部室
「あ」
扉の隙間から見える、顔。
嫌な男と、遭ってしまった。
「おつかれー」
室内に無造作に置いてあるパイプ椅子に座った仁王が、扉を開けたブン太に型通りの言葉を掛ける。
帰り支度を済ませ一旦部室を出た彼は、正門を通り過ぎた頃忘れ物をした事に気付き、
再びここに戻って来たのだが、居残っている仁王の姿を見て何となく嫌な気分になった。
けれど仁王はブン太のそんな気配を気にする事無く、誰かが置いていったのか、読み古された雑誌をゆっくりと読み耽っている。
気まずい。
というか、雰囲気が重たい。
そう思うのは自分の勝手な思い込みだろうか。
(矢張り彼が好きなのですよ)
昼間、あんな事を聞いたから。
(仁王くんの事が、好きなんです)
あんな表情を、見てしまったから。
淡く残る苦い記憶を首を振って乱暴に意識から追い出し、自分のロッカーの中に置き忘れた雑誌を探すが、見付からない。
あの雑誌、誰に貸したんだっけ。
ブン太はふと手を止めて最近の記憶を辿ってみた。ジャッカルだったか。いや、あいつには渡っていない筈だ。
貸したら最後、紛失されて結局戻ってこなかった。それを数度繰り返されて、キレて殴って互いに懲りた。
あ。
違う、柳生だ。
思い出した瞬間、反射的に振り返って仁王の後ろ姿に声を掛ける。
「仁王、柳生もう帰った?」
ペラリ、
惰性的にページを捲る、音。
「今コンビニ行ってる。もうすぐ戻ってくんじゃね?」
仁王の後ろ姿は軽い調子でそう返してきた。
コンビニ。
部活が終った後に?
奇妙な返答と柳生の行動に、ブン太は微かに眉を顰める。が、深く追求する事は避けた。
ギシギシと軋む建て付けの悪いロッカーを閉め、少しだけ思案した結果、
部室の隅に置いてあったパイプ椅子を平机の前まで移動させると、腰を下ろしそこで彼を待つ事にした。
とはいえ今日に限って暇つぶしの道具を持っておらず、手持ち無沙汰なので机の上に放り出してある部誌に手を伸ばす。
確か自分の当番がそろそろだった気がしたので、それを確認する為ページを捲っていくと、本日分の部誌を書いたのは柳。
ああ、やっぱりもうすぐ自分の番だ。確認しておいて良かった。
壁に掛かる時計の、正確に時を刻む秒針の音だけがやけに室内に響く。
良く考えると仁王と二人きりになった事は、滅多に無い。
おそらく向こうもそう思っているだろう。
けれど特に話す事も無い。必要も無い。
多少居心地は悪いが仕方が無い、と諦める。
人と人との間に会話の「間」が生まれる事を極端に嫌うブン太だったが、仁王に関しては自分から無理して話す努力はしたくなかった。
互いに沈黙。
「丸井さァ」
それを先に破ったのは、仁王。
「俺の事嫌いだろ」
唐突に口火を切られ、ブン太は思わず顔を上げて仁王を見る。
しかし相手は先に話しかけてきたクセに、視線は雑誌に落としたままだった。
そういうところも、気に食わない。
「嫌いだよ」
あっさり正直に答えると、仁王は俯いたままで口許だけを器用に綻ばせる。
「やっぱり」
心持ち声が嬉しそうなのは自分の気のせいだろうか。ブン太もさっさと部誌に視線を戻した。
「元々好きじゃなかったけど、柳生の話聞いて決定打」
「柳生?」
回りくどい事はせず、そのままいきなり直球で本心を述べると、仁王は柳生という単語に反応したようだった。
「あいつの気持ち知っててこういう事してるんなら最低だって事」
ポケットからガムを出して、口に放り込む。
それまでは知らなかった。
柳生が一方的に、仁王の事を好きなのだと、思っていた。
けれど、仁王は知っていたのだ。随分前から柳生の気持ちを。
知っていて、わざと、柳生を傷つけていた。そうかと思えば優しく接していたのだ。
