけでしょう。それ以上の事なんて別に必要ない。それとも仲良しごっこから始めなきゃ、あんたとは組めないんですか」
向日さん?
たまにこいつが使う、「先輩」という敬称を抜いたその呼び方を、何故かずっと前から気に入らない、と思っていた。
けれど今こうして呼ばれてみて分かる。こいつは先輩を先輩だと思っていない。常に対等の立場で見、聞き、話している。
実力さえあれば年の差なんて関係ないと。
これは、挑戦だ。
「で?」
「殴り合いの喧嘩をしたんですか?」
無言で頷くと、部室備え付けの机に頬杖をついてスナック菓子をつまんでいた宍戸と、
すこし離れたロッカーのある場所で着替えをしていた長太郎が、うわあ…と呆れたような哀れむような表情をそろって投げて寄越した。
左の頬が痛い。ずきずきする。
これは自分への挑戦だ。
昨日の夕方。準レギュラー専用コートで日吉と対峙し、奴の対応からそんな答えを導き出した瞬間、気づけば手が出ていた。
これには奴も予測しない行動だったのだろう。思い切り右頬に拳を受け、
一瞬虚を突かれたような顔でこちらを見た後、今度は自分の左頬にパン、と鋭い衝撃が走った。
全然動きが見えない、切られるような平手打ち。
そこからはもう何がなんだかめちゃくちゃで、分からないし覚えてない。
完全に頭に血が昇ってしまった自分は、一体何事かと駆け寄ってきた、同じく自主練をしていた準レギュラー達に取り押さえられ、
騒ぎを聞きつけたのか部室から走ってきた侑士が視界に映った時、やっと落ち着きを取り戻したのだった。
日吉は謝らなかった。先に手を出したのは自分だし、だけど。
「しっかしあの日吉相手に…激バカだなお前」
「有段者ですよあいつ。まあ先輩らしいと云えばらしいですけど」
「だってあいついちいちムカつくんだよ…っだー!思い出しただけでムカつく!」
勢い余ってダン!と机を叩くと、すぐ横に座っていた宍戸が迷惑そうに目を細めた。
無骨な指先でちんまりとしたスナック菓子を摘みながら、
「つーかお前らそんなんで大丈夫なのかよ。全国までもう日がねーんだぜ?」
至極真っ当な意見を述べられ、うっと返事に詰まってしまう。
「ダブルスを組む以前の問題ですよね、今のままだと」
制服に着替え終わった長太郎が、ロッカーを閉めてくるりと向き直ると、
長身を軽く屈めながら近くまで寄ってきてさっと菓子をつまみ、パクリと口に放り込んだ。
「そろそろ本格的な練習が始まるってのに、あいつもあいつでまだ準レギュの部室使ってるしよ」
その言葉に、ぴくりと耳が反応する。
「あいつ、移動してきてないのか?」
今日の練習が終わる際、改めて監督から全国大会のオーダーが発表された。
日吉は準レギュラーから正レギュラーへと昇格したので事前に跡部から部室の移動を命じられている筈だ。けれど奴が来る気配は無い。
「試合で勝って掴んだ正レギュラーの座じゃないから、自分はここを使いたくない、ってさ」
宍戸が頬杖をついたままで、気持ちは分かるけどなぁ、と小さく呟く。意外に宍戸とあいつは仲がいいのだ。
だけど。
なんだそれ。
ツキリと。
左頬が痛む。
無性に腹が立った。
「…なんだよ、それ!ふざけんなよ!」
ガタリと乱暴に席を立ち、ロッカーの方へずかずかと歩み寄る。
正レギュラー用のロッカーはぴったり7つ。使用出来る人数が本当にぴったりと限られているのだ。
試合の控えの補欠選手でも、ここは使えない。一番端に備え付けられている空きロッカーを勢い良く開けて、
中に入っていた細かな備品や何やらを棚やゴミ箱に突っ込んでさっさと片づけていく。
「…?おい、何やってんだよお前」
突然の行動に驚いたのか、宍戸の少しだけ怪訝そうな声が背中にぶつかった。
腹が立つ。試合に勝ってない、だから正式なレギュラーじゃない?今更、そんなふざけた事を考えているのだろうか。
だからあの時も準レギュのコートに居たのだろうか。それじゃあ、あいつと同じ立場の侑士や自分はどうなるんだ。
オーダーは組まれているのに。全国に、試合に出る事が出来るのに。
