紳士の生活
「息子がもう一人増えたみたいですね」
父が笑う。
「私もこういうお兄さんが欲しかったわ」
妹が笑う。
「遠慮しないで沢山食べていってね」
母が笑う。
「有り難うございます」
そして。
私の隣に座る仁王くんが、家族に向けて人あたりの良い笑顔を浮かべる。
私は、俯いて箸を動かす。顔には笑みを張り付けたまま。心の底は驚く程冷えきったままで。
事の発端。
と呼ぶには大袈裟かもしれないが、彼が私の家で夕食を囲む事になったのには理由がある。と、私は考えている。
「仁王くん、今晩お暇ですか?」
部活が終了してから、半時程過ぎていただろうか。
部室に隣接するシャワー室からずぶ濡れで戻ってきた彼の顔を見て、ある事を思い出し、早速声を掛けた。
「何?俺にお誘いって事は…焼肉でもやんの?柳生邸」
髪の毛を無造作に拭きながら、自分のロッカーに詰め込んであったくしゃくしゃの制服を引きずり出す。
彼が隣で身体を動かす度に水滴が飛んできて、その冷たさに一瞬眉を顰めるが、相手は一向に気にしていない。
「さあ。ただ母が今朝それとなく貴方の事を話していたので」
ネクタイを結び終え、ふと後ろを振り返れば、それなりに混雑していた部室に人の気配は無く、いつの間にか二人きりになっていた。
壁に掛っている時計に視線をやると、成程もう8時半になろうとしている。道理で人も居ない筈だ。
「どうしますか?来て頂けるなら帰る前に連絡しておきますが」
「紗世子ちゃんいんの?」
紗世子とは、二歳下の私の妹である。
ぐ、と喉の奥で、鉛のように重く、鈍い何かが侵食していく感覚。
「もうそろそろ、塾から帰ってくる頃だと思いますけど」
それを無視して冷静に告げれば、
「じゃ行くー」
のろのろとシャツに腕を通しながら、彼は軽い調子で承諾した。
彼が我が家に来る理由。
それは、紗世子が居るからだと。
私はそう、思っている。
「仁王君が来てくれて良かったわ。うちの家族だけだとこんなにお肉、食べきれなくて」
使用された食器を手際よく片付けながら、母が嬉しそうに笑う。
彼女のこういう華やいだ笑顔は、息子の自分でも余りお目にかかった事は無い。
父の患者から貰ったというその肉は、確かに我が家で食べるには相当に多い量で、困り果てた結果本日の夕餉はすき焼きになったらしい。
確かにタンパク質と野菜が同時且つ多量に摂れるから、この献立はとても合理的だと思う。
ただ惜しむらくは、七月という今の時期にふさわしく無い。というような気もしないでもないが。
「比呂士も紗世子も余り食べないし。育ち盛りなのにね」
「育ち盛りの子どもが食べるにも無理があるわよ、この量」
ぐつぐつと美味しそうな音を立てている鍋を菜箸でゆっくり掻き混ぜながら、紗世子が隣に座る仁王くんに「ねえ?」と意見を求める。
彼も「ねえ」とにっこり同意したので、その反応に気を良くしたのか、栗色の長い髪をふわりと揺らして、妹が嬉しそうに笑った。
そんな光景を目にする度、苦いものが胸をよぎっていく。
妹は、明らかに彼に対して好意を寄せ始めている。
人の感情に聡い彼の事だ。幼い妹の気持ちなど既に見通しているのだろう。
彼は、どうするのだろう。
私は、どうすればいいのだろうか。
「ところで今年のテニス部はどうですか?確か今は関東大会の最中でしたね」
暗澹とした思いに溺れかけていると、背後からの声に、突然意識を引き戻された。
先に食事を済ませ、ソファに移動した父がコーヒーカップを掌に包み込みながら、ゆっくりと仁王くんに語りかけたのだ。
父は誰に対しても穏やかに、丁寧に話しかける。自分の息子や娘に対しても、基本的にはこの接し方だ。
生まれた時からそんな父を見てきた為、自分も知らず知らずの内にそういう物腰や話し方が身に付いていた。
例えその所為で同級生から奇異な目を向けられたとしても、直す事はしないだろう。
父は私の最も尊敬すべき人物である。
「そうですね、順当に勝ち進んでるんで、来週の日曜は決勝戦です。な、柳生」
箸を止め、少しだけ考えながら答えた後、こちらを見てにっこりと笑う。
この詐欺師。
眼鏡を押し上げつつ、そうですね。と穏やかに返した。
「次の試合も兄さんとダブルスを組むんですか?」
食べ終った紗世子が、自分の食器を片付けながら問うと、勿論。と彼はしっかり頷いた。
「君の兄さんにはほんと、助けられてるよ」
何を。
何を云っているのだろう、彼は。
箸を持つ指先が小さく震えたが、気取られぬよう必死でそれを抑えた。
覗き見ればテーブルの向こう、暖色の淡く柔らかな灯の下で、彼はまるで別人のように、優しく笑っている。
「…仁王くん、そのお肉もういいですよ」
私の手が無意識に、鍋の中の煮立ったものを彼の苦手な春菊を除いて皿に入れていくと、
兄さんったら、仁王さんにすごく過保護。と隣で見ていた紗世子が呆れたように呟き、席を立つ。
「ふふ、」
その様子を眺めていたのだろうか、キッチンから、母のはにかんだような笑い声が聴こえた。
「この子、昔から人付き合いが得意な方じゃないのだけど、…仁王君みたいなお友達が出来て、本当に嬉しいわ」
これからも仲良くしてあげてね。
母がそっと云うと、彼はこちらこそ、と私の方を見て、云った。
「ずっと、仲良くしていきたいです」
幸せな家庭。
そこに溶け込む男。
