雨の日



 「ん?」

生徒用玄関でのろのろと上履きから靴に履き替えていた仁王は、
顔を上げた視線の遥か先に佇んでいる、見慣れた男を、発見した。

 「カオリちゃーん。悪いけど傘貸してくんない?」

ちょいちょいと招くように指を動かす仁王の隣で彼を待っていた女子生徒が、
訝しげな表情を浮かべながら、しかし云われた通りに小柄の可愛らしい傘を彼に差し出した。

 「いいけど、何すんの?雅治」

珍しく相手の部活が休みになった事で、
随分前から交していた一緒に帰る約束が、ようやく叶えられようとしていたのに。

 「すぐ戻るから」

不満そうに見上げる彼女の薄茶色の髪の毛をするりと撫でると、傘を借りた仁王はさっさと玄関の階段を下っていく。

(なんなの?アイツ)
自分と一緒に居た時とは明らかに異なる表情を浮かべていた。
不可思議な行動。相手が相手なだけに、全てを理解ろうするなんて不可能だけれど。

鞄を腕に抱え直し、半ば諦めたように溜め息を吐いた女子生徒は、下駄箱の柱に身体を預け、一先ず彼の帰りを待つ事にした。



仁王の視線の先。
そこには、雨の中で傘を差さずに歩いている柳生が見えていた。
玄関から校門を出るまでの一本道を独り黙々と進んでいたのだが、

 「やぎゅー」

背後から突然投げられた、聴き慣れた声に足が止まる。
振り向けば、可愛らしい小手鞠模様の傘を差した仁王がそこに立ち、こちらを見てだらしなく掌を振っていた。

 「まーた面白い事してんじゃん」

ニヤニヤと、自分を見付けた事がそんなに嬉しかったのか、瞳には悪戯な笑みを浮かべながら、ずぶ濡れの柳生に近付く。
常に律儀に整えられている彼の髪の毛は、この雨のせいで僅かに前髪がほつれ、乱れてしまっていた。

ザアザアと耳を打つ雨。

 「また傘隠されたん?」

水滴のついたレンズでは、仁王くんの表情が上手く読み取れない。
柳生はそれを少し残念に思いつつ、白い息と一緒に彼に対する返事を吐き出した。

 「いえ、クラスメイトの一人が傘を忘れて帰れないと困っていたので、良ければと思い貸して差し上げました」
 「お前が帰れなくなるじゃん」
 「私はバス停まで行けば、後は濡れませんし、」

既に盛大に濡れていると思うのだが。
髪から制服から鞄から、こんだけ水滴落として乗ったらバスの運転手もさぞや迷惑だろうな、
仁王は目を細め、見事に濡れ鼠と化している正面の男を眺める。

 「それに、女性は身体を冷やさない方がいいですから」

柳生は小さくそう呟いた後、カシャリと神経質な音を立て眼鏡を取った。
雨に打たれ過ぎた指先は色を失い、病的な程に、白い。

 「さすが紳士。優しいねえ」
 「当然の事でしょう」

水分を含み黒く重たくなった鞄の中から、ハンカチを取り出す。

仁王くんの顔が、ぼやけて見えない。それが不安で。

そのハンカチも既に雨による侵食で色が変わってしまっていたが、
ハラリと落ちてくる濡れ固まった前髪を煩わしげにかき上げながら、柔らかな布で眼鏡のレンズを拭う。
こう雨足が強くては拭いたそばからまた濡れてしまうのに。

馬鹿だなー。仁王は思う。

 「そんなジェントルな柳生くんにプレゼンツ」
 「?」

何事かと顔を上げた柳生の頭に、ふわりとスポーツタオルが被せられた。

 「…」
 「今日の体育で使用済みだがまあ許せ」

ア、そっちの方が好都合?

と、一段艶のある声で付け加え、呆然としている柳生に小悪魔のような笑顔を向けた仁王は、傘をくるりと翻し元来た道を戻っていった。

ザアザアと。
耳を打つ雨音が、何時しか聴こえなくなっていた。



 「お待たせェ」
 「遅い」

生徒玄関で所在無く立っていた女子生徒は、ようやく戻ってきた待ち人を、持っていた鞄で軽くはたく。

 「何やってたのよ」
 「ん〜?」

折り畳んだ傘を彼女に返しながら、仁王が肩についた水滴を手で払った。
流石に女性物の傘では、自分の身体を全てカバーする事は不可能だったらしい。

 「聞いてんの?雅治!」
 「聞いてるよ。ちとヤボ用」
 「そんな事云って、他の女にでも会ってきたんじゃないの?」

詰問する彼女の表情は長い間待たされた苛立ちも積もり、より険しいものとなっている。

 「いやそれは無え。ありえねえから」

思わず吹き出しつつ、仁王が彼女の怒れる細い肩をなだめるように優しく抱いた。

 「じゃあ何してたのよ」

それでも食い下がる、その柔らかな髪にキスを落としながら、

 「アメをね、あげてました」

口許にそっと笑みを引いた。

 「…アメ?」
 「そ。」

アメとムチって知ってる?

カオリちゃん。仁王は余り頭の良くない自分の腕の中に居る女に問いかける。

 「たまには優しくしとかないとね」

不可解な顔を浮かべ眉を寄せた彼女のそこを唇で軽く触れながら、そう独りごちた。



雨に濡れ、色を失った、
無表情で白い、男の姿を静かに想いながら。





■了■

 

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柳生は成績は良いのですが、仁王に対してだと頭悪くなります、みたいな。
仁王の事しか考えられなくなる。そんな柳生を馬鹿だなーって思う仁王の話。