「そんなのおかしい」
「はァ?」
振り返って宍戸と長太郎をにらみつけた。
一体何が起こっているのかよく分からないといったような表情で、二人は呆然とこっちを見ている。
「俺、日吉連れてくる」
「はあ!?」
「あいつ、まだ部室にいるよな、行ってくる」
「え、ちょっと待って下さい…先輩っ?」
後輩の控えめな制止を無視して、部室の扉を開け外に飛び出した。
途端鼻や口から肺にかけて、緩やかな熱と湿気を含んだぬるい空気が忍び込んでくる。
それを大きく深呼吸して身体にためて、ダッシュで階段を駆け降りた。なんだか昨日から走ってばっかりだ。
それも全部が日吉関連。あの生意気な、大嫌いな。まるで自分があいつを追いかけてるような錯覚までしてくる。
そしてそんな考えさえも、むかむかと腹が立って仕方が無かった。
なんでこんなに。
□
「日吉!」
扉を開けざま大声で名前を呼ぶ。
正レギュラー専用の部室よりは遙かに人数を収容出来るそこは、自分にとっても馴染みのある特別な場所だった。
侑士と組むまではいつもここで先を見ていたから。久しぶりに来た所為か、そんな少しだけ昔を思い出して、一瞬ぐっと胸が詰まった。
明かりはついているものの、人気の無いがらんとした部室で何度か名前を呼ぶと、
黒いTシャツ姿の日吉が斜め前方のロッカーの陰からぬ、と姿を現す。
シャワーを浴びた後だったのか、いつも目のところまでかかっている長い前髪の先からポタポタと滴がこぼれていた。
目が合うと露骨に嫌そうな顔をする。こっちだって好きで来た訳じゃねえんだっつーの。
日吉の顔を見た途端、収まっていたむかむかがぶり返してきてしまった。
同時に、奴の唇の右端についた痣に対し、罪悪感がよぎったのも確かだけど。
「何の用ですか」
無愛想な声。
「お前、荷物全部出せ」
「…は?」
日吉の眉が微かに歪む。構わず奴の前まで歩み寄って正面に立ち、びしっと部室の扉を指さした。
「お前のロッカーはここじゃねぇ。正レギュの部室だ」
「……」
「だから、移動しろ」
そこまで聞いて、日吉は首に掛けていたタオルでゆっくりと自分の濡れた首筋をぬぐった。
「云いたい事はそれだけですか」
「先輩命令だ」
ちら、と伏せられた瞳がこっちを見た。多分この言葉は奴にとっては地雷だ。
上下関係のくだらなさ。だけど、だからわざと使った。
首筋にあったタオルの端を顎の下まで持っていった後、少しだけ何か考えているようだったが、
突然それを打ち切るように日吉はくるりときびすを返し、すたすたと自分のロッカーへと向かった。
「俺はここで結構です」
「お前はレギュラーだ。お前の場所はここじゃねぇ」
あきらめずに食い下がる。けれど日吉は自分なんて眼中に無いといった風にさっさとロッカーから制服を出して着替えていく。
「宍戸に云ったんだってな。試合に勝ってなった正レギュじゃないから、使えないって」
ぴくりと。
釦に触れていた指先が止まる。日吉の動きが一瞬、止まる。
「それがなんだってんだよ。勝っても勝ってなくても、お前は今氷帝のレギュラーなんだ。ならちゃんとレギュラーらしくしろよ」
日吉の気持ちだって、本当は分からない訳じゃない。
それは余りにプライドが高くて、勝ちだけを求めて、そして孤高で。
氷帝でテニスをするには、奴はぴったり性格だと思う。
だけど、それだけじゃ駄目な時だって、無理な事だってあるのだ。
気づけば、いつの間にか日吉がこちらを見おろしていた。静かな、けれど芯から冷めた眼差しだった。
負けじとにらみ返すと、その薄い唇がすっと開かれる。
「俺は、試合に負けても正レギュラーの顔をしていられるような神経を持ち合わせてない」
これは、この言葉は、日吉自身に向けられたものであって、自分に対してぶつけられたものじゃない。
日吉はまだ己を責めている。関東大会のあの試合で、勝利を掴めなかった事を、プライドの高い日吉はずっと悔いている。まだ、引きずっている。
けれど、他人だけでなく自身にも厳しい日吉の言葉は、自分の胸を容赦無く抉った。
