勉強



desperate



辞書を捲っていた指がその単語の前で止まったのは、
偶然目に入ったそれが、その単語の意味が、
実に的確に、自分の神経を引っ掻いたからだった。



 「あーもー駄目無理。全然分かんね」

中間考査を目前に控えた図書室は、何時もの静謐な空気を失い、せわしなく出入りする生徒達で満員御礼とばかりに賑わっている。
三日前から自動的に全ての部活動が試験休みに入ったので、テニス部員の面々も、ちらほらと図書室に顔を出しているようだった。
普段から図書室の住人と化している柳生も例に漏れず、教室内の奥まった場所に設置してある四人掛けの机に鞄や参考書を広げ、
正面に座り頭を抱え唸っているブン太に英語を教えているところである。

 「ブン太くんは基礎がきちんと出来ていますから大丈夫です。後は問題をある程度こなしていけば、自然に力がつきますよ」

答え合わせが済み、赤ペンで修正を入れ終えた問題集を返してやると、
机の上にだらしなく顎を乗せていたブン太の力無い瞳に、うっすらと希望の光が戻った。

 「ほんと?」
 「ええ。後スペル間違いに気をつければ」
 「…う、」
 「単語帳の方も見てあげますから」
 「柳生って神様」

マジ感謝〜!と大袈裟に云いながら、元の笑顔に戻ったブン太が横に置いてあったリュックをがさごそあさる。
中からは蛍光色のマーカーと買ったばかりの新しい単語帳がばらばらと出てきた。

 「今から作るから後で見てー」
 「分かりました」

黄緑色のマーカーペンで教科書内の単語を楽しそうに囲っていくチームメイトを和やかに眺めた後、
柳生はさて。と眼鏡のブリッジを押し上げる。

問題は、自分のすぐ隣で沈没している男、だ。

机と同化するように寝そべっている彼は、勉強しに来たーと図書室に現れたものの、
ノートを開いて数分も経たない内に、颯爽と眠りの国へ旅立ってしまった。
そろそろ30分か。
左手首に嵌めた腕時計に視線を落とし、現時刻を確認した柳生は、躊躇わず彼に声を掛ける。

 「仁王くん、そろそろ起きて下さい」
 「…、ん〜……」

声を抑えて名を呼べば、もぞりと僅かに反応はしたものの、再び動かなくなった。

 「仁王くん、」

それでも尚、繰り返していると、正面で単語帳を作成中のブン太がちらりと視線だけを上げ、

 「ほっとけば?」

呆れるように呟かれたが、柳生は少しだけ思案した後、緩く首を振って意を示した。

 「それでは彼の為になりません。勉強をしにここへ来たのなら、やはり起こした方がいいでしょう」

寝起きの彼は高確率の割合で、壮絶に機嫌が悪い事は承知している。
余計な事を、と怒るのなら怒るがいい。
そんな妙な開き直りが出来てしまうくらいには、彼の事を理解っているつもりである。

 「…過保護だよなあ」

柳生の意見を聴いたブン太は同情するようにじっと眺めた後、
鞄からウォークマンを取り出すと、ヘッドフォンを装着し、再び視線を単語帳に戻した。
我関せず、を通すつもりらしい。

過保護。
そうなのだろうか。
自分では理解らない。気がついていないだけかもしれない。
所詮そんな事、彼にとってはどうでもいい事なのだろうけど。

 「仁王くん、」
 「ん、………おきてる」
 「寝てましたよ。英語、分からないところがあるなら、私で良ければ教えますけど」

突っ伏した腕と顔の重みで、僅かに皺になってしまっているノートには確か英文が走り書きしてあったと、柳生は記憶していた。
仁王は眠たそうにひとつ欠伸をした後、再び腕に顔を埋める。重たい瞼に邪魔された切れ長の瞳が、こちらをぼんやりと見ている。

