正直、正体不明のこの感情を持て余している。
教室を出た途端、向日先輩に捕まった。
と云うより泣きつかれた、という方が的確か。
夏休みの直前、に立ちはだかる学生達の難関が期末考査である。
練習が厳しい事で有名な氷帝学園テニス部もこの時期は例外ではなく、
試験一週間前になると強制的に部活停止に入る。
しかし一週間も部活をしないとなると、全身が鈍って仕方が無い。
そう考える日吉は、部活停止期間に突入した昨日からさっさと学校を辞して、
自宅の道場で軽く身体を動かそうと、掃除が終った後、教室に戻り荷物を持って扉を開けた。
開けたのだが。
「日吉〜!」
ドン、と小さな衝撃。
自分の胸辺りに何やらピンク掛ったものがくっついている。
軽い驚きは徐々にしっかりとした確信に変わり、
結果、心の奥底に湧き上がった動揺を宥めるようゆっくりと溜息を吐き出した。
「向日先輩…何の用ですか」
努めて冷静にそれだけ言う。
上から見るとまるでピンク色のかたまりだった向日岳人がガバリと勢い良く顔を上げた。
しかしその顔はいつも浮かべている元気な笑顔、とか強気な笑顔、と呼ばれるものでは無く。
「日吉!頼む!一生のお願い!!」
「は?」
「社会教えてくれ!!」
「…は?!」
日吉は、一つ年上の先輩からもたらされた要求の、その内容を理解するまで不覚にも数分の時間を費やした。
向日岳人の言い分。
「だってよー俺らの社会の先生、『君達はジュケンセーなのだから現在習っている公民分野だけでなく、
これまでベンキョーしてきた地理、歴史分野もきちんと把握していなければならない』とか言って、
この期末は地歴ゴチャで出すっつーんだぜ!?」
日吉若の返答。
「受験生の為を思っている素晴らしい先生じゃないですか」
「どこがだよ!」
思わず身を乗り出す岳人を冷静にかわして、
「受験の時、社会科は地歴公民ゴチャで出るんですよ。
前もってそういう試験に臨んで経験を積んだ方が有利に決まってるでしょう?」
日吉が四角四面の常識論を述べる。
それを聞いた岳人はウ…と固まって、後輩が座っている正面席へ渋々と腰を降ろす。
しかし未だ納得はいっていないらしい。
「…で、何で俺なんですか」
適任な人は俺以外に居るでしょうに。
言外にそれとなく、皮肉めいたものをほのめかす。
といっても人一倍鈍感な彼の事だから分かる筈も無いだろうが。
「だってお前しか思いつかなかった」
唐突に揺さぶられる心臓。
正面に座る彼の、ふてくされた口許。
けれど、上手く目を合わせられない。
「…向日先輩には、忍足先輩がいるじゃないですか」
自分じゃなくても。
あなたにはあの人が居る。
そう、思った瞬間。
急激に降下する体温。彼から放たれる言葉は不用意過ぎる。
自分が境界線を引かなければ、彼は心の中の何処までも入り込んでくるのだろう。
その天真爛漫な笑顔と共に。
期待に満ちたその言葉を信じて、後で後悔するのは必ず自分自身。
だから。
そうなる前に。
「忍足先輩に教えてもらったらどうですか?俺よりも頭いいし」
自分から、手放す。
この不確かな感情を。
「…あのな、日吉」
その時。
それまで押し黙っていた岳人が、口を開いた。
「俺と、侑士は確かにずっとタブルス組んでて、ずっと一緒だったけど、でも、」
言葉が切れる。
顔を上げると、少しだけ寂しそうに眉を下げた先輩の顔があった。
しかし自らそれを追い払うように、首を横に振る。
「でも、もう俺らの夏は終ったし、いつまでも侑士に頼ってられねーし…それに侑士は、」
矢張途中で、言葉が切れた。
話している内段々と俯き加減になっていった岳人の小さな両肩が、息を吸い込んで僅かに揺らぐ。
直後、ガバっと上がったその顔は、先程とは正反対の、唇をぎゅっと引き結んだ強気な表情で。