「…それは、俺だって同じだよ」
無意識に両手は拳を作っていた。今度は奴を殴る為じゃない。溢れそうになる自分の気持ちを押さえる為だ。
「俺だって試合に負けた。だけどレギュラーになった。
だからって恥ずかしいとは思わない。今度は悔いの無いように、もっといいテニスをするだけだ」
目の前の男が、少しだけ驚いたような目で見ている。
プライドが何だっていうんだ。
そんなもの要らない。
ただ勝ちたい、それ以上にいい試合をしたい。
気持ちのいい、胸がすっとするような。
試合特有の、ぴんと張りつめてそのクセ楽しくて仕方がない、そんな感覚を味わえるのなら自分のプライドなんて捨ててやる。
与えられたチャンスならなおさら。そしてチャンスはいつだって掴み取るものなのだ。
「それにはお前が必要なんだ」
日吉は黙ったままでこっちを見ていたが、数秒してまた何事も無かったようにゆるゆると帰り支度をし出した。
ロッカーの中身は…一向に出そうとしない。説得は無駄だったのか、それとも力ずくで移動させてしまうか。
じりじりと奴の背中を見上げながらとりあえずもう一度名前を呼びかけた時、バタンとロッカーが閉まる音がした。
「理解出来ないな」
振り向きざま、日吉が何かを落下させた。チャリと指先に冷たい金属があたる。
あわてて両手でそれを包み込むように受け取ると、それは準レギュラー専用部室のカギだった。
「持ってくんなら勝手にどうぞ」
そう告げると、奴はさっさと早足で扉へ歩いていった。
「…おい、ちょっと待て!俺が運ぶのか?」
「家の稽古があるので」
日吉は振り向かず背中だけで云い、そのまま本当に自分を置き去りにして帰ってしまった。
無情に扉が閉まる音。呆然としたまま、嘘だろ…と呟いた。
□
「これで…最後ぉ!」
でえりゃ、と両手に抱えた荷物を勢い良く開け放したロッカーに放り込んで、はあ…と大きく息を吐く。
途端、重さから解放された身体を支えきれず床へと沈み込んでしまった。
冗談ではなく、本当に帰ってしまった日吉に代わって荷物を運んで二往復。
同じ敷地内にあるとはいえ、正レギュラーと準レギュラーの部室は距離的に離れている。
しかし日吉に対しあれだけきっぱりと云い放ってしまった手前、やらない訳にはいかない。
もうこれは意地というか半ばヤケクソに近かった。
だらだらと首筋に流れるうっとおしい汗。あぐらで座り込んだ自分の正面にどんと位置する、
荷物の収まった新ロッカーをジロリと睨みつけながら、ふふふと口から漏れる変な笑いを止められなかった。
「…ぜってー感謝させる。ありがとうございますって云わせるからな、日吉…」
なんだか目的が大幅にズレてきているような気がしないでもない。
が、そんな疑問を颯爽と無視する。あいつとはこれから長いつき合いになるのだ。遠慮なんかしていられるか。
「云わせるからな!」
誰も居ない部室で、叫んだ。
翌朝、その執念が実ったのかどうかは分からないが、生徒用玄関のところで偶然目当ての人物を発見した。
長身を屈めて靴を履き変えている日吉の背中をぽんと叩く。
振り向く日吉。自分だと確認した途端露骨、とまでは云わないが微妙に嫌な顔をする。
朝練の無い日に朝から会いたくないってか、それはこっちだって同じだ。力一杯同じだ。
しかし今日はふふんと勝ち誇って胸を張り、機嫌良く挨拶をしてやる。そして云ってやった。
「荷物、移動しといたからな。いいか、今日から正レギュ部室に来いよ」
「……」
沈黙。日吉は、一応こちらを見おろしてはいるが、表情を全く変える事無く黙っている。
更に、沈黙。余りの反応の無さに一瞬たじろいだ。そして一気に不安になる。予想はしていたけど。分かってはいたけど。
「そうですか」
「…ぜ、絶対来いよ!」
びし!と指を差し、そのままクルリと背中を返して逃げるようにダッシュでその場を去った。
日吉の顔が見れなかった。なんだかいきなり、急激に恥ずかしくなってしまったのだ。
分かっている。こいつはこういう奴なんだ。無口で無愛想で生意気で。