 「えーごかー…」

どーしよーかなーと一人ごち、再び欠伸。
次第に意識が覚醒してきたらしく、腕を伸ばして携帯を引き寄せ、のろのろとメールチェックをしているようだった。

 「私は4時半になったら帰りますので、質問があるなら早めにお願いしたいのですが」

自分も本日分の試験勉強のノルマを仕上げるべく、辞書を捲っていると、とある単語が視界に飛び込んだ。

desperate

確か以前も見て、引っ掛かった単語。

 「なんで帰る?」

文字列に奪われていた意識を唐突に戻され、意味も無く眼鏡に指をやりながら、顔を上げる。
その仕草は、どうやら気分を安定させたい時の癖のようなものであると、柳生自身気付いたのは中学に入って間もない頃だった。

 「赤也くんから、問題集を一緒に選んで欲しいと頼まれているんです」
 「ふーん」

モテモテだな、と口許だけで笑った後、携帯をペンに持ち変えた仁王は、頬杖をついたままこちらを見ずに再び口を開く。

 「もう4時半だ」
 「そうですね」

辞書をパタンと閉め、帰る準備に取り掛かると、机の下、脚にトン、と何かが触れた。

爪先。

 「ブン太くん、申し訳ないのですが、単語帳を見せて頂くのは明日という事で構いませんか?」

ブン太はヘッドフォンを片方ズラすと、OKのサインを指で作り、再び音の世界に戻っていく。

 「柳生、俺にも教えてくんない?」

そっと。
触れた彼の爪先が、ズボンの布地を滑る。下から上。撫でるように。

 「先約がありますので、また明日にして下さい」

無表情であしらおうと視線を外す。
仁王はそんな柳生の挙動を、じっと見ている。

 「今がいい」

まるで聞き訳の無い子どものように、仁王が繰り返す。

動けない脚。
に、絡まる爪先。

水面下の駆け引きのようなそれに、それを仕掛ける詐欺師に、柳生は敵う筈もない。
けれど。

 「駄目です。赤也くんが待っている」
 「俺がここに居てって云ってんのに?」

本心ではそんな事、全く思ってもいないクセに。
再び指が、眼鏡のブリッジに引き寄せられそうになったが、今度は意識的にその動きを止める事に成功した。

 「ここにいてよ」

悪魔の囁き。
こちらを見つめる彼の瞳に映る自分は、
彼が瞳に宿す想いは、虚か実か。

否。

また試そうとしているのか。
私を。

 「失礼します」

先に行動を起こしたのは柳生だった。
手早く鞄に残りの教科書を詰めてゆくと、隣を見る事無く立ち上がり、背中を向けた。
仁王は黙って、図書室を去っていく柳生の姿勢の良い後ろ姿を、見送る。
腕時計を見ると、もう40分になろうとしていた。
階段を降りながら、柳生は詰めていた息を、ゆっくりと吐き出す。同時に身体から余分な力が抜けていくようだった。
10分の遅刻。
後輩を待たせてしまうなんて、先輩として行ってはいけない行為のひとつだ。罪悪感で心が重くなる。

階段を一段、
降りる度、未だ自分の脚にまとわりつく、彼の体温。
その余韻に溺れながら、後輩の待つ場所に向かう。



 
「ここにいてよ」



彼の声が耳の奥で緩く疼く。
それを振りきるように瞳を閉じる。

彼はあの時、暗に試したのだ。
後輩と自分、どちらを選ぶのか。
そんな下らない選択肢を、戯れに提示したのだ。

玄関で上履きから靴に履き替え、心持ち早足で外に出る。
正門前に立っている、待ちくたびれた面持ちの後輩の姿を確認して、ほっと息を吐いた。

 「お待たせしました」
 「遅いっすよー先輩」

そして結局自分は選択肢を選び取る事無く、解答を拒否した。

 「行きましょうか」

何故か?






そんなもの、愚問だからだ。





■了■

 

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ただ純粋にここに居て欲しくて云ったのかもしれない仁王の言葉も、
これまでの経験から穿った意味でしか取れない柳生。すれ違いスパイラル。

参考までに
desperate:絶望的な、命懸けの、ひどい、自暴自棄の