休息



昨日も勝利。
この前も勝利。
練習試合も親善試合も公式試合も勝利勝利勝利。

ペアを組んでからずっと続いていたそれを、鬱陶しいというただそれだけの理由でぶったぎってみた。

奴の反応は余りにも、露骨な程に分かりやすいもので、結果余計うんざりした。



会場内、
試合が開催されているコートから出来るだけ離れた芝生の上で、
ごろりと横になった仁王はふわあと大きな欠伸をひとつ吐き出した。

 「あちーな…」

初夏にさしかかるこの時期、全国大会に向けて次々に試合が組まれ始める。
昨年の輝かしい成績から立海大付属中学テニス部はかなり優遇されていたが、
それでもやはり土日は見学や練習などで、試合関連の予定によって潰れていく。
自分が望んで籍を置いている部だし、一応それなりにレギュラー選手だ。
しかし面倒くさい、とまでは云わないが、別にわざわざこんな暑い時期にやらなくても、と自分勝手な事を考えたりもする。
尤も、試合中にはそんな事など全て忘れてしまうが。

影を選んだ筈なのに、否が応でも視線の端に入ろうとする容赦の無い日差しに対し、忌々しげに目を細めた。

今頃、あの生意気な後輩が試合をしている最中だろうか。

自分達の試合が終わりコートに戻った時、あからさまに敵意のこもった視線をぶつけられた。
なんて事やらかしたんですか。と、無言の非難。
別に何をした訳でも無い。ただ試合に負けただけだ。
誰にも何も云わず、伝う汗を厭うようにタオルを肩へ引っかけたまま、そこを出た。
どうせ後で死ぬ程真田の説教を聞き、平手まで覚悟しなければならないのだ。今くらいは遠慮したい。
出ていくまでの間中ずっと、背後の存在は徹底的に無視した。どんな顔をしているのかなんて、厭になる程分かっていたからだ。

ざわざわ、と木々が緩やかに葉を揺らす。少し風が出てきたようで、温いそれはタオルで覆った顔にも僅かに感じられた。
しかし心地良く鳴り続けていた葉の音に、ザリ、と地面を踏みしめる足音が混じった時、遅かったな、と心の何処かで静かに思う。

 「仁王くん」

感情の無い、呼びかける声に耳を傾けた。いつもより少しトーンが低い。
寝そべったまま、仁王は怠そうにのろりと顔にかぶせてあったタオルをめくる。
声のした方向に視線だけを動かすと、すぐ傍には柳生が両手にペットボトルを抱えて所在無げにつっ立っていた。
ここからは逆光になっていて、表情を見る事は少し困難だ。
ズリ…と肘を立てて上体を微かに起こすと、今まで微動だにしなかった柳生も、
持っていたスポーツドリンクの入ったペットボトルを腕を差し伸べ彼に渡し、隣の芝生の上に不器用に座った。

 「終わったの?」
 「はい、6-2で。今は柳くんが試合をしています」
 「ふーん」

気のない返事で応えながら、仁王は手渡されたペットボトルのキャップを外し、飲み口に唇を押しつける。
中身は冷たい。買ってきたばかりなのだろう。
柳生は両膝を立て、そこに両腕を乗せた体育座りの姿勢でそこに座ったまま、
硬い表情を崩さずただ一言、すみません。とだけ告げた。

 「…なにが」
 「負けてしまって。私の力不足でした」

なにが。
仁王の口の端が歪み、頭の芯が冷えていくのを感じる。
あれは自分が謀ってわざと負けたのだ。何が自分の力不足だ。
こういうところが、大嫌いだった。

 「…お前さー」

云って、再びペットボトルに口をつけ、ごくりと喉を潤して。

 「なんでテニスやってんの」

姿勢を崩さず、隣でぼんやり遠くを見ていた柳生が、ゆっくりと仁王の方を向く。
透明のレンズに遮られた二つの瞳は、恐ろしい程に沈みきっていた。

 「何故、って…」

呟きながら、少しだけ困惑したような表情を浮かべる。
唐突に投げかけられた質問にどう答えるべきか迷っているのか、何度も言葉にしかけては、躓くようにすぐに云い淀んだ。

 「…何故でしょうね」

そしてようやく口にしたのは、逆に相手に問い返すような、まるで答えになっていない答えだった。
柳生は云いながら、頭の片隅でじわじわと過去の記憶が甦ってくるのを感じる。