それなのにこっちが勝手に期待して、それを裏切られたみたいな気がして、一方的に腹が立った。そしてそんな自分が恥ずかしかった。
「…くそくそ、なんなんだよ…」
自分の靴箱にたどり着くと、知らずに独り言が口からついて出ていた。
はあ…と息を吐いて、自分のネームプレートを指で擦り、じっとそれを眺める。
違う。
多分、がっかりしたんだ。
「なんや岳人、テンション低いなー」
昼休み、借りていた教科書を返しにきた侑士の物珍しそうな声が上から降ってくる。
机の上にだらりと伸ばした半身を起こす事も面倒で、返事の代わりにう〜と低く唸った。
「日吉にふられたんだって」
「うるせージロー。勝手な事云うな」
「朝からずっとこんななんだよー忍足」
すぐ後ろの席でのんびりと食後のポッキーをかじりながら、好き勝手な事を云うジローに、ふーんと侑士が優しく相づちを打つ。
「あんま気にせん方がええで」
ガタガタ、と耳の近くで椅子を動かす音。
机につっぷしていた顔を僅かに上げると、すぐ傍、隣に侑士の顔が見えた。
慰めてくれているのか、単にからかっているだけなのか、丸めた教科書(自分が貸したものだ)でくりくりと頭を撫でてくる。
「別に気にしてねーもん」
「ああいうタイプはムキになって突っ込んでくるタイプが苦手なんや。仲良うしたいんならもっと上手い事せんとな」
「仲良くなんか!」
反射的にガバリと身体を起こすと、傍に座っていた侑士はおお、復活したとにこにこ笑ってこちらを見ていた。
奴の言葉にまんまと反応してしまった事に内心思いきり後悔していると、すぐ後ろからジローの腕がだらんと肩に伸びて抱きしめてくる。
「俺さー実はすっげー楽しみにしてんだぜ、岳人と日吉のダブルス」
「な…」
「だってぜってー面白い事してくれそーじゃん!」
そのままぬ、と背後から顔を出し、アクロバティックと演武!楽しそうに云いながら、ポッキーをくわえるジロー。
「…ほんと好き勝手云いやがって」
面白い、なんて。
そんなの絶対、面白いに決まっている。何回だって真似した。
だけど全然上手く出来なかった演武テニス。その使い手である日吉と、同じコートで一緒にプレイ出来るなんて。
だから、自分は。
ひょい、とジローの手の中にあったポッキーを一本抜き取り、乱暴にかみつく。
途端チョコレートの甘みがふわりと口内に広がった。
だけど、日吉は。
SHRと掃除が終わった後、いつものように教室を出て階段を降りていると、
喧噪の中、背後から自分を呼び止める声がした気がして、振り返った。
瞬間ギクリと全身が固まる。そこには日吉が立っていた。
鞄は持っているのに、いつも肩に掛けている筈のテニスバッグが見あたらない。
焦燥?不安?分からない。
分からないけど、背中にヒヤリとしたものが伝う。
耳の近くで聴こえる、じりじりと高鳴る心臓の音。気づけば、奴の肩を勢いよく掴んでいた。
「お前…」
自分でもびっくりする程の、焦りを帯びた声。
その剣幕に日吉が一瞬、少しだけ驚いた顔をしたが、構わず続けた。
「まさか…部活、来ないんじゃ…」
「委員会で遅れます」
しかしぶつけた言葉は、相手によって遮られる。
「部活には、ちゃんと出ますから」
真顔できっぱり告げた後、日吉はそのまま続けようとした言葉を何故か口の中で濁し、
黙り込んでしまう。けれど少しだけ躊躇するように顎へ指を添えながら、視線を外して。
「…部室にも、」
小さな声でそう付け加えた。
「…」
しばらく向かい合ったまま、沈黙が2人の周りを包む。
何を云われたのかすぐに理解出来ず、返事も出来ずにただぼんやりとしている自分に痺れを切らしたのか、
それとも呆れてしまったのか、日吉はこちらに浅く礼を寄越した後、踵を返しさっさと廊下を歩いていった。
遠ざかっていく奴の真っ直ぐな後ろ姿を眺めながら、ようやく云われた言葉に感情が追いついた。
「……はは」
途端、変に強ばっていた身体の力が、ストンときれいに抜け落ちた。
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