発覚
柳生に好きだと告白された。
訂正。
柳生に「好きだ」と認識させてしまった。
人気の失われた冬の廊下は、痛むように冷たい。
足の爪先から凍りついていくような、そんな錯覚すら覚える程。
それとは別に、全身が凍りそうな状況に仁王は今、立たされている。
放課後、素行成績及びその他の事で担任に呼び出され説教を喰らった彼は、
ようやく解放された後、大幅に遅れてしまった部活に参加すべく、早足で教室に荷物を取りに行く途中だった。
教師よりも立海テニス部の先輩の方が、自分にとっては恐怖の対象だ。理不尽な事で、気に入らないと殴るのだから。
部室に行く時間も惜しいので、誰も居ない教室でさっさとユニフォームに着替え、ずしりと重いテニスバッグと鞄を手に取った。
ちらりと窓に視線を移せば、薄暗くどんよりとした分厚い雲が空全体を覆っている。
ここ二、三日の気温から考えて、雪が降るかもしれないな、などとどうでもいい事を思いながら扉を開け、
教室から一歩足を踏み出した瞬間、廊下に立っていた思わぬ人物と視線がぶつかり、一瞬息を詰める。
柳生だった。
クラスも違う。
同じテニス部員だが、数える程しか話した事は無い。
ただ、気が付けばそこに居るだけの、そんな存在。
だから。
「仁王くん」
彼から名を呼ばれた時は、少なからず驚いた。
それとは別に、仁王は以前からこの男に対し、気に掛かっている事があったのだ。だから、余計に。
「…何やってんの?部活、早く行かんとまた先輩に怒鳴られるぞ」
云いながら、最後の言葉は不自然に失速していく。
こちらを見る柳生の顔には、目立たないが目と口の端にうっすらと色の薄い痣があった。
先輩か、それとも。
「……」
(…あれ、今のどっかで触った…)
僅かに蘇る既視感。思い出そうとするが、それはするりと尻尾を翻し、自分の記憶から逃げていく。
心の中で舌打ちし、直後そんな自分に少しだけ戸惑う。
そんな事、自分にとってはどうでもいい事ではないか。
雰囲気を変えるように、肩に掛けたテニスバッグを担ぎ直した。
「用が無いなら先行くけど」
そう云って背中を向けかけたが、いい機会だからこの場で訊いていこうか、という気持ちになり、足を止める。
気になるのだ。
「…あのさァ、前から訊きたかったんだけど」
振り返って、再び柳生に視線を戻した。彼は薄暗い廊下に所在無げに立ったままで、こちらを見ている。
「何ですか」
こちらを見ている。
「お前さ、なんでそんなに俺の事見る訳?」
ずっと、視線を感じていた。
何時からか、分からない。何時の間にか、気が付けばずっと。
柳生が、自分を見ていた。
「…」
表情を崩さない男は、少しだけ返答に詰まった後、形のいい指先をそろりと顎に持っていく。
まるで紳士が優雅に考え事をしているような仕草。一介の中学生がやると、それは滑稽でしかないのだけれど。
「私は、貴方を見ているのですか」
「や、見てるだろ思っきし。つーか気付いてなかったとか云うなよ」
廊下で。
部室で。
コートで。
無遠慮にぶつけてくるその眼差しが、気になって仕方が無かったのだ。
仁王の指摘を受けても柳生はやはり表情を崩す事無く、ゆっくりと口を開く。
「気になって仕方が無いのです」
その言葉は、まるで先程までの自分の考えをそのままなぞられたようで、薄気味悪かった。
気になって仕方が無いのは、自分の方だというのに。
「気がつけば貴方の事を考えています。貴方が自分の視界に入ると落ち着かなくて、精神が不安定になる。
けれど何時の間にか貴方を探してしまうのです。無意識に、そうですか、やはり私は貴方を見ていたのですね」
一方的に頷いて、納得するようにそこまで云い終ると、柳生は痣の残っている自分の口許にそっと指先を這わせた。
「一体何なのでしょうか、この感情は。自分で自分が制御出来ないのですよ」
困りました。
ポツリ、と置き捨てるように呟く柳生を、仁王はただ無言で眺めていた。
脳内ではとりあえず目の前の男が吐露した心情を物凄いスピードで処理しようとしている。
待て。
この男は。
今とんでもない事を云わなかったか。
自分に対して向けているこの感情は。
「好きなのか?」
頭の中で弾き出されたひとつの答えは、無意識に声となって口から出ていた。
柳生がゆっくりと顔を上げる。
「好きなのか?俺の事」
レンズ越しの瞳が、静かに細められる。
「好き、」
無性に喉が乾く。
落ち着かない。なんだ、この空間は。
