なんだって、こんな人のこと
     サンの後日談です)



     授業の合間の休み時間、机の中から辞書を取り出し、
     黙々と机上に積まれた教科書の入れ替え作業を行っていた日吉の耳に、聴き慣れた声が突然飛び込んできた。

      「ほらいただろ!ひーよしー!」

     本来ならば、二学年が占めるこの校舎に彼の声が聴こえる筈が無いのだ。
     平均的に保たれた穏やかな喧噪をたった一人でぶち壊す、この人物。
     授業を受ける際、たまに黒板が見辛い時に掛けている眼鏡を外し、
     それを制服の胸ポケットへ無造作に仕舞い込むと、観念したように日吉が顔を上げた。

      「おーい!こっちこっちー」

     賑やかな声のする方を見ると、教室の後方にある出入口、
     開け放たれた扉に半身を凭せかけるようにして立つ、ふわふわと黄色の髪をなびかせた慈郎、
     そしてそのすぐ隣に大きな声で自分の名を呼ぶ張本人、一際小柄で一際目を引くピンク色の髪をした岳人が手招きしている姿が見えた。

     派手だ。

     クラスメイト(主に女子)がささやかな歓声を上げつつも、
     遠巻きに眺める彼らの佇まいをしっかりと視界に捉えた日吉が思った事は、まずそれだった。
     部活で見る時などもうさほど気にならなくなってしまったが、こういう、当たり前の日常風景の中に飛び込んでくると、
     やはり纏う雰囲気が派手な二人だった。部員数200名を超す中で、レギュラーの座を実力で勝ち取ったのだから、
     ある種彼らの持つそれは当然なのかもしれない。しかしそんな二人が呼んでいるのは誰でも無いこの自分なのだ。
     正直嫌な予感しか抱かなかったが、かといって見て見ぬ振りも出来ず、比較的速やかに席を立った日吉は、
     早足で彼らの待つ教室の後方へと向かった。

      「よー!日吉!吉報だぜキッポー!」
 
     「その前に」

     挨拶もそこそこに、はしゃぐ岳人の細い肩をがし、と遠慮無く掴むと、
     日吉は彼を伴ったまま真っ直ぐ廊下を進み、突き当たり、人気のまばらな階段付近まで強制的に連れていった。
     慈郎はそんな二人の後をあくび混じりにてくてくとついて行きながら、なんだよ日吉俺は無視かよーと不服そうな声を上げている。
     しかし日吉にしてみれば、一度にこんな厄介な先輩達の面倒を見られる筈も無い。
     それならばより厄介で手の掛かる岳人の方を優先的に選ぶのは自明の理である。
     とはいえ正直にこんな事を云えば、彼らにどんな仕打ちをされるか分かったものではないので、
     慈郎の文句にもあえて口を噤んだままでいた。自分にとって益になるならまだしも、何の得にもならない無意味な争いは避けたいのだ。

      「…なんなんですか一体」

     わざわざ二年校舎まで出向いてくるなんて。
     日吉が問いながらようやく肩を掴んでいた腕を離すと、晴れて自由の身になった岳人が、
     それがなそれがな、と興奮しきった様子でズボンのポケットから四角折りの端が少しよれたプリントを取り出し始める。
     訪れた教室からはさっさと引き離され、更に後輩にずるずると隅の方に連行されるという、ある意味邪険極まりない扱いを受けているのだ。
     こんな事をされれば、普段なら怒髪天を衝く勢いで怒る岳人だったが、今日は余程機嫌がいいらしい。
     彼は折りたたんであったプリントを丁寧に広げると、両手で端をつまみ、日吉の眼前へそれを持ち上げた。

      「じゃん!」

     一学期期末考査。
     社会科。向日岳人。78点。

     朱色で大きく走り書きされた点数を見た後、
     日吉は微かに首を傾けテスト用紙の後ろでへへへと得意そうに笑う岳人を覗き込む。

      「78点」
 
     「スゴイだろ!俺ってやるだろ!」
 
     「俺ら社会赤点組だったのに、ずりーよ岳人〜抜け駆けだー」

     嬉しさ全開、といった彼の隣でずるいずるいと眠そうに喚く慈郎。
     日吉は岳人からちゃんと見ろよ、と手渡されたテスト用紙を持つと、改めて解答欄を一通りざっと眺めた。

      「出ましたね、縮尺問題」
 
     「歴史もさ、出たぜお前のゲコクジョー!」
 
     「先輩、剋の字間違えて1点引きされてるじゃないですか」
 
     「いんだよそういう細かい事は!でも、ジローが信じてくれないんだって。お前に教えてもらったの」

     だって日吉だろ〜?と、岳人の言葉を受けた慈郎がすぐ傍でのんびりと、けれど疑わしげに少しだけ眉を寄せる。
     思わず日吉が手元にあった解答欄から目下、岳人の方に視線を移した。そのままお互い顔を見合わせる。

      「だからほんとだって証明するのに連れてきた」
 
     「証明って…」
 
     「いつの間にそんな仲良くなったんだよー」

     仲良く?
     その言葉に、はからずしも日吉と岳人の訊き返す声が綺麗にシンクロした。
     仲良く、勉強した覚えは無いと思うのだが。そもそもあれは。事の発端は確か。
     そこまで思考を巡らせた後、何か、自分の与り知らないところで少しずつ誤解が生じているような気がしたので、
     日吉は冷静に訂正を試みる事にした。