もしかして自分は踏み込んではいけない領域にまで踏み込んでいる気もしないではなかったが、この際全部さらけ出してみようと思った。
義憤、とか、そういった立派な理由で怒っているのでは無いのだと思う。ただの自分勝手な感情だと。それは自分でも分かっている。
お節介と、突っ撥ねられればそれまでだ。けれど。
どうしても。
放っておけなかった。
対する仁王はブン太の言葉を受けて、ようやく気怠そうに顔を上げる。
「最低かあ」
一筋だけ長く伸ばした後ろ髪を指先で弄びながら、やっぱりどこか嬉しそうに。
「柳生の気持ちに応える気も無いクセに、なんであいつに構うんだよ」
喋りながら、今のは明らかに第三者の線を越えた発言だと思った。心の中に、黄信号が灯る。
頭では分かっているのに、なのに何故か口が勝手に言葉を紡いでいく。感情が先走る。
仁王は相手のそんな様子を無視して、膝の上に乗せていた雑誌を机上に移動させ、開いていたそれをパタンと閉じる。
そのまま表紙の上に肘をつき、先程からずっと自分をにらみつけているブン太を、そのややきつめの切れ長の瞳で射返した。
「例えばさ、自分がそいつの事を殴っても、蹴っても、罵っても、そいつが自分の事好きだって云う訳」
明らかに自分達の関係を乱そうとしている他人に対し、牽制と威嚇の混ざった声音で威圧的に、言葉を続ける。
「どれだけ突き放しても、自分の事が好きで、絶対に信じてる。そういう奴、居たら面白いじゃん。自分の傍に置いておきたいって、」
無意識にきつく握っていたブン太の手が、小刻みに震える。
「そう思わねぇ?」
まるで至極当然のように。そんな事を云ってのける目の前の男を、張り倒したいと思った。本気で思った。
何故。
「…あいつが可哀想だ」
何故柳生は。
こんな人でなしを好きだと云うのだろう。
こんなタチの悪い詐欺師に引っ掛かるなんて、どうかしてるとしか思えない。
「そうか?俺は幸せだと思うけど」
仁王がぽつりと呟く。それはブン太の怒りの火に油を注ぐような振る舞いでしかなかったけれど。
「ずっとただ一人の事を想って、生きていけるなんて」
この男にしてはロマンチック過ぎるそんな言葉を、ブン太は唐突に「だーもー!」と一際大きな怒鳴り声で遮った。
「お前絶対いい死に方出来ねーぞ、俺が保証してやるからな」
「女に刺されて死ぬのが理想なんで」
「柳生に刺されろ」
割と本気で吐き捨てたら、
「柳生は刺さないよ」
確信に満ちた声で、そして。
「刺せねーよ」
静かにそうつけ加え、返ってきた。
柳生もオカシイとは思っていたけど、仁王の奴も相当キている。
ブン太は改めて思う。この二人の、互いの想い方は絶対何処か歪だし、理解も出来ない。したくもない。
けれどこの二人にとってはこの歪な、不安定でどうしようもない関係が一番似合っているのかもしれない。
既に味の無くなったガムを捨て、新たに二粒口に入れる。ついでに余った一粒を、仁王めがけて放り投げた。
「ほんっと駄目だ。マジで嫌いだお前の事」
飛んできたガムを器用にキャッチした仁王は、それを口に含んだまま笑う。
「奇遇だねぇ。実は俺も同じくらい嫌いだよ」
「うっせーハゲ」
「ハゲはお前の相棒だろーが赤髪」
「お前が云うな白髪頭。んなに色抜いてたら将来ハゲんだよ」
下らない、とても下らない悪口を交しながら、柳生の帰りを二人して待つ。
数分後、部室の扉を開けた柳生は、何故か三人分のアイスクリームを袋に下げて帰ってきた。
三人で、部室で、奇妙な雰囲気の中アイスクリームを食べる。
仁王に対して悪態を吐きながら食べたバニラの味は、けれど、妙に甘くてずっと心に残った。
■了■
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ブン太と仁王のくだらない口喧嘩が書きたかった…。