まるで違和感などなく。
むしろ、違和感、否、奇妙な疎外感を受けているのは私だけで。
父が笑う。
母が笑う。
妹と彼が笑う。
私は、笑えなかった。
「本当に、今日はごちそうさまでした」
食事を終えた後、母の手製のケーキを食してから、彼はようやく席を辞した。
私の家から彼の自宅まで電車で二駅程、とはいえそろそろ終電が近づいている時刻だ。
「もう帰るの?泊まっていけばいいのに」
父はまだ仕事が残っているらしく、先に病院の方に戻っていったので、
玄関まで見送りに来た母が、彼に手土産を渡しながら名残惜しそうに首を傾げて云った。
「無理を云ってはいけませんよ母さん、明日も学校があるんですから」
そもそもこの男が私の処に泊まる筈が無い。
未だ引き止めたそうな母をやんわりと諫め、それじゃあ送って来ます。と靴に履き替え外に出る。
ドアを閉める際、控え目に手を振っている紗世子が視界の端に映った。ザラリと、神経が厭な感じに擦れた。
駅までの道を、二人並んで歩く。
夜も更けた中歩く住宅街はしんとしており、互いのバラバラとした不規則な靴音だけが、乾いた道路に響いた。
初夏特有の蒸し暑い湿りを帯びた空気が、腕にまとわりついてくる。肌に触れるその独特な気配に意識を奪われていると、
「あー、美味かった」
少し前を歩く彼が、猫を被るのを止めたのか、ぐん、と大きな伸びをしながら幸せそうに呟く声が聴こえる。
テニスバッグを背負ったその背中は、先程までの窮屈な程の礼儀正しさを微塵と感じさせなくなっていた。
「有り難うございます」
「何が?」
突然の感謝の言葉に、彼は不思議そうに振り返ってこちらを見たが、
その視線を上手く受け止める事が出来なかったので、結局自分の靴先を見ながら、私は続ける。
「仁王くんがこうして来てくれるのが、本当に嬉しいんですよ、うちの家族は」
「お友達」なんて、今まで連れてきた事など無かったから。
実を云えば友達なんて関係では無いのだけれど、表面上、そう装っているだけで。
少しだけ間を置いて、そして再開する靴音。彼が再び歩き出したのだろう。それに倣ってついて行く。
「…特に、紗世子などは、今度仁王くんは何時来るんだと煩いくらいです」
そっと。
妹の気持ちを、代弁するように、告げれば。
「紗世子ちゃん、可愛いよな」
私の言葉を受け、彼の背中が彼女に対する感想を素直に述べた。
自分の妹を誉められてここは喜ぶべきところだろう。
何処に出しても恥ずかしくない、自慢の妹だと。私は常日頃そう思っている。
思っているのだが、何故か笑えない。喜べない。
私は。
私は、ただ一人の大切な妹に。
浅ましくも嫉妬に似た感情を、向けてしまっているのだろうか。
途端、全身から血の気がすっと引いた。
だとしたら余りにも。
「私と、似ていませんしね」
余りにも、私は愚かだ。
口をついて出た言葉は皮肉に満ちた、けれど本当の事だった。
紗世子と私は外見も性格も余り似ていない。
あれは私と違い、賢く、柔らかな思考でもって、上手く対人関係を構築する事が出来る。
上辺だけを必死で取り繕っては、その後自己嫌悪に陥って苦しむ。そんな自分とはまるで正反対だ。
「そうか?お前に良く似てる」
突然投げかけられた言葉。
一瞬耳を疑い、思わず顔を上げれば。
それまで無言で前方を歩いていた彼が、銀色の後ろ髪を揺らし、くるりと振り向いて、
「可愛いよ」
切長の瞳を意味深に細め、笑った。
「……」
「俺の事、どう思ってんのかねぇ」
全く反応出来ずにいると、しかし彼は私からの返答を聞く気は無いのか、さっさと背を向けて歩き出している。
気が付けば間近に見え始める駅、ホームの人工的な薄白の照明。
そして遠くから響いてくる電車の音が、ゆるゆると現実感を自分に与えてくれる。
「でもあの子に手を出したら泣かれそうだ」
「あれは意外にしたたかですよ」
「お前が泣く」
「…」
息が詰まった。
先程から、胸中が混乱したままだ。仁王くんの言葉に攪乱されたまま。ずっと。
「だから、止めとくよ」
そう云って、彼は可とも不可とも判別し難い笑みを唇に乗せたまま、儀礼的に緩く片手を挙げると、駅の入口に消えていった。
さよならも、また明日とも云えず、ただそこに呆然と立ち尽くしている自分が、物凄く滑稽だと気が付いたのは、それから数分後の事だった。
大事な妹だ。
兄として、彼女の幸せを願って止まない。その想いは、紛れもなく本物だ。
「私は、泣きませんよ」
貴方の事が。
好きだから。だから。
貴方が幸せなら、それでいい。
「泣きません」
貴方が妹の傍で笑ってくれるなら、それでもいい。
まるで自分に云い聞かせるようにして低く呟く。
そう、思っている筈なのに。覚悟すら出来ているというのに。
改札口を早足で通り過ぎていく、彼の背中から、目を離す事は出来なかった。
喉の奥に蟠っていた、鉛のように鈍く重苦しい感情が、胸の奥底にゆっくりと沈み拡がっていく。
それが胸の痛みというものだとようやく認識するに至り、
私は、少し笑った。
■了■
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柳生は仁王が好きで、でも妹の事も好きなので(ややシスコン気味)、
この2人がくっつきそうになると精神が大変不安定になるのではないかなと…。