      「仲が良い訳じゃなくて、向日先輩が泣きついてきたんです。勉強教えろって」

     その言葉に今度は岳人が反応した。

      「な!泣いてないぞ!嘘つくなよ日吉!」
 
     「泣いてたのかあ」
 
     「泣いてましたよ」

     本当は泣いていなかったのだが、面倒臭いのでそういう事にしておいた。
     しかし彼が期末試験の前に、帰り支度を済ませ教室を出た自分をタイミング良く捕まえ、社会教えてくれ、と頼んできたのは事実だ。
     先輩なのに。自分よりも適任の人物が、すぐ傍に居ただろうに。
     なのに彼は云った。お前しか思いつかなかった、と。最後にはほとんど逆ギレ状態で怒鳴られた。
     皮肉とはいえ忍足の名前を出したのも、悪かったと少しだけ反省はしている。少しだけ、だが。
     しかし、なんて自分勝手で俺様な人なんだ、とあの時はただ彼の切り返しに驚いたのだけれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
     むしろ毒気を抜かれて笑ってしまった程だ。それから、日吉は岳人に社会科を教え始めた。
     問題を解くよりも寝られる回数の方が絶対に多く、
     そして教えを乞うている筈である張本人がもたらす無駄話や脱線を修正するのに苦労した。
     そんな勉強会を改めて省みて、やはりスムーズにいったとは云い難いけれど、赤点組だった彼がこうして良い点を取ってくれたのなら、
     まあ無駄では無かったかな、と日吉は心中でそっと思う。

      「とにかく、これで分かっただろジロー」

     会話の流れが自分に不利と見たのか、岳人は慈郎を無理矢理納得させ、そそくさとこの場をまとめようとしている。
     日吉がふと腕時計に視線を落とすと、気づけば本鈴が鳴るまでもう間が無かった。
     自分はともかく、三年校舎の彼らの教室まではここから何分か掛かるだろう。

      「先輩、そろそろ…」
 
     「いいな〜俺も今度テスト前にベンキョー教えてくれよ」

     おそらく、いつものように何の気なしに放ったのだろう慈郎の言葉に、再び日吉と岳人が顔を見合わせる。
     しかし、勘弁して下さい、と日吉が辞退を申し出るより先に、突然彼の眼下にピンク色の髪がよぎった。

      「日吉は俺専用だからな」

     だからダメ。
     と、日吉と慈郎の間に割って入った岳人が何故かきっぱりと力強く告げる。
     え〜ケチ〜とふてくされる一つ年上の先輩の声を聴きながら、日吉はそこに立ったまま、
     努めて冷静にと心掛けていた思考を、不意に素手でヒヤリとかき混ぜられてしまったような、奇妙な心持ちになっていた。
     その根拠は一体なんだ。とか、いつの間に俺はこの人専用になっているんだ。とか、
     という事はやはり、今度の中間も勉強を見なければならないのだろうか、とか。
     様々な想いが頭の中を瞬時に駆け巡っていったが、かき回した当の本人である目の前の岳人はこちらをちらりとも見ず、
     跡部はどうだとかバクチで宍戸とか、などと慈郎と熱心に教師依頼の話をしている。なんなんだ、一体。

      「そろそろ鐘鳴りますから、俺戻りますよ」

     そう云って、持っていたテスト用紙を元あったようにたたんで返すと、
     やべ、もうそんな時間かと慌てて岳人が背後の日吉を振り返った。
     瞬間、じっとこちらを見上げてくる大きな黒い両眸とぶつかる。静かに、けれど確かに一際高く打つ心臓。
     何故かまともに見られずに、日吉は僅かに頭を下げて視線を床にずらすと、そのままきびすを返した。なんなんだ、この人は。

      「じゃーなー!また部活でなー」

     背後から、岳人の明るい声が聴こえる。それに重なるように本鈴の鐘が廊下に鳴り響いた。
     そうだ。今日だって部活でまた顔を見るのに、それなのにわざわざこんな所まで来て。
     放課後が待ちきれない程、そんなにも、嬉しかったのだろうか。

      「あっ、日吉ー!こっちが本題ー!」

     名前を呼ばれた日吉が、徐々に離れゆく後ろを振り返る。
     ざわついていた生徒たちの喧噪は、授業開始の鐘が鳴った所為で次第に収束へ向かう。
     今度は、嫌な予感もしなかった。

      「教えてくれて、ありがとなー!」

     見ると、三年校舎につながる上り階段の途中で、岳人はそう云いながらテスト用紙を片手に持ち、
     ひらひらと揺らしていた。
     もう片方の手は慈郎に掴まれている。おそらく早く行かないとやばい、と急かされているのだろう。
     満面の笑顔。
     しっかりして下さいよ、後輩に教えられてそんな顔、しないでしょう普通。
     思わず喉元まで出かけた言葉を日吉は飲み込み僅かに苦笑した。
     本当に、なんだってこんな人の事。

 

 

     □END□

 

     

     あいうえお作文*あただけ