蝉の声がやけに耳についたのを、よく覚えている。



     
夏の果



     関東大会で青学に負けて、事実上それは自分達の引退試合となって。
     役職についている奴らは後輩達に引き継ぎを行わないといけないらしく、
     色々と忙しそうに部室と教室を往復していたが、こっちは気楽なものだった。
     たまに宍戸なんかと一緒にこっそり部室やコートに忍び込み、悪戯をしたりとか。
     そんな下らなく、緩い悔しさを伴った気持ちで、それでもテニスコートに足を運ぶ事は止められなかった。

     夏休みに入った頃だったと思う。
     補習を受けた帰りにぶらぶらとコートの周りを歩いていた。
     軽やかなボールの打球音。威勢の良い部員達のかけ声。
     やってるやってる、となんだか嬉しくなりながら、首をそっと伸ばす。
     正レギュラー専用コートの中心には、日吉が立っていた。

     新しい氷帝の部長。

     彼はあの大会の後、跡部直々にその役職を命じられた。
     手の甲で汗をぐっと拭い、後輩達にボール出しをしている。
     その度に、大きくはないけれど良く通る声で、何かアドバイスをしているようだった。
     日に透けると薄茶に映える、真っ直ぐな髪。すっと伸びたきれいな鼻梁。
     遠くから見ても分かるくらい、日吉の顔は整っている。それはもう、腹立たしいくらい。
     そしてそんな事をぼんやりと思っている自分にも急に腹が立って、
     コートの金網を掴んでいた手を離し、くるりとそこから背を向けた。

     大丈夫、大丈夫。
     新生氷帝テニス部は完璧に機能している。
     自分達が居なくても、ちゃんと。大丈夫。

     歩き出した途端、部室に忘れ物をした事を思い出して、結局もう一度、もと来た道を引き返す。
     カンカンと階段を上って部室の前まで来ると、ズボンのポケットをあさって鍵を取り出した。
     跡部に散々、いい加減返しやがれと云われているその鍵は、だけどまだもう少し持っていたかったのだ。
     ノブを捻り扉を開ける。懐かしい匂いが鼻を掠める。ずっと居た場所。学校の教室より多分、ずっと長い間。
     大きく深呼吸してそれを感じながら机の上に置きっぱなしの漫画本を手に取った。
     慈郎から又貸しさせてもらった物なので、無くすと大変な事になる。
     というかこんな所に置いておいたらあっという間に紛失するのがオチなのだが、
     現在ここを使っている部員達はその辺りはきちんとしているのか、自分が忘れていった時とほぼ同じ状態だった。
     カバンにそれを突っ込んで、他に忘れ物は無かったか周囲を確認して、ばたんと扉を閉め外に出た。蝉の声がうるさい。

     そこを選んだのは単に校門を通るのが面倒で、更に駅まで近いという理由からだった。
     部室からぐるりとテニスコートを横切り、その裏側(部員達が定期的に草抜きをするがその勢いは物凄い)
     雑草やや生い茂る、一応コンクリ舗装されている道を歩く。蝉の声を聴きながら、口笛なんか吹きながら。
     だから、急にその背中が見えた時、よく分からなかった。
     氷帝テニス部のジャージ。
     清潔な襟足。真っ直ぐな背中。薄茶の髪の毛。

     日吉だった。

     ここは準レギュラー専用コートの裏に位置している。
     休憩時間なのだろうか。何故こんなところにいるのだろう。
     ここからだと後ろ姿しか見えない。ちょうど日陰になっている場所に座っている日吉。
     軽く肩を上下させて、ゆっくりと息を整えている。
     首には落ち着いた色のタオルが掛かっていて、汗を拭いているのか、それで額を押さえていた。
     じっとそのまま、動かずに。タオルごと両手で顔を覆うように。

     足が竦んだ。
     近づいて、声を掛けるつもりだったのに。
     何してんだよこんなとこで、お前もサボりか?そんな軽口は頭の中で蒸発した。
     そっと息を呑む。そんな小さな仕種でさえすごく緊張した。日吉に聴かれてしまったらどうしよう。
     全てを拒絶した背中は、誰一人そこに踏み入る事を許さない、そんな気配が漂っていて。
     そこには誰も居ないのに、自分一人なのにずっと気を張って、緊張し続けていて。ずっと。
     部長になってから、こいつはこんな風に過ごしてきたのだろうか。
     テニスコートの中心に凛と立っていたあの姿と、ここで佇んでいる酷く小さく孤独な姿。
     誰にも心を許さずに、一人でこんな所で。
     顔はやっぱり見えない。後ろ姿しか見えない。
     だけどその背中は。そこに背負っているものの重さは。

     (馬鹿日吉)

     無意識に唇を噛んでいた。
     なんだか無性に悔しくて、泣きたくなった。

     (馬鹿日吉!)

     だけど今ここでこの空気を破って彼の前に出て行く勇気がない自分にも、物凄く腹が立った。
     馬鹿は自分だ。気の利いた言葉も掛けられない、どんな顔すればいいのか分からない。
     こんな風に追い込む為に、自分達は日吉を部長に選んだんじゃないのに。それなのに。

     じりじりと太陽が照りつける。
     蝉の音だけがやけに耳について、思考を掻き乱した。






     □END□

     

 

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