ずっと同じ場所に立っている所為か、厳しい寒さのせいか、爪先が痺れて酷く痛む。
「私は、貴方の事が、」
なんだ、こいつは。この男は。
仁王の胸の中に、ずるずると得体の知れない鈍重な感情が澱となって沈殿していく。
「好きです。」
確信に満ちた、まるで数式の解答を出すように簡潔な、明瞭な声で。
柳生は仁王に「告白」した。
気持ち悪い。
思わず口許が歪む。
その感情が、では無くて。
その感情が何たるかを知らなかったのが。
そして自分から教えられたそれをそのまま鵜呑みにしてしまう事が。
まるで 刷り込み のような。
「…寒い冗談は止めてくんないかな」
猛烈に後悔が襲う。数分前の自分は一体何を考えていたのだろう。
思ったとしても口には出さないだろう。好きとか。なんだ好きって。混乱する。
ただでさえ冷蔵庫のような冷気漂う廊下の所為で、身体が芯から冷えてきているというのに。
「冗談?いえ、冗談ではありません」
私は貴方の事が好きです。
抑揚の無い声で再びそう告げられ、どうしようもなく不快になった。
どうして。
自分とは全く無関係な人間だった筈なのに。
何故今はこんなにも、自分の神経を引っ掻くのか。
好きとか。
「俺の事、ほんとに好きなの?」
ほんと訳理解んないんだけど。
「はい」
だからなんでそんな自信あんの。
「ふうん」
真っ直ぐ云えんの。
首を傾げる。薄い笑みを口許に作って、正面の男を見つめる。
「でも俺、お前の事好きじゃないよ」
男はそれでも表情を変えない。レンズに隠された瞳すら動かない。
試す。
想いを。
偽物か、それとも。
「私はそれでも、貴方の事が」
本物か。
「好き?」
確かめる。
その想いを。
柳生は静かに頷く。
何故か一気に肩から力が抜けた。
本当はこいつ、馬鹿なのか?
訳が理解らない。学校が誇る完璧な秀才が何故、こんなにも簡単に自分を捨てるのか。
自分の事を好きだと云うのか。
訳が理解らない。反面、とても面白い。
柳生という男に対して、興味が湧いてくる。同時に、関わりたくないと思う。
相反した感情が仁王の胸の中を渦巻く。じっとこちらを見ている男を、瞳を細めて眺め返す。
「…分かんねぇな。柳生、男スキナヒト?」
「いえ。好き、という感情を持ったのは、仁王くんが初めてです」
至って真面目な顔でサラリと薄ら寒い事を述べる柳生の、そのギャップに仁王はなかなか馴染めない。
「だから、そこが分かんない訳。なんで俺なんか好きなの?」
お互いの接点なんて、入学してから今まで何ひとつ無かった筈だ。
クラスも違うし、部活だって喋った事なんて余り無い。ちなみに未だに柳生の下の名前は知らない。
「貴方は優しい人です」
唐突に繰り出されたその言葉に、仁王は思い切り眉を顰めた。よりによって優しい。優しい人?
けれど柳生はやっぱり通常通りの真面目な顔で、こちらをじっと見つめている。
凝らすようにこちらの顔を見るのは、視力が弱い所為だろうか。それとも只の癖だろうか。
「…いや、優しいとか」
優しい?
女相手ならいざ知らず、男に優しくした覚えなんて無い。
ましてや自分とは正反対のタイプのこんな男相手になんて、記憶を総ざらいしても全く出てこない。
空気と同様凍りついた沈黙が、二人に降りかかる。
しばらくして、腕時計にちらりと視線を落とした柳生が、顔を上げる。
「お話の途中で申し訳ありませんが、仁王くん、そろそろ部活に行った方がいいのでは」
急に現実に引き戻され、仁王もつられるように顔を上げた。確かに、このままでは罰として外を何十周走らされるか分からない。
自分から突然寸断した会話もそのままに、柳生は失礼、とこちらに向けて軽く会釈した後、鞄を肩に掛け直しさっさと歩き出していった。
これ以上話を続けても、無駄だと思ったのか。
それとも単に、部活にこれ以上遅れるのが嫌だったのか。
中途半端に放り出された告白の、その後味の悪さが妙に残って振り返り、柳生を見る。
「…」
その、嫌味な程に姿勢の良い真っ直ぐな背中を奇妙な気持ちで見送った後、仁王も反対方向へ踵を返した。
柳生が歩いていった方向に倣う方がテニスコートに出るのには近いのだが、敢えて別の道を選んでしまった。何故だか分からないが。
柳生。
下の名前が気になった。
何故だか分からないが。
■了■
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思った以上に柳生が電波っぽく…。
1年の冬、ここから仁王の受難が始まります。