「とにかくっ、俺はお前しか思いつかなかったんだ!悪いか!?」
…ぎ、
逆キレされてしまった…。
余りの先の読めなさに日吉は唖然としつつ、しかしその後込み上げてきた笑いに感情を奪われてしまう。
「な、何がおかしいんだよ!」
「…いえ、別に」
肩を震わせ笑う日吉に、岳人は自分でも訳の分からない恥ずかしさでわたわたと焦りまくる。
「笑うな!」
「笑ってません。先輩の気のせいです」
跡部部長とはまた違う方向で、『俺様』な人だな…。
それが何故か心地いいなんて、口が裂けても云えないけれど。
そして結局。
日吉は岳人に社会科を教える事になったのだが。
「…先輩」
「うん」
「向日先輩」
「うん」
「ちゃんと聞いてますね?」
「うん」
「ちゃんと聞いてませんね」
「うん。………あ」
ノートの上を彷徨っていた、日吉の持つペンがピタリと空中で停止する。
正面、くたりと机面に上体を張りつけていた岳人が、瞳だけ動かして日吉の顔をにらんだ。
「ズルいぞ日吉、ゆーどーじんもんだ!」
「そういう事はやる事やってから言って下さい」
やれやれ、という風にガタリ、と椅子の向きを横にした日吉が立ち上がって窓を全開にする。
不器用な彼なりの気分転換のつもりなのだが、果たして岳人は気付いているだろうか。
(…まぁ、ともかく)
岳人の集中力の無さに、実は困っていたりするのだ。
歴史は変わらない。過去の事実は変わらない。
だからこそ淡々と説明的な解説になってしまい、岳人を退屈にさせてしまう。
けれど、面白可笑しく解説なんて自分には到底無理だ。
(…あの人だったら、可能だろうか)
岳人を退屈させず机に集中させる事が出来るだろうか。
思って、軽く首を振った。
下らない。
彼と自分を比較したって意味の無い事だ。
振り返り、無言のままスタスタと教室を横切っていく日吉。
そんな彼を見て、岳人が慌てて持参の教科書を自分の前に引き寄せた。
「ゴメン、日吉!俺ちゃんとやる!やるから…」
怒ったのだと勘違いしたのだろう。
しかし日吉はそっけ無く、
「便所です」
そう言ってカラカラと扉を開け廊下に一旦出てから、
「心配しなくても何処にも行きませんよ」
思い出したようにヒョイっと顔だけ教室に覗かせ、そして消えた。
教室に、不可解な恥ずかしさだけを与えられた岳人を残して。
数分後、教室に戻って日吉が最初に見たものは…机に突っ伏して寝こけている岳人の姿だった。
近付いていっても目覚める気配は無い。とりあえず自分の席に着いて、正面からこの困った先輩を眺めた。
(…それにしても)
日吉は肘を着いて泰然と眺めながら、思う。
(この人には警戒心というものがないのだろうか)
夏の始め。
テニスコートの裏で。
岳人に、キスをした。
理由は、実は今でも分からない。
単に自分の為に一生懸命になってくれているこの人を、からかいたかっただけなのか?
それとも、わざわざ逢いに来て、自分の心配をしてくれたその姿に惹かれたのか。
魔が差したのか。
この人を好きなのか。
好き、なのか。
(…分からないな)
あれから、岳人とこうして逢ったり話をしたり、というのは今日が初めてだ。
彼の方から何かしらその話題に触れるのでは、と思っていたが、彼は何も言わなかった。
どう思ってるんだろう。
何を思ってるんだろう。
燦燦と柔らかく窓から降る初夏の日差し。
それを受けた岳人の髪の毛は綺麗に色付いて見えて、思わず指先でそれに触れた。
正直、正体不明のこの感情を持て余している。
「向日先輩」
「…ん〜、」
「試験まで責任持って教えますから」
「…」
「明日からも、俺のとこへ来て下さい」
「…ん」
髪の毛を緩く緩く撫でながら、もう少しだけこの感情について探求したいと、思った。
□END□
日吉の「便所です」が書きたかったのでした。