目覚めの気分は最低だった。
もう金輪際相手の顔は見たくなかったし声だって聴きたくない。そもそも思い出したくもない。
お互いに無意識に求めてしまう過剰な期待と反応は、時として諸刃となって自分達に牙を剥く。
もういい加減飽きて懲りたっていい頃だって分かっている。それなのにまたバカみたいに繰り返す。
どろどろとしたとりとめの無い睡眠を貪っていた耳に、突如として襲う呼び鈴の連打。
目を閉じた状態で、乾が無意識に眉をきつく寄せる。けれど酒臭いベッドに沈み込んだ重たい身体はまるで動かなかった。
光を徹底的に遮断する閉め切ったカーテンの所為で、時間の感覚すら分からない。元々分からなくなるくらい昨夜は飲んだ。
乾は酒が強くない。少し嗜む程度ですぐに満足してしまう、どちらかといえば雰囲気で気持ち良く酔うようなタイプなのに、
無理をして半ば浴びるように飲んでしまった所為で、生まれて初めて意識を失うように眠るという有り難くもない経験をした。
それにしたって一人で飲む酒は本当に楽しくない。嫌な事を忘れる為なのだからなおさらだ。
続けざまに押されては鳴り止まない呼び鈴を、悪質な勧誘業者だなと半睡状態でぼんやりと聴いていたが、
余りにもしつこいそれが夢では無い事にようやく気がつくと、ベッド脇に放り出してあった眼鏡を手探りで探し、それを掛けのろのろと身体を起こした。
自分でも嫌になるくらい、全身が重く酒臭い。頭が尋常でない程痛く気分も悪い。
最低だ、そう思いながら敵意丸出しのように鳴り響いている呼び鈴の方にふらつきながら歩いていく。
チェーンをつけたままノブを捻り扉を少しだけ開けると、そこには今一番見たくない顔があった。
いっそ悪質な勧誘業者の方がまだマシだ。乾は苦い気持ちでそう思う。
「………なに、手塚」
どうやら相手もそのようで、相変わらず無表情だが明らかに瞳には不機嫌な色を宿していた。
なんだってこんな時に来るんだ。そもそも自分達は昨日大喧嘩をしたばかりではないか。
きっかけはささやかな事だった。少しの意味の取り違いで、それは修正不可能なまでに大きくなった。
多分お互い昨日はレポートを仕上げる為徹夜明けで疲れていたし、そういった悪い要因も重なってしまったのだろう。
こうして頭では腹が立つ程きちんと理解しているのに、感情は追いつかない。結局酷い別れ方をして、そして乾は酒を飲んだ。
「…俺、午前は講義入ってないんだけど」
持ち主の性格に反して、自由気ままに好き放題跳ねている寝癖のついた頭を掻きながら、乾はあくび混じりにそう告げる。
その場に黙って立っていた手塚は、正面の男から漂ってくる酒のにおいに少しだけ眉を顰めたまま、云った。
「俺はある。だから寄った」
「…いや、……もう会わないって云ったじゃないか」
時々、本当に手塚という男の無駄な尊大さは一体何処から来るのだろうと不思議に思う時がある。
偉そうな癖にたまに酷く無神経だ。長年のつき合いでそれは十分に理解しているし相手に悪気は無いと知っている。
自分など元々彼のそういう部分に惹かれてしまったのだから更にタチが悪い。けれどわざわざこういう時に来なくたっていいだろうと思う。
しかしお互いこうして黙ったままでは埒が明かない為、先に折れた乾がチェーンを外し、扉を開けた。
二日酔いで不快に揺れる視界に、今まで半分程物陰に隠れていた手塚の全身がはっきりと映る。
片手にはいつも構内で使用している見慣れた鞄。そして、もう片方の手には小さな白い箱を提げて。
思わず乾が怪訝な顔をすると、手塚は相変わらず無表情のまま、持っていたその白い箱を彼の目の前に突き出した。
「ああ、もう来ないから安心しろ。だが思い出したからこれだけ渡しに来た」
こじんまりとした白い箱を恐る恐る受け取る。よく見るとそれはシンプルだが可愛らしいケーキボックスだった。
大学とアパートの間にあって、自分達も良く利用する喫茶店の名前が書かれた封を開けてみると、中には一切れのケーキが覗いている。
「ガトーショコラ」
乾いた喉から無意識に、声が出る。呟きながらアルコールで濁った頭を働かせた。
突然の手塚の訪問。突然のガトーショコラ。
「手切れ金代わりだ。受け取れ」
そう云って、もう用は無いとばかりにさっさと踵を返し大学に向かおうとする手塚の腕を、思わず掴む。
瞬間、雨が降る前特有の湿った空気の匂いが鼻を掠めた。視線をコンクリートの地面に移すと、ポツ、と小さな水滴が灰色く滲む。
「それだけの為にわざわざ来たの」
迷走した思考がようやく見つけ出した答え。今日の日付は6月3日。
甘いものが余り好きでは無い自分が、唯一食べられるそれを。誕生日プレゼントなんて、一度だって貰った事など無かったのに。
本当に、どうしてこのタイミングで。
「だから云っただろう、思い出したんだ」
それなのに無視するのは気持ち悪いじゃないか、と彼のよく分からない理論を聴きながら、
なんだか乾は一体何に怒っていたのかよく分からなくなった。一体何故自分達は喧嘩をしていたのだろう。
掴んだ腕を離さずに、ゆるゆると息を吐くと変な笑いが一緒に漏れた。今度は手塚が怪訝な顔をする番だった。
「…コーヒー淹れて今から食べる。手塚も飲んでって」
「二日酔いなのにか?」
講義の時間が気になるのか、腕時計に視線を落として皮肉混じりに返答する。
けれど乾に掴まれている腕は振り解く事もせずに。本当に素直じゃない。だから沢山誤解を招く。
こんな扱いにくい相手、自分が傍に居なかったらきっとひとりになってしまう。それは大それたうぬぼれかもしれないけれど。
「食べるよ。手塚の前で」
頭の奥底はまだ鈍く重たかったが、気持ちは底辺からゆっくりと浮上していた。
乾が大きく息を吸いこむ。外は降り出した雨と、湿った草のぬるい匂いがしていた。
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