この会話は、確か以前にも交わした事がある。
あれは、ダブルスを組んで間もない頃だったろうか。珍しく部活に参加していた仁王が、不意に尋ねてきたのだ。
柳生は思い出す。あの時、自分は。

(父がテニスをやっていまして)

空気の匂い、地面の固さ、ボールの感触まで思い起こされる。
そう、幼い自分は父に誘われ一緒に近所のテニスコートに出かけた。それが最初だった。
大きなラケット、父の姿を見よう見まねで模倣しては、ポンとガットに跳ね返る感触がとても気持ちの良い事に気がついた。

(それで私も真似をして打ち始めたら、父に誉められました)

穏やかに笑って自分を誉める父。丁寧に優しく持ち方や姿勢を教えてくれた。
筋がいいですね、上手ですよ。と云われる度に、子ども心に純粋に嬉しくて、気持ちがふわふわした。

(それ以来、ずっと)
(誉められたかったの?)

不思議そうにこちらを見る、切れ長の瞳。
一瞬にして本心を見透かされたような気がして、返事に詰まった。否、何も云えなかったのだ。

(柳生、ファザコン?)
(そういう訳では…)
(じゃあ何で続けてんだよ)
(父も…誰も、辞めろと云わなかったからです)

は〜!と呆れたような奇妙な声を出した後、仁王はそれきりその話題に触れなかった。
あの時は、何かおかしな事を云ってしまったのだろうかと何度も考えていたのに、
いつの間にか、自分自身でさえもそんな出来事があった事を、忘れていた。

あの時は父の為にやっていたテニスだったけれど。

 「…仁王くんは」
 「女にモテる為」

って云わなかったっけ?
と、タオルを肩に掛けなおした仁王が指に挟んだペットボトルをぷらぷらさせながら、柳生の方を首を傾げ見上げる。

 「…あぁ、そうでしたね」

中指でスッと眼鏡のブリッジを押し上げ、柳生が目を伏せる。
あの時、自分が問われた時に彼も云っていたではないか。あっけらかんと、何故か自信に満ちた顔で。

 「…って思ってた筈なんだけど、なんかそれは違うんだよな」
 「…?」
 「結局自分の為にやってんだよ。モテてーのも、レギュラー取りてーのも、勝ちてーのも、全部」

こちらを見ずに、淡々と告げる仁王。
何故彼は今、この話を蒸し返す気になったのだろう。
柳生の胸の奥底にジワリと不安がよぎっていく。温い風が頬に触れるが、それすら感じない程、二人の間の空気は乾いていた。

 「だから」

再び彼が口を開く。
やはりこちらを見ないまま、切れ長の瞳は遠くを見たままだった。

 「お前も、お前の為にテニスをしろ」

柳生は仁王の横顔を見つめ続けたままで、動けない。
あの時は父の為にやっていたテニスだった。
誉められる度、父に自分の存在を認められたような気がした。
だから続けた。認められたくて、ずっと。

けれど今は、仁王の為だけにテニスをやっている。
負けたくないのは、必死に勝ちを求めているのは、彼を落胆させたくないからだ。
彼に、落胆されたくないからだ。
そんな自分を、彼は既に見抜いていたのだろうか。

 「じゃないと重い」

一言そう云い放ち、何も答えられずにいる柳生の横に、再び仁王がごろりと横になる。
日除けか、それとも別の理由からなのか、タオルを頭から被って顔を見えなくした。
ダブルスをやっている筈なのに、全然やってない感じ。
仁王が常に感じているその違和感の原因は、おそらく柳生にあるのだ。
必要以上に一人で努力して、必要以上に一人で苦労をして。そして一人で窮地を切り抜けようとする。
柳生と組んだダブルスは、全くダブルスの意味が無かった。これでは自分の居る意味が無い。
だから、鬱陶しかった。だから、ぶったぎった。
一人だけでただ闇雲に頑張っても、ダブルスでは勝てない事を馬鹿な柳生にしらしめてやりたかったから。

 「柳生ー」

タオル越しのくぐもった声に、未だ固まったままの柳生はそれでも小さくはいと答えた。

 「次は勝つぞ」

ざわざわと木々を揺らすその風に乗って、遠く離れたコートで沸いた大きな歓声が、耳に届く。
試合が終了したのかもしれない。それでも柳生は立ち上がれない。
横で仰向けに寝転がっている仁王を見つめたまま、今度ははっきりとした声ではい、と答えた。





■了■

 

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たまには優しく。